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第2話 店長のシフト
その日、東馬はうどんを食べなかった。
店長はカウンターにひっくり返したうどんの代わりを作ると言ったのだが、家が心配だからと早々に店を出た。
その際うどんの無料券をもらった。
「服にもうどんのつゆが飛んでます。後でクリーニング代を請求してください」
言われて初めて気づいたのだが、Tシャツの胸には黄金色の飛沫が点々と飛び散っていた。大したシミでもないし、どうせ普段着なのだ。そう思ったが、
「お手数をおかけして申し訳ありません」
頭を下げられて、内心にやけてしまった。
クリーニング店の領収書を持って来れば、またこの店長と話せるのだ。
妙に浮かれた気分で博多うどん店たぬき屋を出た東馬である。
コンビニ弁当を買って(意地でも父の蕎麦は食べたくなかった)帰れば、家には既に北海道の妹から連絡が来ていた。
「北海道でもかなり揺れて、食器が割れたり物が落ちたりしたそうよ」
と母はスマホの写真を見せるのだった。
彼氏が片付けに来てくれたそうだと何がなし安心した表情である。
「こんな時、頼りになる人がいれば安心よ。東馬にもいい人がいればねえ」
と、わざとらしく言うのを聞こえないふりでコンビニ弁当を食べる。
居間のテレビでは「この地震による津波はありません」と地震情報を流し続けていた。
昼食を終えると、また家を出た。
「ちょっとクリーニング屋に行って来るわ」
などと玄関先で言ってしまえば母親に「ついでにこれも」と冬物のダウンコートだの何だのかんだの持たされる。
商店街のクリーニング屋は東馬の同級生の家である。母にとってはママ友が店頭に立っているわけである。
「こないだお父さんの美味しいお蕎麦をいただいたお礼に……つまらない物だけど」
と実家の庭で採れたというイチジクの実を籠一杯渡される。
危うくTシャツの領収書をもらうのを忘れるところだった。
「このTシャツをうどん屋で汚されたの? とんでもないお店ね。駅ビルの中の店?」
「いや、違います。ええと、駅のあっちのその辺の……」
などと誤魔化して早々に店を出る。
この商店街を抜けて十五分も歩けば駅に出る。
会社は線路の向こうにあり、通勤は徒歩十七分ジャストである。車や電車で通勤する同僚が羨んでいるが、この至便故に実家から出にくくなる。
近所には東馬はもちろん尾形一家を昔から知っている人々が暮らしている。それが気楽であると同時に、ちょっとした息苦しさでもある。
「ずっと監視されてるみたいでイヤ」
と言ってわざわざ都内を避けて北海道の大学を受験したのが妹である。
東馬もその感覚はわからないでもないが、どこに行っても大差ないとも思ってしまう。
何しろ自分は隠れ同性愛者なのだから。一般人と異なるのは日本どころか海外に行っても変わりはないだろう。
思春期の初恋から人目を憚るのは習性になっている。
たぬき屋の佐宗店長がイケメンだからといって、過剰な親しさを見せてはならないのだ。
などと思うそばから東馬はTシャツクリーニング代の領収証を持ってうどん店に出向いているのだった。翌日曜日のことである。
別に店長とすぐ会いたかったわけではなく、金銭的なことは早々に片付けたいのは経理部員の習性である……かも知れない。
開店時間を待って駆けつけたのも、別に店長とゆっくり話したかったからではなく几帳面な経理部員の習性である……かも知れない。
だが店で待っていたのはアイドル顔の店員だった。胸の名札には「水田」とある。
「さーせん。店長は今日は休みっす」
「えっ? 佐宗店長休みなの?」
思わず声を上げてしまう東馬である。まだ客の一人もいない店内である。
なのに、
「店長いないのか?」
背後から繰り返されて、ぎょっと振り向いてしまう。
ちょうど扉を開けて入って来た中年男性の声だった。
