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第1話 最悪な日

 死んでいないから生きている。  不安定で朧げで。  ほんの少し、とん、と背中を押されてしまえば、あっけなくどこかへ消えてしまいそうな、脆い命の感触。  けたたましく鳴り響く救急車のサイレンの音。  頬を伝う、生ぬるくて鉄の匂いがする液体。  暗闇の中で、助けを求めて必死に手を伸ばしても、全てすり抜けていく。 「っ……!」  声にならない叫び声を上げ、水澄レオはベッドから跳ね起きた。  ひどい寝汗だった。パジャマが冷たく肌に張り付いている。  ぜえぜえと呼吸が乱れ、今にも心臓が肋骨を突き破って外へ飛び出してきそうだ。 「大丈夫」 「大丈夫」 「……ただの夢だから」  震える両手で顔を覆い、自分に言い聞かせるようにぽつりぽつりと繰り返す。  なんとか呼吸を整え、1階の薄暗いキッチンへ向かった。  そう、夢だ。  ただの夢。  過去に起きた凄惨な事故の記憶が、ふとこうして夢の中に顔を出すことがある。  決まって、心のどこかにプレッシャーや不安を抱えている時だ。  キッチンで温かい紅茶を淹れて、ゆっくりと口に含む。  ふわりと香る茶葉の匂い。  温かい液体が喉を通り、胃の腑に落ちていく感覚。  自分が今、確かにここで生きているという感覚。 「いつまで、続くのかな……」  両親はもう、この世にいない。  交通事故で、そのまま。  何年も前のことなのに。  あの日のサイレンの音も、血の匂いも、昨日のことのように鮮明に思い出せる。  忘れたいのに。  忘れさせてくれない。  ふう、と深くため息をつく。  空になったマグカップを洗い、自室に戻る。  そしてまた、悪夢の続きを見るために、重い瞼を閉じて眠りへ落ちていく。  翌朝。 「おはよう、レオ!」 「……おはよう」  兄のショウは、朝から底抜けに元気だ。  目が覚めた瞬間から、100%の状態。  夜の暗闇を引きずっているレオからすれば、少しだけ眩しくて、羨ましい。 「今日」  コーヒーを淹れながら、ショウが振り返る。 「テスト返却だよな」 「そうだね」と、レオは弱々しく返す。  今日は、憂鬱な学年末テストの返却日だ。  レオの在籍する特別進学科は、全部で2クラス。  年間のテスト結果の総合順位で、来年度のクラス(上位のαクラスか、下位のβクラスか)が振り分けられるシビアな仕組みだ。  レオは、教師からも一目置かれる成績優秀な模範生徒だ。  今までのテストも、常にトップクラスの好成績をおさめている。  それでも。 「もしかしたら落ちるかも、って、どうしても考えちゃって」  不安をこぼすレオに、ショウはにこりと笑った。 「絶対に大丈夫! レオはあんなに頑張ってたんだから、もっと自信を持とう!」  そして、レオの背中をばしばしと遠慮なく叩く。  痛いけれど、温かい。  ショウなりの、精一杯の激励。  ただの気休めの慰めではない。  本気で「レオなら大丈夫だ」と信じきっている、真っ直ぐな顔。  ショウが兄で、本当に良かった。  いつだってレオを信じて。  ごまかしのない目で、真っ直ぐに見てくれる。 「痛いよ」と苦笑いしながらも、熱い味噌汁をぐっと飲み干した。  少しだけ、お腹の底から勇気が湧いてくる気がした。  二人だけの食卓。  両親がいなくなってからずっと続く、いつもの光景。  だけど。  今日は少しだけ違った。  向かいに座るショウが、さっきから妙にそわそわしている。  視線が泳ぎ、落ち着きがない。 「……そういえば」  ショウが、箸を置いて改まって言う。  レオは顔を上げた。  珍しい。ショウがこんな、緊張したような顔をするのは。 「俺、リサと結婚前提に、この家で一緒に住みたいと考えていて」  空気が、ふっと止まった。 「レオには色々と気を遣わせて、迷惑をかけてしまうと思うんだけど……」  申し訳なさそうな顔で、ショウは少し俯く。  リサ。  ショウの彼女。  何度か会って、挨拶をしたことがある。  明るくて、華があって。  一見するとギャルみたいで怖そうな見た目をしているけれど、話してみるととても優しくて、気配りのできる素敵な女性だ。  一年ほど前からショウと付き合っている。 「……いいと思う」 「本当に!?」  ショウの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなる。  