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第3話 懐かしのスクールバス
月曜日、東馬は午後五時になるや否やデスクを片付けた。
「どうしたんだ尾形?」
と言う同僚の声を背に部屋を飛び出しエレベーターに乗る。箱の中でも足踏みをする有様だった。
六月初めの夕刻はまだ昼間のような明るさだった。本城駅ビルを抜けて駅前ロータリーを回って、真柴本城大学のスクールバス乗り場に駆けつける。
学生時代の四年間は毎日のようにここに来ていたが卒業してからもう三年。駅に来ることはあっても、このバス停に近づくことはなかった。
バス停前に並んでいる列の横を歩いて行くとオーラを纏っているかのように輝いている姿があった(東馬にだけそう見えた?)。
地味なTシャツにデニム、教科書が入っていのだろうザックも背負っている。
佐宗真樹店長だった。
くすんで見える服装が逆にイケメンぶりを引き立てている。
「やあ!」と言ったつもりが「へあっ」と変な声が出てしまう。
「てん、店長。こないだはどうも」
一瞬怪訝そうな顔をした店長だが、
「今日はメガネは? あれから大丈夫でしたか?」
と店のカウンターにいるような笑顔になった。
「いえ、メガネは無事です。仕事の時はコンタクトレンズなんで」
言いながらスーツのポケットを探して気がついた。
今日はクリーニングの領収書を持って来ていない。土曜日に渡すつもりだったのだ。
間抜けにも程がある。
「ぐ、偶然ですね。これから大学に行かれるんですか。僕は家に帰るんですけど」
誤魔化していると店長は楽し気に笑っている。
「水田がいろいろ話したようですね。個人情報についても教育しなきゃ」
「あ、いや、すみません。誰にも言いませんから」
「隠すことでもないですけどね」
いよいよ佐宗店長は笑顔である。
東馬はもう天にも昇る心地である。。
そこにバスがやって来た。
大学から学生や職員を運んで来た満員バスは客を降ろして〝本城駅(真柴駅前経由)〟の行先表示を〝真柴本城大学〟に変える。
「じゃあ、また」
と、先に言ったのは店長だった。
東馬は笑顔で頭を下げた。
そして店長が乗ったバスが発車して遠ざかるまでバス停を離れなかった。
「また」と言われた。
ならばまた明日も来よう!
(またたぬき屋に来てくれとの宣伝と思いつかないあたりが恋は盲目である)
幸せで胸がいっぱいである。
幸せ?
いや、何だそれは?
セルフツッコミをしてしまうが、もう認めざるを得まい。
完全に恋の穴に落ちている。
というわけで東馬は火曜水曜と定時に会社を飛び出して、駅前でスクールバスを待つ店長と少しばかりの言葉を交わすのだった。
梅雨時というのがまた東馬の味方になった。バス停に来るなり雨がぽつぽつ降り始め、長傘を持っていた東馬が店長に傘を差し出すと言う僥倖に恵まれたのだ。店長はザックを下ろして折り畳み傘を出すところだった。それを制して相合傘の中で語り合ったのだ。
「ザマアミロ!」と誰にともなく叫び出したい東馬だった。
そんな行動が連日続けば同僚に、
「毎日定時にダッシュしてどうしたんだよ尾形?」「彼女が出来たんだろう? 残業よりも彼女とデートだろう」
などと囃される。
さすがに少し慎むべきかと思い始めた頃だった。スクールバスを見送る東馬の肩を叩く者があった。
「よう! 久しぶりだな」
ボタンダウンのシャツにチェックのネクタイを締めた伊達男だった。
何も言えずに立ち竦んでしまう。
森末太賀 、元彼である。
同じ学部に学び大学二年生から二年間は恋人同士だった。
卒業後、大学院に残ったのは知っていたが、その後どうなったかは知らない。というか知りたくもなかった。
「ちょっと飲んで行かないか?」
誘われて断る言葉も知らなかった。
太賀の言う〝飲む〟は酒ではなくコーヒーだった。
〝焙煎珈琲の店 黑河 〟かつて太賀に教えられた店である。
駅向こうにはオフィス街と共にサラリーマン御用達の居酒屋やバー、スナックが並ぶ歓楽街もある。
その奥地を進むとくねくね曲がった細い路地が現れる。
〝真柴本城の新宿二丁目〟と呼ばれる地域である。
一体そこはどこなんだ? という呼称だが、つまりは同性愛者の歓楽街である。
この焙煎珈琲店はサラリーマンの街とゲイの街の分岐点にあるのだった。
ぎりぎりここで珈琲を飲んでいるところを見られてもゲイばれは避けられる。コーヒー好きと言い訳が出来るのだ。
酸味の強いコーヒーを啜りながら東馬はうなだれている。向かい側の太賀の顔を見たくない。
この期に及んで後悔しても遅い。卒業後、東馬がスクールバス乗り場に近づかなかったのは、こいつに会いたくなかったからである。
二年の交際期間のうち蜜月だったのは一年足らずだった。
三〜四年生は就活や卒論で忙しい時期である。会うのも間遠になるうちに芳しくない噂が耳に入る。どうも太賀は新入生の男の子と遊んでいるらしい。
けれど時に東馬をラブホテルに誘ったりもする。体のいい性欲処理係にされているように感じたが、はっきりと別れは切り出せなかった。
結局は自然解消だった。卒業式でただの友人同士のように「元気でな」「じゃあな」などと言って別れてそれっきりである。
一年後、太賀から送られて来たのは結婚式の招待状だった。
生まれて初めて友人の結婚式に出るためにダークスーツを誂えた。
何やら頭の中は真っ白になっていた。
こいつはゲイじゃなかったのか?
