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第12話 文月の旅

 佐宗真樹は博多うどん店たぬき屋を退職後、弟のいるアメリカはロサンゼルスに渡ったという。  リトルトーキョーの寿司屋で働き、やがてフランスに転勤を命じられた。  避暑地のニースで富裕層向け日本料理店を開くためだった。 「その店も軌道に乗ったから辞めて、パリで独立した。ニースの部下が一人ついてきてくれて⋯⋯」 「さっきの背の高い人?」 「ああ。二人で始めて⋯⋯そろそろ五年目かな」  うどん佐宗の数軒先にある日本茶のティールームで話している。  小さなテーブルに向かい合った真樹は白衣を脱いで地味なTシャツ一枚なのだが、鍛え上げた肉体がその容貌を引き立てていた。 「それは……独立おめでとう」  東馬は手元の抹茶茶碗を両手で掲げるようにして言うと、残っていたお薄を飲み干した。  対面の真樹には茶碗に隠れた東馬の表情は見えないだろう。この期に及んでどんな顔をすればいいのか見当もつかないのだった。  真樹の父親は、あの翌年に刑務所内で患って亡くなったと言う。 「そうなると知っていれば日本を離れることもなかったのに……」  呟く真樹に、東馬は黙って頷いていた。  もし真樹が日本を離れていなければ、もっと早くに再会できたかも知れないのに⋯⋯。 「じゃあ、また明日。お待ちしています」  ティールームを出て、真樹は握手の手を差し出した。  東馬はそっとその手を握って「じゃあ、また」と同じように言った。嗄れた小さな声だった。  棚橋商会の三田村は、帰国前にもう一軒得意先に寄ると言っていた。既に時間も約束しているとのことで、 「先生の絵のお得意様ですよ。日本に帰る一足先に日本料理を食って帰りましょう」  と、ご馳走になる気満々だった。  よもや食券機のある単なるうどん屋とは思っていないらしい。  例によってホテルのバーでワインを傾けながら、明日の訪問先について改めて説明する三田村である。  社長は日本人だが、直接絵の取引をしているのは、 「フランス人社員です。日本人社長の夫だそうですよ」 「……じゃあ、社長は女性?」  真樹は社長ではなく女社長に雇われていたのか?  東馬はクラッカーにチーズをのせて口に放り込んでから首を傾げた。 「いいえ。こっちでは同性婚が認められてますからね」 「はあ⋯⋯」 「日本人社長もフランス人社員も男です。男同士のカップルだそうです」  いきなり頭の中で全てが繋がった。 〝ニースの部下〟がついて来てくれて二人で店を始めたと言っていた。赤毛のひょろりと背の高い店員である。  あの時、真樹を守るように東馬の前に立ちはだかったのは、つまりそういうことだったのだ。  納得する一方で、その夜は怒りとも悲しみとも言い難い感情でなかなか眠りに就けなかった。  干支一回りの年月が経った後で嫉妬して何になる?  わかっている。  けれど夢の中で真樹があの逞しい腕で厚い胸板に赤毛の男を抱き寄せる場面を想像しては、怒りに駆られて飛び起きるのだった。  もしあの義父の存在がなければ自分達こそ結婚していたに違いない。真樹はパリでうどん屋を開き、東馬は画家として毎日でもルーブル美術館に通う。  パリの日本人カップル。何の違和感もないではないか。  なのに今や自分だけが異邦人の旅行者なのだ。  十二年分の口惜しさが怒涛の如く押し寄せる一夜なのだった。  翌日改めてうどん佐宗で真樹と顔を合わせた。  入り口の藍色の暖簾をよく見れば、ここにも真樹の手による〝うどん佐宗〟の文字が白抜きになっているのだった。  今度は奥のテーブル席でデザート付きのうどん定食を供される。 「やっぱりうどんは博多風の柔らかいのが美味いな」  しみじみ呟く東馬である。  東馬と三田村に料理を出して真樹はカウンター内に戻って行った。  二人の相手をしてくれたのは赤毛の男、ジャン・マルタンである。  フランス語で話すのを三田村が通訳する。 「うどん佐宗の2号店をニースに出すそうです。そこの壁に飾る絵を尾形先生に、50号程の大作をお願いしたいと」 「はあ⋯⋯」  夕べから東馬はこの間抜けな相槌しか打っていない。真樹と再会した衝撃がまだ心の中にきちんと納まっていないのだ。 