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7-10 モンステラの葉
ベランダからはカフェが見下ろせる。店を閉めたあとの警備システムのランプが、仄かに光っている。そのさらに向こう、視界に広がる街の光をぼんやりと見つめながら、政宗は夜風に吹かれていた。政宗のすぐ横には、鉢植えのモンステラがさわさわと揺れていた。レイが改装資金で調子に乗って勝手に買ったものの、店に置ききれなかったものだ。
ぼんやり眺めているうち、風呂上がりのレイが隣にやってくる。
「体冷えるぞ」
「ん」
レイはそう言ったものの、そのまま政宗の隣に並ぶ。手すりをさするように撫でたりぺちぺち叩いたりしながら、街並みを眺めている。微かな光に照らされていてもなお、朧気に浮かぶレイの輪郭は、なにも知らなければ神様が整えたみたいに綺麗だと思う。
「マサ、今日のメシ、美味かった。またあれやりたい」
「来年な。クリスマスは年に一回だ」
「えー」
「……まあ、誰かの誕生日とかなら、やってもいいけど」
「誕生日か。いいなぁ。あっ俺さ、渚と誕生日一緒!」
「知ってる。双子だもんな」
そう言うと、レイは得意げに笑った。
「……なあ、レイ」
「ん?」
返事はいつも通りだった。だからこそ、余計に苦しかった。こちらに視線を向けたレイをよそに、政宗は咄嗟に目を逸らす。そのまま、政宗は静かに切り出す。
「俺がいると、お前、地下を思い出さねぇ?」
そう言うと、手すりをなぞっていたレイの手が止まった。
「俺、お前を連れ出したつもりでいたけど……結局、父さんのことも、地下のことも、全部思い出させてるだけなんじゃねぇかって」
ようやく口にしたその言葉は、自分でも驚くくらい弱々しかった。しばらく沈黙が二人のあいだを満たす。モンステラが風に揺れる。
レイはなにも言わない。政宗は顔を上げる。レイは政宗を見ていた。その顔は笑っていなかった。
「……でも、あれが俺の人生だった」
ようやく聞こえたのは、静かな声だった。責めているわけでも、慰めているわけでもない。ただ、自分の歩いてきた道をそのまま差し出すような声音だった。政宗はなにか言おうとして、でも言葉が見つからなかった。街の灯りは遠く瞬いている。
「忘れろなんて無理だ。渚の気持ちまで忘れちまう。……だから無理だ」
レイはそう言って柔らかく笑ったものの、その笑みはすぐに消えた。手すりへ置いた指先を眺めながら、なにか考え込むように小さく息を吐く。
「マサは、俺にいつか離れて欲しいのかもしれねえ。でも、俺に手放せってのかよ。渚の名前を付けた店を」
「無理だな」
口から出た言葉は、自分でも思っていたより早かった。
レイが、渚の名前がついた店を手放せるわけがない。考えなくてもわかることだった。
「じゃあマサが手放すか? 俺が、マサなしで一人で店回せると思うか?」
「もっと無理だ」
「だろ?」
「ドヤるなよ」
そう言うと、レイは声を上げて笑った。つられて政宗も笑う。けれどすぐに笑えなくなって、結局ため息みたい息を小さく吐いた。
笑い声が静かに途切れると、夜風が二人のあいだを吹き抜けた。モンステラの葉が擦れ合う音だけが耳へ残り、街の灯りはさっきとなにも変わらないのに、自分たちだけが少しずつ違う場所へ歩いてきたような気がした。
政宗は手すりへ両手を預けたまま、小さく息を吐く。
「……悪かった。色々と」
なにについて謝っているのか、自分でも一つには絞れなかった。普通を押し付けたことも、突き放したことも、レイなら一人で生きていけるようになってほしいと願いながら、そのくせ離れていく姿に耐えられなかったことも、全部まとめて謝るしかなかった。
レイは聞き返さない。責めもしない。代わりに、にっと歯を見せて笑った。
「確かに、マサは父ちゃんと似てる」
レイが静かに言う。その一言で、政宗の呼吸は浅くなった。けれどレイはすぐに続ける。
「でも違う。マサの父ちゃんは俺に値段付けた。俺がいくら稼げるか、それしかみてなかった。あの人、俺のこと好きだったわけじゃねぇよ。俺を抱いたのだって、品質管理の確認だからって、自分で──」