本当に、リサのことが大好きなのだろう。  不安がないわけではない。  血の繋がらない他人との、同じ屋根の下での生活。  生活リズムも、価値観も違う。  それでも。  両親が亡くなってから、自分の青春も人生もすべて捨てて、レオを育てることだけに奔走してくれたショウが。  ようやく、彼自身の幸せを掴もうとしているのだ。  断る理由なんて、どこにもない。  むしろ、大賛成だ。 「四人で、仲良く暮らしていこうな」  四人。  ショウと、レオと、リサと。  あとは——  ああ、そっか。お腹に二人の赤ちゃんがいるのか。 「おめでとう、ショウ兄」 「ありがとう、レオ……!」  顔を綻ばせ、心の底からショウを祝福する。  昨晩の悪夢のべたつくような感覚なんて、すっかり消え去っていた。  心が軽い。  来週の終業式の日。  顔合わせを兼ねて、レストランで食事会をすることになった。  引越しの日までに、家をキレイに片付けておこう。  リサさんのために、妊娠中でも食べられる栄養のあるメニューも勉強しなくちゃ。  そんなことを考えながら、レオは学校へと向かった。 「あーーーーーー! もう無理無理無理!」  学校の教室へ足を踏み入れた瞬間。  友人のカズ——廣野一輝が、頭を抱えて大声で発狂していた。 「あいつ、朝から本当にうるさいな……」  レオが席に着くのと同時。  もう一人の友人、ハル——五島春樹も教室へ入ってくる。  カズの惨状を見て、迷惑そうにボソリと呟いた。  カズとハル。  特別進学科という息の詰まる環境の中で、レオが気を許せる数少ない友達だ。 「ハルとレオはいいよな! レオなんて毎回学年10位以内キープだし、ハルだって基本は20位以内だろ! 俺だけボーダーラインぎりぎりなんだよ!」  しかもお前ら2人とも塾なし!  おまけに高身長!  顔もイケメン!!  世の中不平等すぎる!!  カズは机に突っ伏して、意味不明な恨み言を叫んでいる。  かと思えば。  今度は顔を上げて、メソメソと泣き真似を始める。 「俺がβクラスに落ちて離れ離れになっても……廊下ですれ違ったら、仲良くしてくれよなぁ……」  ハルが、心底やれやれという顔をしてため息をつく。  テスト返却日の、いつもの風景だ。 「ま、お前が落ちた時は、ジュース一本くらいで慰めてやるよ」  笑ったほうがいい?  と、ハルが容赦ない追撃をかける。 「ふざけんな!」と怒るカズ。  ハルとカズは同じ中学の出身で、なんだかんだ言っていつも一緒にいる。  口の悪い軽口も、築き上げられた信頼があるからこそだ。  ふと、ハルがレオの顔をじっと見て言った。 「……レオ、何かいいことあった?」  ハルは鋭い。  人のちょっとした表情の変化や空気の違いに、すぐに気付く。 「ちょっとね。家のことなんだけど」 「そりゃよかった」  深くは追求せず、ハルは小さく笑った。  その時、ホームルームの開始を告げる鐘が、学校中に鳴り響いた——。  帰り道。 (そうだ、結果をショウ兄に伝えなきゃ)  スマートフォンの画面を開く。  結果は、来年も無事に上位のαクラスだった。  カズもギリギリ滑り込み、ハルも一緒。 『朝は励ましてくれてありがとう。無事に残れたよ』  メッセージを送ると、数秒で既読になった。  その後すぐ。 『おめでとう! さすがレオ!』と、大泣きして喜ぶスタンプが送られてくる。  仕事中なのに。  ずっと心配して、連絡を待っててくれたんだ。  今日は、ショウ兄の好物のハンバーグをたくさん作って待っていよう。  そんなことを思いながら、レオは軽い足取りでスーパーへ向かった。  この時。  少し離れた場所から、自分を熱を帯びた視線で見つめる人物がいることなど。  レオは全く気付いていなかった。  一週間後。  顔合わせの日。  学校の図書室で自習をしてから、待ち合わせのレストランへ向かう。  店の前に着くと、レオは少しだけ深呼吸をした。  緊張していた。  リサのことは好きだ。  優しいし、話しやすいし。  今までの、ショウが連れてきた歴代の彼女達とはどこか違って、安心できる感じがする。  でも。 「たまに会うお姉さん」から、「一緒に暮らす家族」になるとなると、話は別だ。  うまくやれるだろうか。  先に到着していたショウと合流する。  レストランのエントランスで待っていると、自動ドアが開き、リサが現れた。 「レオ! 待たせちゃってごめんね」 「こんばんは。