「ジャンが言うには、社長には内緒のサプライズだそうですよ」 「はあ⋯⋯」  と繰り返すばかりの東馬に、ジャン・マルタンは熱心にカタコトの日本語で掻き口説く。 「東馬先生の他の絵も買うです。油絵、動物園シリーズ。社長大好きです」  対面の壁に飾ってある小品を示しては力説する。 「社長は尾形先生の絵、ネットで見つけたです。私買いました。この店の一年目の記念の時です」 「ありがとうございます! あのシリーズはまだ何点かありますよ」  すかさず美術商が口を挟む。 「それと別に大きな絵、描いて欲しいです。サプライズ。私達の結婚記念日に贈る」 「誰が描くか、そんなもん!!」瞬間そう思ったが口には出さなかった。  赤毛の男はそんな東馬の苛立ちを察したのか、テーブル越しに身を乗り出して、東馬の手を握るのだった。やたらに大きな手である。 「お願いします! 来年まで。時間いっぱいある。お金いっぱいある。いくらでもいい」  何だその直截な言い方は!?  いちいちジャン・マルタンの言い方が気に入らない東馬である。 「まあ、追々考えましょうよ先生」  間に入って執り成すのは三田村である。  そうして社長とその夫に送られて店を出た。 「またフランスにおいでの際にはお寄りください。来年にはニースに2号店を開きますから。お待ちしています」  背後でそう言う真樹はどうもジャン・マルタンのサプライズには全く気づいていないようである。  そして振り向いた東馬の身体をそっと抱き寄せた。思わず身を硬くしたが、それは単なる挨拶のハグだった。  隣では三田村とジャン・マルタンがハグやビズをしている。頬に軽くキスをする、またはチュッと音だけをさせる。それがフランス式の挨拶ビズである。  真樹ははっきりと東馬の頬に唇を寄せてキスをした。 「会えてよかった⋯⋯本当によかった」  耳元に聞こえた真樹の低い声に、東馬はいきなりあの薄暗い地下駐車場でのキスを思い出した。  途端に目の前が滲んだ。思わず両手で真樹の胸を押し戻した。 「ずっと会いたかった⋯⋯」  行動とは相反することを涙声で呟いていた。 「私もだ」  と再度強く抱きしめられる。  結局少しばかり泣いてしまう。ついに結ばれなかった人の腕の中で。  どうあってもこれは壁に飾る大きな絵を描かねばなるまい。  結婚記念日のサプライズ。  東馬にとっては結婚祝いになるだろう。  ようやくそう覚悟を決めたのは、日本に戻る飛行機の中だった。 「もしかして、干支一回りの清い関係って佐宗社長ですか?」  三田村礼央が嬉しそうにニヤニヤしている。 「またドラマチックな偶然ですねえ」  東馬は答えず窓の外を見ていた。  少なくとも佐宗真樹はネットに〝尾形東馬〟という画家を探し続けてくれたのだ。そうして同性の夫がプレゼントを思いつくほどに夢中になってくれた。  それでいい。過去の全てがそのことで許された気がする。それでもういいのだ。  一面の雲を茜色に染めて黄金色の太陽が沈んで行く。流れる雲を彩ってやがてどこかに姿を消した。  この太陽は日本に着くまでにまた姿を見せるはずである。日の出として。    太陽が沈んでまた昇るように会えるのだ。     かつて恋に溺れた相手が今は誰かと幸せになっている。 「先生、知ってました? 僕もゲイなんですけど」  唐突に三田村礼央が言うのだった。 「知らんよ。そんなの」   にべもなく言い捨てる東馬である。振り向きもしないで。 「結構老け専なんですけど」 「誰が老けてるんだ!?」  今度は振り向いて言った。  ふと頭に白いものが混じっていた佐宗真樹の姿を思い出す。  確かに老けた。自分も真樹も。  ふっと頬が緩んでやっと笑みが浮かんだ。 「本当に、清い関係だったんだよ。若い頃の遠い……思い出だよ」  言い聞かせるように、三田村の目を見た。  にわかに赤くなって目をそらす若者である。  自分は年下好みではない。わかっている。  けれどこの青年が間に入ってくれるなら、二人のためのサプライズの絵を描けるかも知れない。  そんな事を思いながら飛行機の小さな窓を眺める。  文月の異国の空は既に赤みが失せて藍色から夜へと変わりゆくのだった。                                        〈了〉      

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