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がらくた
朝、彼がマンションの敷地を出ようとしたとき、その人はごみの山のふもとに一人掛けソファを一つ置いて、彼の方を振り返った。彼はそのソファの目を引く黒さやごみの山の異様な厳めしさやなんといってもその人の尋常でない足の速さを言い訳の利かないくらいじろじろと眺めていたので、当然その人と目が合ってしまった。その人は笑って、おはようございます、と言った。笑い皺は濃く肌は緩く、二十二の彼より十ではとってもきかないくらい年上に見えた。彼はおはようございますと返したあと、それは何ですかと聞いた。今日まで僕の買ってきたものですとその人は答えた。なるほど、と彼は言った。その人はまた言った。ですので、まあ、がらくたです。
二ヶ月して、彼はその人が黒いソファをマンションに運び込むのに出くわした。彼はエレベーターを降りたところで、その人はエレベーターホールを通り過ぎて奥の廊下に進もうとしているところだった。彼に気づいてまた笑った。こんにちはと言った。彼はこんにちはと返したあと、それは何ですかと聞いた。ソファですとその人は答えた。なるほど、と彼は言った。ええ、ですので、いずれがらくたになります。その人は答えた。
それから十ヶ月ばかり、要は初めて目が合ってから一年ばかり、ごみの山の前のその人を見なかった。というか、ごみの山を見なかった。代わりに、大きな家具を抱えたりたくさんの袋をぶら下げたりして足早に歩くその人を何度も見た。その人はいつも彼の視線に気が付いて、目元に皺を寄せて挨拶をしてくれた。偶然と興味からその人を見ているつもりだったのは最初の四回くらいで、あとはもう、その皺見たさだと自分でわかっていた。
ある日、マンションの敷地の端にごみの山ができていた。袋、袋、袋、紙の束、布団、小さな棚たくさん、折り畳みのテーブル。ふもとに立って眺めていると、背後から声がした。ああ、ああ、ああ、どうも、おはようございます。振り返るとその人が、黒いソファを持って立っていた。おはようございますと彼は言った。その人がソファを、彼のすぐ足元に置いた。
「捨てるんですか」
「はい、じき回収が来ます」
「なんで捨てるんですか」
「そういう周期なんです」
そう言ってまた笑うその人の、きゅっと詰まった目元に触ってみたくて、彼は手を持ち上げた。それから下げた。肌は緩く、と思ったのはあくまで二十二の彼と比べてで、よくよく見てみれば、実際に触ったら強く跳ね返してきそうな程度には、まだきつく張っていた。
なるほど確かにその人は、ごみの山を見送った次の日から、またものを部屋に運び込むのだった。運び込むのがあんまり頻繁なので、無理に追いかけ回さなくても、彼は何度もその場面に出会うことができた。何ヶ月か目に、手伝いましょうかと勇気をもって言ってみたところ、その人は深々と頭を下げて、ありがとうございます、でも大丈夫ですと言った。そりゃあそうだろうと彼は思った。組み立て式家具の大きな段ボールを一人で抱えて、信じられない足の速さでその人は消えていくのだった。
捨てるのを見るのは少し難しかった。最初の二回はほぼ一年おきで、どちらも平日の朝だった。そういうものだと思って三回目を待っていたら、いつの間にか出会って五年が過ぎていた。毎年じゃないんですか、と聞いてみると、いえ毎年ですと返ってきた。そういう周期なんです。周期があるのに見逃したことにショックを受けた。受けたので、じゃあ次はいつですかと聞いてみると、わからないですねとのことだった。周期があるんじゃなかったのかと思った。思ったので言った。言えるくらいにはなっていた。
七年目のある日、本屋のビニール袋、薄っぺらいのをひとつ胸に抱いたその人は、廊下で彼を見て、明日ですよと言った。
「明日?」
「明日です」
「その本は捨てないってことですか?」
