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第1話 手打ちそばと博多うどん
家で食べる週末のランチが父の手打ち蕎麦になってからもう一億光年ほどたつ。
蕎麦など外で散々食っている。給料日前のランチタイムは連日立ち食いそばである。残業帰りに小腹が空けばかき揚げそばなどを啜ってから家路につく。
サラリーマンの尾形東馬 にとっては、蕎麦打ちなんぞ趣味にする奴の気が知れない。
父に言わせれば自ら打つ本格手打ち蕎麦と、その辺の立ち食い蕎麦とはまるで違う物らしいが。東馬はもう家庭でオヤジの蘊蓄聞かされながら食う蕎麦にはうんざりだった。
ちなみに東馬の趣味は絵画である。黙って絵を描くだけだから他人に迷惑をかけることはない。何ならたまに仕事の依頼もあるから実益も兼ねている。
土曜日の昼前。台所の方からがたがたと蕎麦打ちの支度を始める音がしたので、東馬は二階の自室を飛び出して逃げるように外出した。梅雨時の曇り空ではあったが、仕事の画材を買う必要もあった。
大体父親が定年間近になって蕎麦打ちを習い始めるなんぞ、お約束にも程がある。いっそフラメンコでもフラダンスでも習ってくれた方がまだ笑える。
母は食事の支度をしなくて済むのが楽なのか特に何も言わない。
「お父さんたらあの娘が彼氏を連れて来てからあれなのよ」
とは彗眼ではある。
定年退職よりまず末娘の嫁入りが目前に迫って趣味に目覚めたのだろう。
いやもうツッコミどころ満載だ。
そもそも妹が連れて来たのは単なる彼氏なのだ。花嫁の父の覚悟を決めるのは早過ぎるだろう。まして次兄の東馬はまだ独身なのに。
尾形家では長男が実家を離れて結婚して既に孫(しかも男子!)までいるのだ。
なのにその時点では我が人生に思いを致さずジージと呼ばれて浮かれまくっていたのだ。
今になって末娘の結婚に我が行く末を考えて蕎麦打ち始める親父の息子で恥ずかしい。
もっとも東馬自身も少しは考えるべきなのだろう。
今現在、都下は真柴本城市の実家に残っているのは東馬だけなのだ。
大学も地元だったから実家から通学し、この地が本社の食品輸送会社に就職した。入社三年目の今は経理部所属である。
25才にもなろうというのに実家暮らしの独身男……なかなかの問題である。
兄は結婚を機に家を出た(残った部屋が今や東馬のアトリエである)。
妹は兄妹の中で最も優秀で北海道の国立大学に合格して家を出て、彼の地で就職もしている。
だからまあ、ゴールデンウイークの帰省のついでに彼氏を連れて来るのは、それなりに思うところはあったのだろう。
とはいえまさか父が蕎麦に狂うとは思っていなかったろう。
そう、父の蕎麦打ちが始まってまだ一ヶ月ほどしかたっていない。
だが東馬にとっては一億光年以上に感じられるのだ。
とにかく今は手打ち蕎麦から逃げるしかない。
メガネをかけて普段着のTシャツ、ダボパンで外に出る。会社に行く時はもちろんスーツでコンタクトレンズをつけて行く。
けれど家にいる時はメガネを使用する。絵を描くにはコンタクトレンズより、すぐに外して遠目で見られるメガネの方が便利なのだ。
このところ週末に足しげく通っているのは駅前のうどん屋である。
都下とはいえ真柴本城市のJR本城駅は高層な駅ビルもあり駅前ロータリーにもファッションビルが建ち並ぶそこそこ繁華な街である。
駅ビル商店街では香川うどん県のコシのあるうどんが人気だが、最近駅前にできたのが博多うどん店たぬき屋である。
発券機で注文してセルフでうどんを受け取る形式である。椅子こそあるが立ち食いに近い感覚の、さっと食べてすっと出て行く店である。
うどんを渡すのがアイドル風の可愛い店員なのも楽しみでもある。
何より奥で「店長」と呼ばれている男はちょっと目を引くイケメンである。
この手の店には珍しく女性客が多いのも、アイドル君やイケメン店長ゆえではないかと勘繰る東馬である。
いやもちろん最大の楽しみはうどんそのものなのだが。
特徴はコシのない麺である。そこが讃岐と博多の違いなのだ。
黄金色のつゆに柔らかいうどんが浮かび、そこにカリカリ揚げたてのごぼ天を入れていただく。
父の打つコシのありすぎる(硬い!)蕎麦にうんざりした口は、コシなどない優しいうどんに身も心も和むのだ。
今日も今日とて券売機でゴボ天うどんを注文して、カウンターでアイドル店員からうどんを受け取ろうとした時だった。
ギュイー! ギュイー! ギュイー!
