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第2話 ここにいるから
新しい生活が始まって、約1か月。
水澄レオは、自分でも気付かないうちに少しずつ限界に近づいていた。
学校での特別進学科の重圧。
完璧にこなそうとする日々の家事。
深夜まで及ぶ勉強。
そして。
新しい同居人たちとの、気を遣う生活。
ショウとリサが幸せそうであればあるほど、レオは自分がその空気を壊してはいけないと強く思っていた。
ショウも、リサも、気付いていない。
レオ自身も、心の奥で鳴り始めた軋むような音に、気付かないふりをしていた。
(大丈夫)
(おれなら平気)
昔から、ずっとそうやってきた。
両親が亡くなって、ショウと二人きりになった日から。
自分もしっかりしなきゃと、弱音を飲み込んできた。
だから今回も。
きっと大丈夫。乗り越えられる。
夜。
自室のベッドで、重い身体を横たえて目を閉じる。
そして。
泥のような眠りに落ちた先で、また夢を見る。
いつもの、逃げ場のない夢。
病院の、冷たくて白い廊下。
熱でぼんやりとした頭。
額を撫でてくれる、優しい母の手の感触。
「すぐに良くなるぞ」と笑う、父の頼もしい声。
雨の日。
フロントガラスを叩く雨音。
突然の、鼓膜を破るようなブレーキ音。
そして。
視界を埋め尽くす、真っ赤な光。
「っ……!」
レオは、弾かれたように飛び起きた。
ぜえぜえと、喉の奥から荒い呼吸が漏れる。
暗闇の中で時計を見る。
午前三時。
まただ。
額から首筋にかけて、ひどく冷たくて嫌な汗がびっしょりと滲んでいた。
喉が焼けるように痛い。
鉛を飲み込んだように、身体が重い。
けれど。
大丈夫。
これはいつもの夢だから。
ただの夢だから。
そう自分に言い聞かせて、再び目を閉じる。
熱を帯びた身体で、また同じ悪夢のループに落ちていくとも知らずに。
翌朝。
身体の奥から湧き上がるような寒気を感じて体温計を挟むと、熱は38度を軽く超えていた。
けれど、レオは普通にベッドから起きた。
重い足を引きずってキッチンへ向かい、朝食を作る。
四人分の弁当を彩りよく詰める。
その間に洗濯機を回す。
いつも通り。
何事もない、いつも通り。
「……レオ、顔白くない?」
ダイニングテーブルで、リサが心配そうにレオの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ」
「本当? 無理してない?」
「うん。昨日、ちょっと勉強で寝不足なだけだから」
嘘だった。
立っているのもやっとの状態で、視界の端がぐらぐらと揺れている。
けれど。
仕事に行くショウやリサに心配をかけたくなかった。
迷惑な存在になりたくなかった。
いざ、学校へ行こうと玄関で靴を履こうとする。
でも。
頭が割れるように痛い。
歯の根が合わないほど寒い。
身体が言うことを聞かない。
自室に戻り、再度熱を測る。
39度2分。
さすがに、物理的に一歩も歩けないと自覚した。
レオは、学校を休むことになった。
高校生になってから、いや両親を亡くして以降、初めてのことだった。
「おれのことは気にしないで」
玄関で、心配して立ち尽くす二人に言う。
「ショウ兄も大事な仕事でしょ」
「でも、レオ……」
「リサさんも、うつったら大変だから近付いちゃダメ」
「レオ、何か買ってこようか?」
「ううん、大丈夫だから」
微笑む。
いつも通りの、優等生で手のかからない弟の顔。
だから、二人は後ろ髪を引かれながらも納得してしまった。
「何かあったらすぐに電話しろよ」と言って、家を出て行った。
唯一。
その場にいたケントだけが、全く納得していなかった。
午前中の授業中。
特進科とは離れたスポーツ科の教室で、ケントはずっと窓の外を見ていた。
机に広げたノートは真っ白。
黒板の文字なんて一つも頭に入ってこない。
頭に浮かぶのは、今朝のレオの青白い顔だけだった。
口では「大丈夫」と笑っていた。
でも。
あれは、無理をして、必死に強がっている人間の顔だった。
触れなくても分かるくらい、息が荒かった。
一人で家に残してきて良かったのか?
本当に大丈夫なのか?
