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エピソード 岸千之①

 担当作家が締め切りを前にして高熱を出し三日寝込んだことが引き金となり、締め切りを遅らせてもらい、粘りに粘ってギリギリで脱稿した。その後ほぼ完徹で校了までもっていって、帰宅したのは日を跨いだ深夜だった。  シャワーを浴びて一息ついて、スマホを手に取ってから、ようやく気付いた。半日前に恋人からのメッセージが来ていたことに。 「お久しぶりです。私、千之さん以上に好きな人ができました。急で申し訳ないけど、別れてください。仕事忙しいと思ってメッセージで送りました。今までありがとう。仕事頑張って」  ──そうか。  こういう時、普通はどう反応するものなのか知らない。が、俺はいつも「そうか」、だ。  因みに今の瞬間「元」になった恋人とは、二年ほど付き合っている。仕事が忙しく、ここ半年くらい月一、二くらいしか会えていなかったが、少なくとも付き合っている期間としては短くは無いはずだ。  それでも、俺にはそれ以上の感情が湧かない。 「メッセージ気づかなくてごめん。分かった。こちらこそありがとう。その人と上手くいくといいな」  この時間ではもう寝ているだろうと思ったが、明日になって送るのも微妙だったから返事を返した。しかし、すぐに既読がついて、メッセージが一言。 「薄情者」  ──え?  意味がわからなかった。好きな人ができたと別れを告げた相手に一体何を期待したのだろう。別れたくないとしがみついて欲しかった? 会って話がしたかった? せめて電話が良かった?  何故そんなことを別れる相手にしないといけないのだろう。そもそもメッセージで別れを告げてきた方は「薄情者」ではないのだろうか?  ──岸くんさ、人を好きになったことないよね?  そんなことを別れる時に言ったのは、高校の時の彼女だったか。ふと昔を思い出した。  役所で公務員として働く温和な父と広告代理店でバリバリ働くキャリアウーマンだった母は、三十を過ぎた頃、結婚相談所で出会って結婚した。  翌年には俺が誕生。俺を妊娠中に流産しかかったのとどうしても女の子が欲しかった母は多忙を極める仕事を辞めた。  俺は長く一人っ子だった。一人っ子にはよくあることらしいが、他人が自分の持つ何かを欲しがる時──例えば玩具を取り上げられたとして、それを返して欲しいと主張しない、できない子供が多いらしい。  俺の場合は、多分それが極端に表れていて、どうしても欲しいもの、というのが無かったせいで、余計に他人に譲ることに抵抗が無かった。ヒーローの人形を取られても、車の玩具で遊べばいいのだから。  俺が十歳の時、母は待望の女の子を出産。 「ねえ、天使じゃない?」 「うん、間違いなく天使だな」 「天使にしようよ!」  顔を見てから名前をつけることにしていたが、あまりに綺麗な赤ちゃんだったので、「天使」という名前になるところだった。  しかし姓名判断が悪過ぎて、名前は百合の花のように純白の美しい女の子をイメージして「莉里花」となった。  俺は母に、妹は父に似た。母は背が高くキツめの顔をしているのに対し、父は少しぽっちゃりして丸っこい狸顔だ。見た目も可愛らしくいつもニコニコと明るい笑顔を振りまく妹は、俺達家族のアイドル的存在になった。  その後中学校に進学して、俺は陸上部に入った。小学校の頃から運動は得意だったが特にやりたい競技が無く、当時まだ背が小さかったこともあり、とりあえず走ることはできると思って。  中学二年に上がる頃、急激に身長が伸び出した。成長痛にも悩まされたが、陸上の成績が一気に上がって、地区大会で優勝するまでになる。  運動ができる男子という認識が浸透したのか、いつの間にか女子の間でモテ出していて、ある日体育委員だった俺は体育の副委員長に頼まれて体育祭の準備を手伝っていた。 「岸くん、今好きな人いる?」 「いや、いないです」  雑談の一つかなと思ったが、彼女の様子が違ったので不思議に思いつつ、向き直る。 「私、岸くんのこと好きなの。付き合ってくれない?」  俺にとってそれが初めてまともに向けられた好意だった。  一歳年上の彼女はとても体育委員副委員長としてもバスケ部の部長としても頑張っていた。そういう点でとても尊敬できる人だった。 「はい」  俺はそんな人が好意を持ってくれたのなら、応えたいと思った。それが、恋なのだと思ったから。  彼女はなかなかに積極的な女性で、その後の週末に勉強会をするという話で家に行ったら、そのまま俺は童貞を卒業することになった。  彼女とはしばらく付き合っていたが、高校進学をきっかけに、互いにすれ違うようになって、彼女から振られるかたちで別れた。  俺は高校でも陸上部に入ったが、正直短距離長距離走以外にも興味を持ち、槍投げや棒高跳び、砲丸投げも始めた。どの種目もそこそこの成績を納め、気付くと混成競技の選手になっていて、三年生の時には部長にもなった。  恋愛の方はというと、高一と高三の時に告白されて付き合ったが、またどちらにも振られて別れた。どちらも原因は部活に打ち込んでいて、休日に相手にしてもらえなかったから、というようなことだった。  大学に進学しても同じだった。陸上の混成競技の強化選手に選ばれるまでになっていて、合宿などに参加することが多くなり、三年近く付き合っていた彼女に「好きな人ができた」と振られた。  今までで一番長く付き合っていたので、もう少しへこむかと思ったけれど、別れた次の日には切り替えて練習に勤しんでいた。  