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第1話
新宿二丁目は、今日も雨が降っていた。エレベーターで雑居ビルの入口に店の看板を下ろしに来たトーマは、黒い雲が低くかかる空を見てため息をつく。少し外に出ただけなのに、湿気のせいでシャツが素肌に貼りつきそうだった。
再びエレベーターで六階に戻ると、すぐに「セドリック」と書かれたガラス製の扉が見えた。他に店はない。このフロア全部をセドリックで使っていた。
中に入ると、すぐ右手に小さなカウンターがあり、マスターが座っている。トーマが
「外は雨でしたよ」
と、報告すると
「梅雨だからね」
と、素っ気なく返された。決して機嫌が悪いわけではない。元々、感情を露わにしない人である。トーマは最初こそ戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。
年齢は50代くらいで、トーマの実の父親よりも年上である。背丈はトーマより頭一つ分高く、こんもりと盛り上がった髪の毛が目立つ。本当かどうかは分からないが、実はカツラだとボーイたちが噂していた。
そのまま通り過ぎようとしていたトーマにマスターは声をかける。
「ボーイたちがまだ集まっていないんだ。待機してくれるね?」
もう昼を過ぎていたが、ほとんどのボーイたちはまだ眠りの中なのだろう。この時間から待機できるのはトーマのような住み込みくらいだった。
暗い廊下を抜けて大広間に入る。カウンターとは背中合わせになっていて、この階のどの部屋よりも広い。中ではテレビが付けられていて、ちょうど昼のバラエティ番組が放送されていた。他のボーイは三人しかいない。
トーマが入るなり、客が来たらしい。すぐに誰もが居住まいを正し、タバコを吸っている者は揉み消し、テレビのボリュームを絞る。客が中に入る気配がした後、部屋の入口に取り付けられたライトが点灯し、トーマたちを眩しく照らした。
入口の扉についている覗き窓はマジックミラーになっていて、トーマの方から向こう側は見えない。廊下にいる客だけが見える仕組みだ。
やがてライトが消え、扉が開くなりマスターがトーマを指名した。セドリックの中では不人気の部類に入るトーマが指名されて、どよめきが上がる。恥ずかしさを感じながらも、トーマはローションとコンドームを持って、そそくさと廊下に出た。
「トーマ、五番に案内してあげて」
マスターからそう指示されて、客を五番の個室に案内する。そこで初めて「いらっしゃいませ」と挨拶を交わした。背丈はトーマと同じくらい。年齢はマスターよりも若く見えるが、おじさんであることには変わらない。左手の薬指には結婚指輪が光っていた。
なぜか、この店に来る客は結婚指輪をはめている既婚者が多い。普段は大っぴらに遊べない分、ここで発散するのだろう。男が好きなのに結婚するなんて。トーマは彼らの気持ちを理解できないでいた。
個室の中には布団が一組敷かれ、枕が二つ並べられているだけだった。裸電球の明かりがぼんやりと灯り、やっと聞き取れるくらいの音量で有線が流れる。トーマは客が脱いだ服を手際よくハンガーにかけて、備え付けのロッカーに入れた。
客が全裸になると、バスタオルを渡して腰に巻いてもらう。痩せていて鍛えられてもいない体は、あばら骨が浮き出ていた。トーマも急いで全裸になり、バスタオルを腰に巻いた。そして、ロッカーに鍵をかけて客に渡す。
一緒に廊下に出て、シャワールームに案内した。そこでトーマは、客からバスタオルを預かり、風呂用の椅子に座らせる。真ん中が凹んだ、いわゆる「スケベ椅子」という奴だ。
トーマはシャワーの温度を手のひらで確かめ、客の首から下へとお湯をかけた。一通り体を濡らすと、ボディーソープを手に取り、客の体を丁寧に洗う。特に初めての客は全身くまなく手のひらを動かし、どこが感じるのか把握しなければいけなかった。
*
トーマが、このセドリックで働き始めてから三ヶ月が経つ。表向きはマッサージの店だが、実際は男同士で本番行為をする風俗店だ。