いえ、僕たちも今来たところです」 「今日は来てくれてありがとうね」  リサはいつも通り、パッと周りが明るくなるような笑顔だった。 だが。  レオの視線は、リサの「隣」で釘付けになった。  リサの隣に。  背の高い男子が立っていた。  レオは固まった。  制服の着崩し方。  色素の薄い金髪。  長い手足。  見覚えがある——どころじゃない。  学校で、彼のことを知らない生徒はいない。  スポーツ科に在籍する、サッカー部の絶対的エース。  そして、数々の浮名を流す要注意人物。  櫻井ケント。 「……え」  思わず、間の抜けた声が漏れた。 「これからよろしくな、レオ」  ケントが、レオを見下ろしてニコリと笑う。  状況が、全く飲み込めない。  思考が停止する。 「えーっと……」  なんで?  なんで、櫻井ケントがここにいるの?  たぶん、これ以上ないほど分かりやすく顔に出ていたのだろう。 「言ってなかった、……っけ?」  ショウが、不思議そうに首を傾げた。 「……言ったつもりだったんだけど」  確実に聞いていない。  櫻井ケントが、櫻井リサの「弟」だなんて。  一言も聞いていない。  四人で仲良く暮らそうって。  ああ。  そういう。  赤ん坊なんかじゃない。  同い年の、高校生の義弟。  よりによって。  櫻井ケント?  あの?  学校中で噂になっている? 「てことで、よろしくな」  フリーズしているレオに、ケントがもう一度笑いかけた。  人懐っこい、大型犬のような笑顔。  確かに、顔は整っている。  女子に人気があるのも頷ける。  だけど。  レオの頭の中では、彼にまつわる黒い噂がぐるぐると渦巻いていた。 『しょっちゅう違う女子と歩いてるらしいよ』 『超遊び人』 『チャラいし、すぐ女の子を泣かせるらしい』  そんな、根拠のない噂の数々。 「……よろしく」  レオは、反射的に一歩、後ろへ引いてしまった。  警戒心を剥き出しにしたその態度に。  ケントが、ほんの少しだけ肩透かしを食らったように、傷ついたような目をした……気がした。  でも、彼は何も言わず、すぐにいつもの飄々とした笑顔に戻った。  帰り道。  リサたちと別れ、ショウと2人で夜道を歩く。  レオはずっと無言だった。  さっきまでの緊張とは違う、重苦しい沈黙。  ショウが心配そうに覗き込んでくる。 「どうした? レオ」 「……別に」 「もしかして、学校でケントと仲悪いとか?」 「別に。喋ったこともないから」  嘘だった。  仲が悪いわけじゃない。  正確には。  ただ、ひたすらに「怖かった」。  自分たちだけの、静かで落ち着くはずの家。  そこに、得体の知れない、台風みたいな人間が入ってくる。  自分の平穏な領域が、ケントによって無惨に荒らされるんじゃないか。  そんな強い恐怖と不安が、レオの胸を黒く塗りつぶしていた。  翌日。  引っ越し当日。  業者のトラックが去った後。  レオは、新しくケントの部屋になる予定の洋室へ向かった。  そして、そこに運び込まれた荷物を見て、思わず目を丸くした。  少ない。  異常なほどに、少ない。  部屋の隅に置かれた、段ボールがたったの二箱。  あとは、使い込まれた黒いスポーツバッグが一つ。  本当に、それだけだった。 「……これで、全部?」  部屋にいたケントに、思わず聞いてしまった。  ケントは、スポーツバッグから制服を取り出し、ハンガーに掛けながら振り返った。 「あー、うん」  そして。  天気の話でもするかのように、何でもないことみたいに言った。 「物なんて、あってもしょうがないじゃん?」  レオは、息を呑んで黙り込んだ。  その言葉が。  その時の、少しだけ影の落ちたケントの横顔が。  妙に、胸の奥に引っかかった。  高校生らしくない。  未来に何も期待していないような。  最初から、すべてを諦めている人みたいな言い方だった。  けれど。  まだ、この時のレオは何も知らない。  ケントがこれまで、どんな家庭環境で育ってきたのかも。  その手に掴もうとするたび、何を失ってきたのかも。  何も、知らない。  ただ一つだけ、レオの中で確かなのは。 (……やっぱり、この人のこと、苦手かもしれない)  自分とは住む世界も、見ている景色も違う。  そう強く思ったことだけだった。

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