「……やめろ」
掠れた声が、自分でも驚くほど低く漏れた。レイは呆然とした顔で政宗を見る。
「それ以上、言うな」
「でも、本当だぞ。客に出す前に確認するって。だから俺も、そういうもんなんだと──」
「やめろっ!」
声が響いた。レイの肩がびくりと揺れる。その反応を見た瞬間、怒鳴った相手がレイではないことくらい自分でもわかっているのに、政宗は込み上げるものを押さえ切れなかった。
「確認じゃねぇ……そんなもん、確認なんかじゃねぇだろ」
拳を握るたびに爪が掌へ食い込む。血を吐きそうな思いを声にするだけでもつらかった。それでもそれ以上に幼かったレイを想うと、胃の中がひっくり返りそうだった。
「あいつは最後まで、お前を人として見てなかったのかよ……」
政宗は顔を歪ませる。悲鳴が喉を食い破って、心臓は今にも握り潰されてしまいそうなほど痛い。
「……怒鳴って悪い」
それでもそう詫びると、レイは「ううん」と首を振る。それから自分の胸へ手を当て、政宗を見る。
「……でも、マサは俺の名前呼ぶじゃん」
その言葉に、政宗はなにも返せなかった。
「父ちゃんは俺を番号で呼んでた。マサは最初に名前を聞いた。そんで、ずっと『レイ』って呼んでくれた」
レイは少しだけ笑う。
「だから、違う。マサはマサだ。……俺、マサがいてくれてよかった」
その一言が胸の奥へ静かに落ちていく。
父と同じになりたくないと思い続けてきた。父とは違う人間でありたいと、自分なりに足掻いてきた。
その願いを、一番父の近くにいたレイが肯定してくれた。
その事実が、政宗の胸を静かに満たす。
しばらくなにも言えずにいると、レイが不思議そうに首を傾げる。
「マサも、苦しかった?」
その問い掛けに、政宗は夜景へ顔を向けた。すぐ答えられなかったのは、苦しくないと言えば嘘になり、苦しいと言えばレイの前で自分を被害者みたいに語る気がしたからだった。
政宗は少し考えてから、小さく笑う。
「お前に比べたら、ぜんぜん」
そう答えると、レイは納得した様子を見せずに眉を寄せた。
「比べるもんじゃねぇだろ」
その返しが妙にレイらしくて、政宗は手すりに少しだけ体重を預ける。
「……そうだな」
夜景を眺めながら、ぽつりと続ける。
「母さんが事故で死んだ日さ。俺、父さんに一緒に泣いてほしかったのかもれねぇ」
口にしたのは初めてだった。
あの日は葬儀が終わると父は仕事へ戻り、ホテルは何事もなかったように営業を続けていた。父はを愛していた。それはわかる。だからこそ母の愛したホテルを守るためにそうした。理屈ならわかる。
けれど誰も泣かなかったし、泣いていい空気すらなかった。五歳の政宗には、そのこともわからなかった。でもわからなくてよかったのだと、今になって思う。
「父さんは合理的だからな。情なんて計算に入れねぇ」
穴の空いた袋から漏れた空気みたいに、苦笑が漏れる。
「でも、それで息子に足元すくわれるんだから世話ねぇよ。父さんは、俺がレイを連れ出す度胸なんかないって思ってた。……俺、舐められすぎじゃないか? 見くびられてたってことだよな。……なんか、そう考えたら改めてムカついてきた」
レイは微笑みを浮かべた。そして、どこか疲れたように静かに息を吐く。
「俺が地下を思い出すみたいに、マサも父ちゃん思い出すんだなって思った。俺、マサに自分のこと責めて欲しいわけじゃねぇんだ。……でも、忘れられねぇもんは、お互い忘れられねぇな」
その言葉を聞いた瞬間、その声はすっと政宗の胸に入っていった。
……そっか。忘れなくていい。忘れられないなら、それを抱えたまま生きればいい。
その答えを、一番傷付いてきたレイが先に見つけていた。
政宗は自然と笑っていた。
「……一緒に生きるしかねぇな」
「おう、そうだぞ」
短い返事に、一つ、自分の背筋を伸ばすなにかが増えたような気がした。
夜風が二人のあいだを静かに通り抜け、モンステラの葉が擦れる音は、冬の澄んだ空気へゆっくりと溶けていった。
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