トーマは子どもの頃から、自分が男好きだと自覚していた。父親や親戚、学校の先生、近所のおじさんなど、目に映る男性すべてに欲情していた。周りからは変な目で見られていたが、そんな自分を誇らしくさえ思っていた。
今もトーマは客の全裸を見て、股間の一物を大きくしていた。客が目ざとくそれを見つけて握ってくる。ふと目が合って、トーマは客と軽い口づけを交わした。客の一物に手を伸ばすと、やはり大きくなっている。
だが、ここで盛り上がるのはまだ早い。トーマはマスターから言われていた。「客は一時間楽しむためにお金を払っているのだから、一時間しっかり楽しませなさい」と。射精させればそれで満足だろうと考えていたトーマにとって、目からウロコだった。
トーマはスケベ椅子の凹みに腕を入れて、客の尻穴を撫でる。途端に客は切なげな表情を浮かべ、甘い吐息を漏らした。
「なんだ、ウケか」とトーマは内心がっかりする。何から何まで理想とはかけ離れた客だった。トーマが好むのは、自分よりも体が大きいタチの男である。それでも仕事である以上、客に気づかれてはいけない。トーマは萎えそうな気持ちを奮い立たせて、一物を屹立させ続けた。
シャワーが終わって個室に戻ると、トーマは客を寝床に横たえた。そして、その上に跨って形ばかりのマッサージを行う。誰に教わったわけでもない。自己流だ。別に客はマッサージが目当てではないのだから、問題は無いのだろう。
全身を一通り揉み終わって、トーマは壁にかかった時計を見る。客が来てから、まだ十分しか経っていない。残り五十分をどのように過ごすべきか、考えを巡らせる。けれども、経験の浅いトーマに、そこまでの手数は無かった。
仰向けになった客は一物を漲らせ、トーマに向けて両腕を伸ばしてくる。それを合図にトーマも体を重ねた。唇が重なり、客は情熱的に舌を絡めてくる。タバコの匂いが口の中に充満してきた。タバコを吸わないトーマは、一瞬えづきそうになるのをこらえた。
唇を離し、頬から耳たぶ、首筋をなぞる。そのたびに客は大げさなくらい感じている素振りを見せた。続いて体を愛撫する。特に乳首が感じるのだろう。舌先で転がしたり、指先で摘まんだりするたびに嬌声を上げた。
つま先まで愛撫された後、客はトーマの耳に唇を寄せて
「お願い、挿れて」
と、囁いてきた。再びトーマは時計を見る。あんなに愛撫したのに、五分しか経っていなかった。これから最低でも三十分、この男を抱かなければいけない。元々ウケのトーマは、タチが下手だと自覚していた。
それでも、客の要望に応えてローションを手に取る。客の尻穴と自分の指先にたっぷりと塗りたくった。客が痛がらないように、まずは小指から挿れてみる。呆気ないくらい易々と飲み込んだ。薬指、中指、人差し指でも痛がりはしない。
指先で中を掻き回すと、体をビクッと震わせて抱きついてきた。弄び過ぎてローションが乾き始めた頃、客は
「欲しい。君のチンポが欲しい」
と、強請ってきた。
トーマは自分の一物を幾度か扱き、コンドームを被せ、たっぷりとローションを塗って滑りを良くした。そして
「挿れますね」
と言って客の両脚を持ち上げ、露わになった尻穴に一物を宛がった。
タチに慣れていないせいか、最初は一物が尻穴の周りで滑って入らない。焦るトーマに客は口づけをした。
「大丈夫。まだ時間はあるからね」
掠れた優しい声。おそらく根は良い人なのだろう。そんな励ましを受けながら、トーマは根元まで挿入した。何の締めつけもない緩々とした感覚。まるで客の尻穴の中で、自分の一物が泳いでいるみたいだ。本当に客は満足しているのか不安になってくる。
客は両腕を伸ばしてトーマを抱きしめた。そして
「ショウゴって呼んで。先輩、荒々しく俺を抱いて」
と、強請ってきた。
つまり、トーマはこの客の先輩という役割を与えられ、ショウゴと呼びながら荒々しく抱かなければいけないわけである。面食らいながらも、仕事である以上なりきらなければいけない。トーマは意を決して、客の耳元で囁いた。