酒焼けした肌色のカニのような容貌で、角刈りが伸びた頭には白いものが混じっている。
カウンターに近づいて東馬に並ぶと、
「ここの店長は佐宗真樹 だろう。いないのか?」
低いしゃがれ声で尋ねるのだった。
アイドル顔の水田は対照的な軽い声で、
「佐宗店長は毎週日曜日が休みっす。月曜から土曜までのシフトっす」
こくこく頷きながら答えるのだった。何度も頷くのが癖らしい。
「……ふうん」
と中年男は何やらねっとりした視線で店内を見回してから踵を返した。
東馬はどうにも剣呑な気分で男が完全に店の外に出るまで口を噤んでいた。
その広い背中がガラスの扉越しにも見えなくなってから、改めて水田に向き直った。
「佐宗店長の月曜から土曜までのシフトは?」
「月金は9時から夕方5時までっす」
「わりと早く上がるんだね?」
「店長、夜は大学に行ってるんすよ。土曜日は夜学がないから夜7時まで」
水田は何がなし自慢そうに言うのだった。
カウンター向こうの厨房には中年の女店員がおり二人体制らしいが、まだ客もいないから暇そうである。
若い水田は佐宗店長に心酔しているらしく、東馬が訊くまでもなくあれこれ自慢げに教えてくれるのだった。
「知ってます? たぬき屋って九州が本拠地なんすよ。佐宗店長は福岡、熊本、鹿児島っていろんな店を任されて、とうとう東京進出でも抜擢されたんすよ。
でね、高卒だから大学にも行きたいって条件出したんだって。向学心ヤバくないですか?」
いや個人情報をそこまで漏らす方がヤバイぞ。
そう思いつつ聞かずにはいられない。
「この辺で夜間大学といえば、真柴本城大学にあるけど……駅前にスクールバスが停まってる」
「あれ、知ってます? お客さん詳しいっすね。店長、仕事終わったら5時半のスクールバスで大学に行くんすよ」
実は東馬は真柴本城大学の経済学部出身である。
駅を離れた丘陵地帯を切り開いて建てられた大学は広告では〝緑豊かなキャンパスライフ〟と誇らしげだが、森の中の何もない場所である。コンビニもカフェも学食も何もかもキャンパス内に詰め込まれている。
酒でも呑むならスクールバスで駅前の歓楽街まで戻らなければならない(最近は大学周囲に学生向けの店も出来たらしいが)。
昼間の学生達がスクールバスで駅まで帰る頃、逆にやって来るのが夜間大学生だった。当時の東馬にしてみれば、オジサン、オバサンの学生が多いように思えたものである。
複数の客が入って来たのを潮に東馬は店を出た。結局うどんは食べないで話をしただけだった。クリーニング代の領収書もポケットから出すことはなかった。
それでも佐宗真樹店長についての情報が得られたのだ。
スキップでもしそうな勢いで駅ビルの店を歩いているうちに大変なことに気がつく。
店長のシフト平日9時~17時は、東馬の勤務時間と同じである。
平日は会えないではないか!
もし平日に会いたければランチタイムにダッシュで会社を飛び出してうどんを食うぐらいである。
ゆっくり会えるのは土曜日だけじゃないか!?
結局クリーニング屋の領収書を手渡しするのも週末になるのか。
今度はいきなりうなだれて駅ビル内の画材屋に向かう。
昨日の地震騒ぎで忘れていたカラーインクの補充である。ついでにクロッキー帳なども買い足して、動植物園でスケッチでもして来るつもりだった。
ちょうど今、児童雑誌の小さな挿絵を十点ばかり頼まれているのだ。
東馬は中学高校と美術部で、絵画展やイラスト展で何度か受賞をしている。お陰でたまにイラストの仕事が舞い込んで来るのだ。
収入としては今回は挿絵一点につきファミレスのバイトの時給ぐらいである。
だが画材の金額、スケッチに出かけては描く時間を換算すれば、むしろファミレスで働いた方が儲かるぐらいである。
とはいえ儲けのために描いているわけではない。
そこが趣味の趣味たる由縁である。
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