「いえ、今夜読んで捨てます」
「朝ですか?」
「朝じゃないとご覧になれないでしょう」
「気づいてたなら」
もっと早く俺に合わせてくださいよ、と言えるほどにはなっていなかった。
次の朝彼なりにうんと早起きをして、彼はエレベーターホールでその人を待った。部屋の番号も電話の番号も知らないので、他にどうしようもなかった。五十分ばかりでその人は来た。両方の手の人差し指と小指に、それぞれ雑誌の束をぶら下げていた。彼を見て言った。
「おやおはようございます」
「はいおはようございます」
持ちましょうかと言っても仕方がないので、そのまま連れ立って歩いた。ちゃんと足並みが揃って、合わせてくれているのがわかった。建物を出た。空はもう十分明るかった。まだ少し歩いて、ここがぎりぎり、というところにその人は雑誌を置いた。今から山ができるんだ、と彼は思った。
「回収が来るんですか?」
「はい、二時間そこらしたら」
「俺も待ってます」
「お仕事では」
「休みました」
「なんだ。それなら昼でよかったですね」
ひどい、と彼は思った。思ってその人を見ると、ちっとも笑っていなかった。笑わずに彼を見ていた。彼はその人の目元に触れた。皺が寄った。肌は緩かった。当たり前だ。彼もじき三十だった。
また三年したある日、エレベーターホールで会ったその人は、段ボールを三つ、下から大中小、積み重ねて持っていた。小の横から顔を出して、いつになく低い声で言った。
「すみませんが」
「はい」
「すみませんが一つ持っていただけませんか」
「え」
「いえご迷惑ならいいのですが」
「いえいえ迷惑なんてことは」
彼は、一つ、と言われたのを無視して中と小を取った。見た目の割に重かった。
「こっちです」
言われて歩く。並ぶほど広い廊下ではないけれど、引き離されることはなかった。
「ああここです」
その人は立ち止まった。一〇七号室。
「ここまでで大丈夫です。載せてください」
今度は言われるがまま、中と小を大に載せた。
「ドア開けましょうか」
その人は首を振り、笑顔だけ彼に向けて、部屋に入っていった。
それからその人は、手伝いましょうか、という彼の申し出を断らなくなった。どんなものでも、一〇七号室の扉の前まで運ばせてもらえた。ドアを開けるのは断られ続けた。
このまま一生断られ続けるんだろうかと思い始めて二年、エレベーターホールに、何も持っていないその人が立っていて面食らった。
「ああすみません、ご迷惑だったら断っていただいて構わないんですけれども」
「いえ、ええ、なんでしょうか」
「明日ですね、ソファを運ぶんですよ。大きい、パーツに分かれているやつ、箱が二つで」
「はあ」
「その箱をね一つ、持っていただいて、奥まで入れていただいたらとても助かるんです。もちろんご迷惑でしたら、一人で一つずつ運ぶまでです」
「え、いえそんな、いえもちろん、そりゃやりますが、え、奥って部屋の」
「はい、部屋の」
夜じゅうちっとも眠れず、と思ったら明け方にすとんと眠り、起きるともう約束の時間まで三十分なかった。顔と髪をどうにかして、汚れていいけれど見てくれの悪くない服に着替えて、駐車場まで走った。走った先にその人はいて、車から箱を二つ下ろしたところだった。彼を見て笑って、ああどうもと言った。ご迷惑をおかけします。言われながら箱を持った。もちろん重かった。重いですねと彼が笑うと、重いですねとその人も返してくれた。同じペースで、一〇七号室まで歩いた。その人が言った。
「僕開けますので、入っちゃってください」
「はい、ああ、はい」
その人は箱を持ったまま鍵を回し、肘で器用に扉を開けた。彼は覚悟を決めて玄関に踏み込み、さっそく何か踏んだ。柔らかい。靴だ。
「ああお気になさらず、その辺で脱いでいただいて」
どこを踏んでも柔らかいのでどうしようもなく、柔らかいものの上で彼はサンダルを脱いだ。どうも間取りは彼の部屋と同じらしかった。廊下には一応足の踏み場らしきものがあったので、そこを辿って居室についた。ドアを体で押して開けた。