「ショウゴ、可愛いぞ」
途端に客は悦びを露わにして
「ああ、先輩。嬉しい……」
と、トーマに抱きつくのだった。
どのくらい、この寸劇を続けていたのだろう。トーマは客を横向きにしたり、うつ伏せにしたりしながら、犯し続けていた。すっかり全身汗だくである。決して蒸し暑いからではない。客の要求に応えるため、細部まで気を配った結果だ。
時計を見ると、三十五分が経過していた。ここで果てても、シャワーを浴びたり、着替えたりすれば五十分にはなる。まぁ、及第点だろう。
トーマは背中から客を抱いて、腰の動きを速める。
「ショウゴ、出すぞ」
と囁くと、客は
「ヤダ。まだイッちゃやだよ、先輩」
と、甘えた声で懇願してくる。けれども、これ以上長引かせると萎えてしまって、トーマは射精できなくなりそうだった。
「ダメだ。イく。イくぞ、ショウゴ!」
「先輩、お願い。中で出して」
気づけば、客も自分で一物を扱いていた。
「先輩、ごめんなさい。ショウゴ、イっちゃう!」
そう言って、先に出してしまう。途端にそれまで緩かった中が急に締まり始めた。
「俺もイく。ショウゴ、ショウゴ!」
先輩になり切ったまま、トーマも出してしまった。しばらくは互いの荒い呼吸だけが響いていたが、落ち着いてくるとトーマは自分のを引き抜いた。事後特有の匂いが狭い個室の中に広がる。
トーマがコンドームを外して捨てようとすると、客はそれを奪って中の精液を自分の胸元に垂らした。指先で撫でて「先輩の精液だ。温かい……」と言ってはにかむ。トーマはサービスのつもりで、自分から唇を重ねた。
後始末が終わり、シャワーで汚れを洗い流すと、個室に戻って客に服を着せる。その間も客はトーマに口づけてきた。
「トーマ君は大学生?」
ふと現実に戻されたような問いが投げかけられる。トーマは首を横に振った。
「中退したんです。今年の春に」
三年間通った大学。けれども、何を勉強したいのが目標が定まらないまま入学したせいで、何のやりがいも見つけられなかった。地方でゲイとして生きる愉しみが無かったのも、少なからず影響したのかもしれない。
「親御さんは反対しなかったのかい?」
もちろんされたし、意思を押し通した結果、勘当もされてしまった。行きずりの客のはずなのに、なぜかトーマは素直に話していた。
スーツを纏った客はポケットから財布を取り出し、五千円を抜き取る。
「楽しませてくれたお礼だよ」
申し訳なさそうにしているトーマに強引に握らせる。ただでさえサービス料をいただいているのに。
「それから……」
と、客は名刺をトーマに渡した。そこには会社名と代表取締役という肩書、「黒松省吾 」という名前が書かれていた。本名で呼ばせていたことにトーマは驚く。
「もし、気が向いたら電話してほしい。いつでも歓迎するよ」
「社長さんなんですね」
「小さな町工場だけどね」
そう言って黒松は肩をすくめる。
トーマは困ってしまった。客とボーイが店の外で会うのは禁止されている。もちろん電話するのもNGだ。そんな曖昧な気持ちを誤魔化すように、トーマは自分から黒松に唇を重ねる。黒松は愛おし気に腕を回してトーマを抱き寄せた。
個室を出て、入口まで見送る。去り際に振り返った黒松は
「また指名するからね」
と、ウインクした。エレベーターの扉が閉まった後、マスターは
「良かったね。固定客がついて」
と、抑揚のない言葉でトーマを褒めた。
個室を片付けた後、トーマは大広間に戻らず、一番奥にある倉庫代わりの部屋に入った。そこだけ窓があり、新鮮な外の空気を吸える。喫煙所代わりに使うボーイもいた。
外は相変わらず雨が降っていた。見えるのは隣のビルの壁だけで、二丁目の様子はうかがえない。
トーマはポケットから貰ったばかりの五千円を広げてみる。毎月十万円も貰えれば御の字のトーマにとって五千円は貴重だった。
「今日はメンチカツでも買おうかな」
そんなトーマの呟きは雨音にかき消された。
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