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第26話 海

 葵を番にした翌日、俺は彼を勝手に病院から連れ出した。  心拍数も呼吸も弱り、まるで風に揺れる灯火のように儚くなった葵を、病院のベッドからそっと抱き上げ、車に乗せた。  医師として、これは許されない行為だとわかっていた。  葵の命が尽きかけていることも、理性では理解していた。  それでも、αとして、葵の番として、どうしても彼を海に連れて行きたかった。  葵がスケッチブックに何度も描いた、あの海を見せるために。  彼との約束を守るために。  その約束だけが、俺の心を突き動かし、どんな代償を払っても果たしたいと願った。  目的地は、病院から最も近い海。  普段なら車で一時間程度の距離だが、葵の状態を考えると急ぐわけにはいかなかった。  持ち運び用の小型人工呼吸器のガス残量を何度も確認し、首筋に触れて脈や体温を確かめる。  そのたび、冷たさを増す彼の肌に、胸が締め付けられた。 「葵、もうすぐだからな……頼む、頑張ってくれ……」  微かに目を開けて、マスク越しに微笑んでくれる葵の表情に胸が締め付けられる。 「……はぁ、……はぁ、ゆう、ま……の、運転……してるの、初めて……みちゃ、た」  呼吸するのも苦しいはずなのに、俺が運転する姿を見て、嬉しそうに話しかけてくる葵。  そのか細い声が、俺の心を温めると同時に、失う恐怖を一層強く刻みつけた。  これ以上、葵の負担を増やさないように、慎重にアクセルを踏む。  病院を出た時よりも弱っていく葵の姿に、恐怖と後悔が心を刺した。 「もう少し……もう少しだけ、俺と一緒にいてくれ……」  祈るように呟き、夕陽が沈む前にたどり着くことを願った。  三時間。  普段の三倍の時間をかけ、ようやく海にたどり着いた。  ◇ ◇ ◇  ゆっくりと沈みゆく太陽。  辺り一面がオレンジ色の光に包まれて、葵も俺も、温かな夕陽の色に染められていた。  砂浜に直に座り、葵を背後から包み込むようにそっと抱き締める。  彼の身体はあまりにも軽く、まるで壊れ物のように感じられた。 「葵、遅くなってごめん……」  浜辺には俺たち以外誰もいなかった。  さざ波の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが響く。  まるで世界が、俺と葵のためだけに静まり返ったかのようだった。  その静けさが、俺たちの最後の時間を特別なものに変え、葵との絆を強く感じさせた。 「葵との約束……海に連れてくって約束、夕陽と一緒になっちゃったな……」  か細い呼吸を繰り返す彼を胸に抱き、涙を堪えながら話しかける。 「ほら、見えるか?もうすぐ、陽が沈むぞ……。葵の描きたかった海、夕陽で真っ赤に染まってる……」  冷たくなっていく手を温めようとギュッと力を込める。  だが、握り返す力はもう残っていないのか、微かに指先を曲げるだけだった。  浅い呼吸を繰り返し、薄く開かれた瞳は焦点が定まらない。  眩しい夕陽の光も、もうはっきりとは見えていないのかもしれない。  それでも、葵の瞳には、かつて見た海の青さが宿っているような気がして、胸が締め付けられた。 「葵、覚えてるか?お前が描きたいって言っていた海は、こんな色だったのかな?赤くて、温かくて……葵が、思い描いていたのとは……違う海なのかな?」  ちゃんと伝えてやりたいのに、声が震えてしまう。 「昼間の、真っ青な海を……描きたいって、言ってた、よな……」  葵が集めていた青色の色鉛筆。  青だけでも何十色もあるのだと知った。  「ごめん、な……次、来たときは……青くて、綺麗な海……見に来よう、な……」  葵が色鉛筆以外も欲しいと言っていたが、願いを叶えてやることができなかった。 「次、来たときは……今度はちゃんと、スケッチブックも持って来ような……」  あの時、葵が本当はどんな色を求めていたのか、もっと聞いておけばよかったと、今になって悔やまれる。  夕陽に染まる海。  星空の下の海。  月明かりに輝く海。  朝の光を反射して、キラキラ輝く海。 「葵が、満足するまでたくさん、デートしに来なきゃな……」  できるだけ笑いながら約束を口にする。  こんな、守れない約束しか口にできない自分が憎い。  それでも、葵の笑顔を思い浮かべながら、未来を語ることで心を繋ぎ止めたかった。 「……ゆ、ま……ぁり、が……と……」  葵の掠れた声が、かすかに聞こえた。  若草色の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。  