何とも言い難い不協和音が、幾重にも重なって店内に鳴り響いた。
「地震です! 避難してください! 地震です!」
とも叫んでいる。
スマートフォンの緊急地震速報だった。
それぞれの客のスマホが同時に鳴動しているのだ。
東馬のズボンのポケットからもスマホが振動しては警告を発している。
気づけば店の床が少しく揺れているような気もする。
東馬はついポケットのスマホを取り出そうとしながら、カウンターに出されたうどんの丼に手を伸ばしていた。
「あっ!」
丼を見ていなかった右手が盆の上の熱いうどんを勢いよくひっくり返していた。熱いうどんやつゆが右手にかかる。
「あちゃっ!」
慌てて右手を振る東馬以上に焦っているのはアイドル店員である。
「火を消せ」と厨房で指示していたイケメン店長がたちまちやって来た。
アイドルを押しのけて濡れたカウンタークロスを持ったまま東馬の右手を掴んだ。
熱さが拭われるが、それはテーブルを拭くクロスではないか?
「大丈夫ですか?」と東馬に言うや店内に向かって、
「お客様、テーブルの下に入って!」
とも呼びかける。
言われてみれば、ほんの少し揺れていたのが、床の下から突き上げるような縦揺れになっている。
厨房の棚から何やら缶が落ちてカラカラと大きな音を立てる。
「キャーッ!」
女性客が悲鳴を上げる。
客達がてんでにテーブルの下に潜り込む。
カウンターの向こうにいる店長は新たに冷やしたクロスを東馬の右手に巻き付けて、
「お客さんもこの下に!」
とカウンターを示す。その間もカウンター越しに東馬の身体を庇うように身を乗り出している。
東馬がおろおろと濡れたクロスを右手に巻いたまま、テーブル下に身を屈める頃には揺れも収まっていた。
テーブルの下から顔を出した客達が、
「震度四だと」「もっと大きい感じだったよ」「震源地が東北だって」「あっちは震度六らしいぜ」
検索しながら口々に言っている。
東北が震源地なら北海道も近い。妹は無事だろうか?
「お客さん、火傷はしませんでしたか?」
にわかに顔を覗き込まれて東馬はまだ右手に濡れたダスターを巻いていることに気がついた。
「ああ、もう大丈夫です」
あまりに間近にある整った顔を見た途端に目が離せなくなる。
艶のある黒髪に凛々しい眉と濃い闇の色の瞳、そして鼻筋の通った容貌をまじまじと見てしまう。
無粋な調理用の白い帽子や上っ張りさえ、その美貌を引き立てるかのようである。
と、そのイケメンの手が東馬の顔に伸びたかと思うと、
「メガネにもつゆがついてる」
当たり前のようにメガネを外すと真新しい白いダスターで拭いている。
びっくりした。何か不埒な事でもされるかと身を引いたのだが。
そんな東馬の様子に気づいて、
「あ、いや。お客様のメガネを勝手に失礼しました」
店長はあわててメガネを返した。
改めて拭き清められたメガネで目の前の顔を見れば、さっきよりずっと輝くいい男である。
「こちらこそ、ありがとうございます」
もごもごと言ってから、
「佐宗 店長」
そう付け足したのは視界が開けて、上っ張りの胸ポケットに「店長 佐宗」と名札があるの見えたからだった。
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