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エピローグ-1

 あれから、さらに数か月が過ぎた。  昼の営業はレイが中心になって店へ立ち、夜になると政宗がカウンターへ入る生活が、いつの間にか当たり前になっていた。人手が足りない日は二人で朝から晩まで店を回すこともあるが、それも少しずつ板についてきた。たまにレイが夜のカウンターへ立つ日は、店へ入ってきた客が目に見えてざわつく。その様子を横目で眺めながら、政宗は黙ってグラスを磨き、注文を通していく。  営業を終え、店内の照明を少し落とすと、昼間までの賑わいが嘘みたいに静かになる。政宗はノートパソコンを開いて売上表と睨めっこをしながら数字を入力していると、いつの間にか隣へ来ていたレイが画面を覗き込んだ。 「今月は、黒字?」 「売上だけ見ればな。でも仕入れ先への支払いが来月だから、実質そんな余裕はねぇ」 「なんだそれ」 「大人の世界だ」 「俺も大人だけど?」  納得できないというように眉を寄せるレイがおかしくて、政宗は口元だけで笑った。 「そのうちな」 「あ、そうだ」  レイは思い出したように冷蔵庫を開け、小さな皿を持って戻ってくる。 「今度出すメニューの試作」 「おお、できたのか」 「そ。期間限定のいちご味」  そう言って差し出されたのは、小ぶりなバターサンドクッキーだった。レイは営業中のように背筋を伸ばし、わざとらしく微笑む。 「どうぞ。本日中にお召し上がりください」  芝居がかったその大袈裟な口調に、政宗は苦笑しながらも一つ摘まむ。 「……焦げてない」 「だろ」  さっきまでの紳士的な振る舞いはどこへやら、政宗がそういうとレイの表情が崩れた。得意げな笑みを目にしながら口へ運ぶと、バターの香りのあとからいちごの甘酸っぱさがゆっくり広がった。 「ブラックコーヒーに合うよな」 「飲めないくせに」 「うるせぇ」  レイも一つ頬張り、何度か咀嚼してから満足そうに頷く。 「うん、うまいな」 「だな」  静かな時間が二人のあいだに流れる。窓の外を眺めていたレイが、不意に小さく口を開いた。 「……渚も、こういうの好きだったかな」  政宗は迷わず頷く。 「好きだと思うよ。なんたって、お前が作ってるから」  その答えに、レイは照れくさそうに、それでも誇らしげに笑った。 「じゃあ今度、墓参りの時に持ってく」 「クリーム溶けんぞ」 「ふはっ」  二人で笑っているうちに、レイは皿の上に残ったクッキーの表面を指先でくるりと回した。 「俺さ、たまに考えるんだ」 「……なにを」 「あの時、契約なんかしないで、手術しても一年しか生きられねぇなら、最期まで渚の隣にいてやればよかったのかなって」  政宗は返事をしなかった。ただレイの横顔を見つめながら、その続きを待つ。 「渚も、もしかしたら向こうで呆れてるかなって思う時ある」  そう言って苦笑したあと、レイはどこか遠くを見るように、店の外へと視線を流した。  政宗の心臓が冷える。かつて普通という言葉でレイの過去を当てはめてはそうすることが幸せだと思っていた自分を思い出して、政宗の心臓は知らず知らずのうちにばくばくと高鳴る。  その異常性に政宗は口を開きかけて、でも、なにも言えなかった。 「でもさ、何百回、何千回考えても、結局俺はまた同じことする。あいつが一年でも、一日でも長く生きられるなら、俺はまた自分を売ると思う。他に方法があるって言われたらわかんねえけど、多分、それでも同じことすると思う」  そこには迷いも後悔もなかった。ただ何度も自分へ問い掛け続けた末に辿り着いた答えを、レイは手放さなかった。 「だからさ、後悔してるわけじゃねぇんだ。ただ、一緒にいられる時間がもう少し欲しかったなって、それだけ思う」  政宗はゆっくり息を吐いた。その願いだけは、きっと誰にも否定できない。  レイは窓の外へ目を向けると、少し照れくさそうに笑う。 「いつか向こうに行って渚に会えたらさ、マサの話いっぱいしてやるんだ。字も読めるようになったし、料理も覚えたし、店も持ったし、友達もできたし、毎日すげぇうるさいやつと暮らしてるって」 「誰がうるせぇんだ」 「マサ」  即答されて、政宗は呆れたように笑う。 「だから忘れねぇように日記でも書こうかなって思ってる。せっかく字も覚えたし」  そこでレイはふと笑みを引っ込めると、思い出すようにゆっくり口を開いた。 「昔、一回だけ手紙書いていいって言われたことがあったんだ」  政宗は初めて聞く話に顔を向ける。 「結局、一文字も書けなかった。字なんか知らなかったし、なにを書けばいいかもわかんなかったから」  レイは自分の掌を見つめながら、自嘲めいた笑みを零す。 「今思えば、あれがたぶん瀬戸際だったんだろうな。あの時なら、まだ渚へ届いたかもしれなかったのに」  その声は不思議なくらい穏やかだった。もう変えられない過去を、静かに撫でるような口調だった。 「でもさ、字なんか書けなくてもよかったんだよな。丸でも線でも、なにか一つでも書いて送ればよかった。俺、生きてるぞって、それだけでも伝えられたかもしれねぇのに」  政宗は胸の奥が締め付けられるのを感じながら、なにも言えずにいた。  レイはそんな政宗へ振り返ると、今度は少しだけ照れくさそうに笑う。 「だから今度はちゃんと書く。向こうで渚に会った時、『聞いてくれ』って言って、日記見せながらいっぱい話す。マサが、最初は焦げたクッキーしか焼けねぇ俺を毎日怒ってたことも、電車乗るたび子どもみてぇにはしゃいで笑われたことも、クリスマスにケーキ作ったことも、全部話してやる」  政宗は思わず吹き出した。 「やっぱ俺の悪口ばっかじゃねぇか」 「悪口じゃねぇよ」  レイは笑いながら首を振る。 「俺が生きた証だから」  その一言を聞いた瞬間、政宗はそれ以上なにも言えなくなった。二十年ものあいだ、普通に生きることさえ許されなかった男が、初めて自分の人生を誰かへ話したいと言った。その相手はもうこの世にはいない。それでも話したい未来があるということ自体が、レイがようやく「これから」を生き始めた証のように思えた。  レイは大きく欠伸をひとつすると、目をこすって、それから政宗に笑いかける。 「……今日は、ちゃんと寝れそう」  その何気ない一言は、政宗の張り詰めていた心を静かにほどいてくれた。

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