夕陽を受けて煌めいたその雫は、砂浜へと落ちる前に、俺の指先を伝った。 「葵……?」  彼の名前を呼ぶも、返事はなかった。  それでも俺は、ただ疲れて眠っただけだと思いたかった。 「なぁ、葵。海、見えたか?」  そっと彼の頬を撫でるも、葵は何も答えてくれない。 「ほら……夕陽、綺麗だぞ」  肩を抱き寄せ、耳元で優しく話しかける。  少し前まで微かに聞こえていた呼吸音が、今は聞こえないことに気付いた。  それでも、認めたくなかった。 「葵……?」  震える指で、葵の首筋に触れ、脈を探す。  何度も、何度も、何度も……  医師である俺が、一番わかっていた。  もう確かめる必要なんてないことくらい、わかっていた。  それでも、指を離すことができなかった。 「なぁ……葵」  頼むから、目を開けてくれ。  また笑ってくれ。  運転が下手だったって笑ってもいい。  見たかった海の色じゃない!って、文句を言ってくれ。  俺の願いとは裏腹に、腕の中の身体は静かなままだった。  「ッ……葵!葵っ!」  何度名前を呼んでも、もう二度と返事は返ってこなかった。  抱きしめる腕に力を込めるも、俺の腕の中にいる愛しい人は、もう何も応えてはくれなかった。  魂の抜けた葵の身体を抱きしめ、俺はその場で泣き崩れた。  愛してやまない愛しい人を、俺は自らの手で失った。 【番】にしたことで、葵の命を奪ってしまった。  わかっていた。  末期の葵を番にすれば、どうなるのか……  医師として、誰よりも理解していた。  それでも……俺は、止まれなかった。  愛するΩを、自らの手で殺めたも同然だった。  その事実が、俺の心を鋭い刃のように切り裂き、永遠に癒えない傷を刻んだ。  彼の願いを叶えたいと思った。  愛してると言われて、失いたくないと思った。  だから、俺は……自分で選んだ。  あの夜、俺たちは確かにひとつだった。  葵の笑顔、温もり、月下美人のようなフェロモンの香り。  触れ合った熱、葵の吐息、感じすぎて涙を流す愛しい姿。 『愛してる』と何度も伝えあった。 『もっと早くに出会いたかった』と、出会えなかった時間を埋めるように愛し合った。  葵の言った言葉が、今も胸を刺す。  もっと早く出会えていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。  それでも葵は……俺との関係を望んでくれた。  俺の番になることを選んでくれた。  その選択が、葵の命を縮めたのだとしても、彼の愛は俺の心に永遠に生き続ける。  ◇ ◇ ◇  腕の中で冷たくなっていく葵を抱きしめたまま、夜が訪れる。  海に溶けるように落ちた太陽。  夏の星座が広がる夜空。  葵の髪色のような、明るく美しい満月。  夜へと移りゆく世界の情景を葵に説明した。  葵のように色を表す言葉が上手く出てこなくて、赤や青や紫といった単純な色しか言葉にできない。  それでも、葵ならどんな言葉でこの美しさを表現するだろうかと、想像しながら語り続けた。 「葵、夜空も綺麗だな。今日は天気がいいから、星が降ってきそうなくらいたくさん見える。……お前の好きな星、全部見えるぞ」  冷たくなってしまった彼に、俺はずっと語り続ける。  葵なら、この景色をどんな風に描くかと想像しながら。 「月もな……葵の髪みたいに、優しい色してる……」  はちみつ色の柔らかな軽いウェーブがかかった葵の髪を撫で、冷たくなった頬にそっと唇を寄せる。  その冷たさに心が締め付けられながらも、彼の存在を肌で感じることで、壊れそうな心を繋ぎ止めた。  もうあの月下美人の香りは感じられない。  葵のフェロモンは、俺の記憶の中にしか残っていない。 「葵……愛してる……」  愛しいΩに向かって、俺は何度も同じ愛の言葉を繰り返す。  もう届かないとわかっていても、愛しいと思う気持ちを切り捨てることなんてできない。 「もっと一緒にいたかった……。葵の絵、もっと見たかった……」  葵のスケッチブックに描かれた夕陽の絵を、俺はこれから何度も見返すだろう。  彼の笑顔を、声を、温もりを……忘れないように。 「葵……ありがとう。俺の番になってくれて……」  その言葉を口にするたび、葵の愛が俺の心に灯火のように宿り、闇を照らしてくれる気がした。  夜空の下、さざ波の音に包まれながら、俺は葵を抱き締め続けた。  この海で、葵との約束だけは守れた。  葵に海を見せることはできた。  それなのに——  一番守りたかった命だけは、守れなかった。  医者なのに……  番なのに……  愛していたのに。

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