先生の単調な声が、ひどく遠くに聞こえる。
気付けば。
ケントはガタッと音を立てて立ち上がっていた。
「櫻井? どうした」
「……すみません」
「どこ行くんだ」
「帰ります」
「は?」
「腹、超痛いんで」
教室中がしんと静まり返る。
先生の制止の言葉も待たず、ケントはカバンを掴むと、そのまま教室から出て行った。
自転車を立ち漕ぎして、家へ急ぐ。
家のドアの前に着いた時、言い知れぬ嫌な予感がした。
静かすぎる。
「レオ?」
玄関を開ける。
返事はない。
靴は脱ぎ捨て、急いで階段を駆け上がる。
二階の廊下。
レオの部屋の扉が、少しだけ開いていた。
「レオ、入るぞ?」
それでも返事がない。
嫌な汗が背中を伝う。
そっと中を覗き込む。
そして。
ケントの顔色が一瞬で青ざめた。
「レオ!」
ベッドの傍らで、レオが床に座り込んでいた。
ひゅー、ひゅーと、途切れ途切れの苦しそうな呼吸。
丸まった身体は、可哀想なくらいガタガタと震えている。
胃液しか出ないのか、空のゴミ箱に顔を伏せ、苦しそうに肩を上下させていた。
「おい、レオ! しっかりしろ!」
慌てて駆け寄り、その細い肩を抱き起す。
レオが力なく顔を上げた。
顔中、異常なほど真っ赤だった。
それは高熱のせいだけじゃない。
苦痛と、嘔吐の苦しさと、情けなさで。
その綺麗な顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「……ケント、……?」
「大丈夫……じゃないよな、全然」
「学校……どうしたの……」
「そんなの、それどころじゃねぇだろ!」
熱を持った額に、手を当てる。
熱い。
火のように熱い。異常なくらいだ。
ケントはベッドから毛布を引きずり下ろし、レオをくるんだ。
慌てて一階へ降りてスポーツドリンクと氷枕を持ち込み、薬箱から解熱剤を探し出す。
無我夢中だった。
こんなに焦ったのは、人生で初めてかもしれない。
小一時間ほどして。
薬を飲み、吐き気も治まったレオは、ようやくベッドの布団に横になっていた。
それでも。
高熱でぐったりしているはずなのに、レオは眠ろうとしない。
目を閉じようとしない。
焦点の合わない虚ろな目で、ただじっと天井を見つめている。
ベッドの脇に座り込んでいたケントは、不思議に思って声をかけた。
「……寝ろよ」
「……」
「薬、飲んだんだから。あとは寝るだけだろ」
「……うん」
「寝た方が早く治るって。無理すんな」
レオは答えない。
ただ。
首元まで引き上げたシーツを、両手で白くなるほど強く握り締めている。
何か見えない恐怖を、必死に我慢するみたいに。
しばらくして。
かすれた、小さな声が聞こえた。
「……寝たくない」
ケントは耳を疑った。
聞き間違いかと思った。
「え?」
「寝ると……」
レオは、震える腕で自分の顔を覆った。
「また、怖い夢を見るから……」
その言葉は。
普段の、大人びていて隙のないレオからは想像もつかないほど、あまりにも弱々しく、幼かった。
まるで、迷子になって怯える子供みたいだった。
ぽつり。
ぽつり。
静かな部屋の中で、レオはゆっくりと話し始めた。
両親のこと。
自分が熱を出したせいで、迎えに来てくれた両親が事故に遭ったこと。
その日から、同じ悪夢が何年も続いていること。
そして。
今でもずっと、心の底で自分自身を責め続けていること。
全部。
誰にも言えずに、一人で抱え込んできた真っ暗な感情。
消えてしまいたい。
そうしたら、楽になれるかもしれない。
初めて。
他人の前で、口にした。
話し終わる頃には。
レオの声は、泣いているように震えていた。
「……変だよね」
自嘲するように、小さく笑う。
「もう何年も前のことなのに。いつまでも、こんなの引きずって……」
ケントは何も言わなかった。
安っぽい慰めの言葉なんて、言えなかった。
ただ、ひどく胸が痛かった。
こんなに細い肩で。
この人は、ずっと一人で重い十字架を背負ってきたんだ。
ケントは、そっと手を伸ばした。
そして、シーツを握り締めていたレオの震える手を、自分の大きな手で包み込むように握った。
レオが驚いて、少しだけ顔を上げる。
「……ケント?」
「大丈夫」
「……」
「怖い夢見ても」
ケントは、レオの目を見て笑った。
いつもの、人を食ったような明るいチャラい笑顔じゃない。
不器用で、でも真っ直ぐで、少しだけ優しい笑顔。
「オレが、ここにいるから」
レオの揺れる瞳から、すっと一筋の涙がこぼれた。
「起きたら、絶対にオレがいる」
「……」
「だから、何も心配しないで安心して寝ろ」
「そんなの……悪いよ……」
「大丈夫」
ケントは、握った手に少しだけ力を込めて、もう一度言う。
「オレ、ずっとここにいるから。どこにも行かないから」
レオは、しばらくその温かい瞳を見つめて、黙っていた。
それから。
観念したように、ゆっくりと重い瞼を閉じた。
不思議だった。
あんなに眠るのが怖かったのに。
ずっと、夢の中の孤独に怯えていたのに。
自分を包み込む手のひらが、信じられないくらい温かい。
レオは、その温もりに引っ張られるように、何年ぶりかの深く、静かな眠りへと落ちていった。
夕方。
窓の外がオレンジ色に染まる頃。
レオは、ふっと自然に目を覚ました。
身体の重さは消え、体調は嘘のように良くなっていた。
汗をかいたせいか、少し肌寒い。
ゆっくりと横を見る。
そこには、本当にケントがいた。
床に座ったまま、器用に眠っていた。
そして。
レオの右手を包み込んだその手は、寝ている間も決して離れてはいなかった。
静かな寝息を立てるケントを、レオはじっと見つめる。
少し乱れた色素の薄い金髪。
普段の強気な態度とは違う、無防備な寝顔。
長い足を持て余した、どう見ても窮屈そうな体勢。
(本当に、ずっといてくれたんだ……)
馬鹿だと思った。
わざわざ学校を早退して、他人の看病のために床で寝るなんて。
本当に、お人好しの馬鹿だ。
でも。
胸の奥が、じんわりと溶けるように温かかった。
その時のレオは、まだ知らない。
この、心を甘く締め付ける感情の名前を。
今まで味わったことのない安心感の正体を、まだ知らなかった。
ただ。
最初は自分とは正反対の「怖い人」だと思っていた櫻井ケントが。
自分の中で、少しだけ。
ほんの少しだけ。
誰にも代えられない「特別な存在」になり始めていることだけは、確かに感じていた。
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