しかし大学三年の冬、そこまで打ち込んでいた陸上を手放すのに、俺は何の躊躇も無かった。自分にはこの競技でトップに立つほどの才能がないと分かっていたから。  だから、就職活動を始めた。希望は出版社だった。小さい頃から漫画や小説が好きで、中学の時にもし漫画研究部や文芸部があったら、陸上部に入ってはいなかったと思う。  妹の影響もあって、少女漫画もよく読んだし、特に偏った読み方はしなかったので、色々な出版社に応募した。  そうして、俺は中小ではあるが出版社に就職が決まった。俺が今働いている会社だ。  その頃、友人らと就職が決まったメンツで飲み会を開いた時に逆ナンされて付き合った女性は、その後俺の恋バナの鉄板ネタとなる。  田舎から上京してきた大学生の彼女はとても賢い人で、臨床心理士を目指して真摯に学業に取り組んでいた。俺はそういう側面を好ましく思っていた。友達は柔らかい雰囲気で童顔で可愛いのに巨乳というギャップが最高だ、と評していたが。  俺は正直胸の大きさとか顔とかは二の次なので気にしていない。そう言うと「お前のストライクゾーン、男も入りそうで怖え」と言われた。  付き合って一年が経とうとしていたある日、彼女の家で鍋を作って食べていた。そこに突然男が乗り込んできたのだ。 「お前誰だよ! ふざけんなッ!」  正直言って状況を把握する間もなく、殴り掛かってきたので、避けられなかったこともあり、腕を掴んで捻ってしまった。男が悲鳴を上げたので慌てて手を離す。 「や、やめてよぉ……!」 「さや、どういうことだよっ!」  彼女は涙目で腕を捻られて痛がっている男の方に抱きつくように間に入った。男の手には彼女の部屋の鍵に付いているキーホルダーと同じものがついている鍵がある。その瞬間、全て理解した。 「とりあえず俺はもう邪魔みたいだし、帰るぞ」  ため息を吐いて立ち上がった。が、俺を彼女が涙目で見詰める。 「何で怒らないの……?」 「……怒る?」 「あたし、岸君のこと裏切ってたんだよ……!」  確かに、これは裏切りなのかもしれない。けれど、俺は怒りではなく、面倒だなと思うくらいのことしか感じていなかった。 「岸君、全然さやのこと好きじゃないじゃん……!」  号泣する彼女を男が宥めるように抱きしめる。俺はそのまま部屋を後にした。  その後、友人伝に聞いた話だが、彼女は他に二人の男性と付き合っていたのだそうだ。田舎で家業を継いだ彼氏とは長期休暇にしか会えないため、寂しさから浮気をしてしまったという話だった。  しかし四股とはやり過ぎな気もするけれど。そして俺が二番目だったのか四番目だったのかは永久に謎である。  今まで、ずっとそんな風の恋愛で、告白されて付き合うのに最終的に振られてしまった。  別れた後、一日二日は多少気分が沈むが、すぐに打ち込んでいるものに夢中になって忘れてしまう。  この姿を当時の友人らには「冷たいやつ」「情がないのか」「サイコパス」などと言われたものだ。  ──いや、情はある。しかしそれが恋情ではないというだけの話で。  俺は家族が大切だし、未だに年一で家族旅行に行くくらい仲が良い。特に妹は眼に入れても痛くないほど可愛いと思う存在だ。今まで友人も沢山いたし、友人が困っていたらその度に助けてきた。だから、家族愛や友愛はよく分かる。しかし恋愛はそれらとどう違うのか分からない。  俺の感覚では、友人と恋人との違いはセックスするかどうかだけなのだ。「友達になろうよ」と言われるのと「恋人になって」と言われることには差がない。  つまり、恋人と別れることは、友人に絶交を突き付けられるのと同じ。自分を嫌いになった友人に「友達でいたい」と縋り付くような真似をするかと聞かれたら、多くの人はそんなことはしないだろう。俺にとって恋人とは、そういう存在だ。  仕事より恋人を優先する人が居るらしいが、俺にしてみれば、仕事より友人を優先することはないはずで、なぜ恋人だけ特別なのかが理解できない。  こう言うと、全く恋人のことを大事にしていないようだが、恋人が夜中に会いたいと言えば時間が出来る限り会いに行くし、欲しい物があると言えば買うし、会う度に髪型や服装を褒めた。  基本的に悪いことはしていないと思う。ただ、今まで部活や仕事が忙しかったから会えなかっただけで、俺が特別間違ったことをしてきたとは思わない。  まあ、セックスについては「なんかそういう作業みたい」「スポーツみたいなセックス」と評されてきたので、宜しくなかったのかもしれないが……。  一応断っておくが、人並みに性欲はある。しかし、挿入に至るまでの工程を一つ一つ熟す感じなのだ。頭で考えて身体を動かす。理性に本能が打ち勝ったことがない。それが「作業」と評された原因だろう。  世の中の人がどういう恋愛をしているか、どういう感情で向き合っているのかは、物語の中に描かれた登場人物からでしか伝わらないものだった。  実感は湧かないが、頭で「こうなのだろう」と想像することはできる。だから、例えば恋愛漫画の担当編集になったとしたら、ロジカルにそれらを組み合わせて答えを弾き出すことは可能だ。  ──ただ、自分に恋情の理解ができないというだけで。  画面に映る「薄情者」という文字を見詰める。誰かを失いたくないと思うくらい恋い慕う気持ちとはどういうものなのだろう。  俺には一生実感できないかもしれない。少なくとも、そんな出会いがあるとは、思ってもいなかった。

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