「その辺、その左のところに置いていただいて」
「左」
確かに、部屋の左隅に床の見えるスペースがあった。つまり、他のどこも床が見えなかった。一応直に置かれているのは服とか本とか踏んでも害のなさそうなものではあったけれど、ちょっと背の高い机や棚の上には、小ぎれいな茶碗とか、先の尖った時計とか、パーツの細かいフィギュアとか、踏みたくないものがたくさんあった。それらを可能な限り避けて歩いて箱を置いた。後ろからその人も来て、箱の上に箱を重ねた。彼は尋ねた。
「寝室はもっとましですか?」
「いえありません」
「ありません?」
「そこで寝ます」
指された場所は、そこに至るまでの布や紙の層とちっとも変わらなかった。
「こうやってですね」
その人は積み重なったものを足で押し分けて、そこ、に向かって歩いた。彼はその人が作った道を歩いてついていった。そこ、はなるほど柔らかそうではあった。柔らかそうだったので、彼はその人の体を腕に抱えて、ためらいなく倒れ込んだ。その人は彼の腕の中で笑い声をあげた。体をよじって彼を見て、首をかしげた。かしげた首にも皺が寄った。
「こんなところでするんですか?」
こんなところにしたのはあんただろ、と思いながら、彼はその人に口づけた。その人は言った。
「ソファ、開けてからの方がよかったですかね」
柔らかい布の一番下に、たぶん一応布団があった。
部屋に上がるようになると、その人の周期が少しばかり見えるようになった。見える、というのは図々しいかもしれないと、もちろん彼は考えた。考えたけれど見えるような気がした。その人が腹を十分に満たし、満たされきってうっとりと吐く一連の周期。彼はその人の腹を膨らませるのを手伝い、そしてまたそのうちに、戻すのも手伝うようになった。その人はもう目を見張るほど速くは歩かなくなり、と言って別にそう弱るでもなく、たくさんの袋や箱を中に入れたり外に出したりし続けた。
その日々の中で彼が当然恐れたことといえば、彼もまたその周期に組み込まれてしまうのではないかということだ。最初の吐き出しの日は、とりあえず無事に過ぎた。そのときは、あの薄っぺらいビニール袋のことを概ね忘れていたので、まあ入れたばかりだから出さなかったんだろうと思った。けれどその次のとき、いつ入れたものだろうがその瞬間部屋にあるものは一通り出してしまうのだ、ということを目の当たりにした。彼は怯えたけれど、逆に言えば、その日を二度乗り越えた彼は、吐くべきものに数えられていないのだと楽観することもできた。
四度、五度と彼はその人の嘔吐に手を貸した。四十が見え始めていた。気持ちよく吐き出して笑っているその人の肌に指先を置くと、何の抵抗もなく沈むようになっていた。
ある夜、彼が一〇七号室のすっかり平らになった床の上で横たわっていると、居室の扉が開いてその人が入ってきた。いつものように体で扉を押し開けている。その腕の中に、鉢が一つ収まっていた。鉢からは白茶色の、ぐにゃりと歪んだ幹が伸び、枝が伸び、緑色の丸みを帯びた葉が茂っていた。その人はそれを窓際の隅に置いて、満足げに頷いた。彼は言った。
「捨てるの大変じゃなかったですか、土は」
その人が振り返った。笑っていなかった。眉間に濃い皺が寄っていた。
「捨てませんよ」
「え?」
「飼ったものを捨てるわけがないじゃないですか、僕が」
その人は眉間に皺を寄せたまま、彼の方に歩み寄ってきた。彼の腹の傍らにしゃがんで、座って、足を投げ出した。彼は半身を起こして、その人の腰に腕を回して、脇腹をくすぐった。その人はほんの少しの間耐えていたけれど、結局すぐに笑い出した。笑い出したので、彼はその人を力の限り抱き締めた。背中にその人の手が触れた。
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