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エピローグ-2

 傷は塞がっても、なくなるわけではない。  肩は寒い日になると鈍く疼き、ときどき聞こえる物音がやたら気になることがある。レイも夜中に目を覚ます日があれば、人混みで急に足を止めることもある。それでも朝になれば店を開け、コーヒーを淹れ、クッキーを焼く生活は変わらず続いていた。  数日後、閉店間際の店に、マスターがふらりと顔を出した。口髭と銀縁眼鏡と、しゃんと伸びた背筋は相変わらずだった。マスターはカウンターに腰掛け、レイの淹れたコーヒーを一口飲むと、静かにこう言った。 「なにかいいことあった?」  政宗は手を止める。マスターはそれ以上語らず、コーヒーカップを置いた。 「……なんの話ですか」 「前よりいい顔してる」  いたずらっぽく笑うその顔からは、なにも読み取れなかった。それでも、政宗はもう一度だけ頭を下げた。 「……ありがとうございます」  なにに対しての礼なのか、マスターは聞き返さなかった。そしてカップを置くと、厨房の奥にいるレイにちらと視線を投げ、それから口を開いた。 「コーヒー淹れるの、上手くなったね」  帰り道、黒い車が音もなく目の前を通り過ぎる。  その瞬間、政宗は立ち止まる。もう安全だとわかっているはずなのに、角を曲がるところまで見送る。気付けばレイは先に信号を渡っていた。慌てて追いかけようとしたところで信号が赤へ変わる。二人のあいだへ道路が横たわり、細い背中は向こう側へ行く。 「レイ」  横断歩道の向こうから名前を呼んだ。声は届かなかった。もう一度呼ぶ。 「レイ」  ようやくレイが振り返り、きょとんとした顔で辺りを見回したあと、自分のことだと気付いて笑う。 「ん。……ああ、俺か」  信号が青へ変わる。政宗は足早に追いつくと、少し乱れた息のまま言った。 「勝手に消えんな」  そう言うと、レイは呆れたような、少し怪訝な顔をする。 「俺がどこ行くんだよ」  その返事を聞いて、政宗の肩からようやく力が抜けてゆく。 「……離れんなよ」 「おう。マサもな」  にっと笑った白い歯は、相変わらず綺麗だった。  夜は更け、眠る前になると、レイは布団の中で、いつものように政宗の袖をぎゅっと掴んだ。 「握ってていい?」 「いつも掴んでるだろ。……いいよ」  頭を撫でると、レイは目を細めて小さく笑う。その下には、レイが政宗にくれたのと同じ枕があった。結局、レイにも同じものを買ってプレゼントしたものだ。  その穏やかな横顔を眺めているうちに、レイがふと思い出したように口を開いた。 「あのさ、俺にもさ、自慢できることあって」 「なんだよ」 「渚の手術代だけじゃなくてさ、学校行く金も、里親に渡す金も、ちゃんとつけてもらった」  政宗は動きを止める。 「仕事する前にさ、俺、ちゃんと交渉したんだぞ。お前の父ちゃんに」  その顔は、寂しさと、誇らしさを胸にいっぱい抱えていた。 「だからさ、無駄じゃなかった。渚、ちゃんとランドセル背負えてた」  その笑顔を見ながら、政宗は同じ頃の自分を思い返す。あの時、自分はなにをしていた。母を亡くした喪失感から立ち上がれず、父の顔色ばかり窺っていた。学校に行きたくないとすらも思っていた。けれどそんな自分とは違い、レイはもうその頃には未来を買っていた。 「……でもさ、ちょっとだけ怖かった。なんなら泣きながらちびってた」  冗談みたいに笑うレイに、政宗は法務管理フロアで見た契約書を思い出す。下に書いてあった、震えた子供みたいな字。あれは、レイの覚悟だった。 「俺、ダサいよな」  それでも軽く笑いながら言うレイに、政宗は静かに首を振った。 「どこがだよ」  思わず口をついて出た言葉に、レイの笑顔が止まる。  気が付けば涙が滲んでいた。喉の奥が焼けるように熱い。笑い話みたいに話しているけれど、あの日のレイは笑ってなんかいられなかったはずだ。それから責めるような口調になっていたと気付いて、政宗は小さく息を吐く。 「ダサくなんかねぇよ」  その返事を聞いたレイは照れくさそうに笑い、ベッドの中で体を丸くした。  ふと、レイは顔を上げた。それからぱくぱくと口を動かして、なにか言いたげに言葉を探す。やがてなにか掴んだのか、ふとレイが口を開いた。 「──思い出した。俺がマサの袖、ぎゅってするの」 「……うん」 「渚も、こうしてた」  政宗はなにも言わず、レイの月の色をした髪をそっと梳いた。それから不意に瞬きをすると、微睡みかけていた目が政宗を見上げた。  その瞳へ向き合ったまま、政宗はゆっくり笑った。 「俺、レイが好きだ」  部屋の中がしんと静まり返る。  レイはしばらくなにも言わなかった。ただ目を丸くしたまま政宗を見つめ、それから少しずつ口元が緩んでいく。 「よかった」  その一言だけだった。  けれど、その笑顔には肩の力がすっと抜けたような安堵が滲んでいた。そしてもう一度、レイの手は掴んだ袖を優しく握り直す。 「おやすみ」 「おう、おやすみ」  そうして柔らかい声で言い合うと、今度こそレイの目は少しずつとろんと柔らかくなっていった。やがてその目はゆっくり閉じられ、言葉の代わりに、規則正しい寝息になり始める。  政宗は低い天井を見上げ、静かに目を閉じた。 「渚」  墓の前で泣けなかった兄の代わりに、ちゃんと生きている。店の名前も、看板も、甘い匂いも、その全部が今へ繋がっている。  ふと袖へ視線を落とすと、眠ったレイの手が、政宗の服を掴んでいた。  振りほどこうとは思わなかった。 「守れてるか」  返事はない。  それでも隣では穏やかな寝息があって、レイの胸はゆっくりと上下している。その繰り返しは、あの時の海みたいだ。レイが笑いながら波を蹴っていた、あの青い海。  ──普通じゃない。  けれど、悪くない。 「……生きてる」  小さな呟きは、冷たく澄んだ冬の空気に溶けて消えた。      END

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