女と結婚できる男だったのか?
(ちなみに東馬は女とフィジカルに何かしたことはない)
披露宴会場で耳にするのは、研究室に残った太賀が教授に気に入られて入り婿になったという噂だった。
「もともと調子のいい奴だったもんな」「あの教授を後ろ盾にすれば安泰だろう」「ただの院生でいるよりましさ」
味のしないフレンチを食べながら口さがない招待客の囁き声を聞くばかりだった。
太賀の結婚式の後、会社で短期の契約社員とつきあったりしたのはまるで何かの治療のようだった。
そうして今やうどん屋の店長に一目惚れしているわけだが、何故そんな時にこいつに再会するのか。
「もう森末じゃないんだろう。今は何て名前だっけ?」
ようやく東馬が自主的に尋ねたのはこんなことだった。
「秦野 太賀だ」
言われてみれば榛野某という社会学の教授がいたはずだった。そこの入り婿になったわけか。
内心頷いている東馬に、榛野太賀は勝手に話をしている。
近畿の大学から助手として来ないか誘われているが迷っている、とのことである。秦野教授肝煎りの話らしい。
「いずれ近畿で准教授になって、こっちに戻って来たらどうかと。いや、一度は外に出た方が経験も積めるんだが……」
確か結婚した翌年には娘が生まれたはずである。という東馬の知識は少々古いようだった。
「娘も二人に増えたし……待遇も今よりかなり良くなる。それはまあ……助かるんだが」
ゲイのくせに夫婦生活も滞りなく執り行っているらしい。
出世話なのに何を悩んでいる風に話しているのか?
ふと足元に違和感を感じる。
「新宿二丁目やここみたいな……いや、近畿にもそういう場所があればいいけど……」
相変わらず深刻な表情の太賀である。けれど下を見やればテーブルの向こうから伸ばした脚で東馬の足を微妙に触っているのだった。
気づいた途端に立ち上がっていた。
「俺そろそろ帰るわ」
「まだ実家暮らしなんだろう? 少しぐらい遅くなっても構わないだろう。嫁さんに怒られるわけじゃなし」
立ち上がった東馬の顔を太賀はねっとりした視線で見上げている。
何だこのいやらしさは?
自分はかつてこんな男をカッコいいと思っていたのか?
遊び慣れた大人のようだと憧れて恋に落ちたのか。我ながらどんだけ初心 だったのか(正直、太賀が初体験の相手だったが)。
「帰って親父の手打ちそば食ってやらなきゃ」
この際そんな言い訳が口から飛び出す自分も謎だった。
その言葉が頭にこびりついていたのか、帰宅した東馬は冷凍してある父親の蕎麦を湯がいてもらって食べたのだった。
自分が口にした言葉を自分で覆すのは案外に難しいと知る。
そして母親はクリーニング屋から洗濯物を引き上げて来ており、
「東馬ったらこんなTシャツをクリーニングに出さなくても。家で洗えばいいのに……」
ぼやきながら二階の東馬の部屋に持って来てくれた。
何気なくそれを手に取れば、まるで佐宗真樹店長に渡されたかのようにときめくのだった。ユニクロで買った何でもないTシャツなのに。
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