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第3話 好きな人、いるから。

 五月も終わりの頃。  少しずつ日差しが強くなり、夏の気配が混じり始めた季節。  学校祭の代休明けの日だった。  昼休み。  教室はまだ、祭りの熱気と余韻を引きずっていて、ひどく騒がしい。  レオは一人、窓際の自分の席で本を開いていた。  その時。  近くの席に集まっていた女子たちの会話が、ふいに耳に飛び込んできた。 「ねえ、聞いた?」 「なになに?」 「佐野さん、櫻井くんに告白したらしいよ」  ピタリ、と。  レオの指が止まった。  ページをめくる音も、周囲の喧騒も、一瞬だけ遠のく。  心臓だけが、嫌に大きくドクンと鳴った。 「えっ、マジで?」 「文化祭の後片付けの時らしいよ」 「あー、やっぱり? ずっと狙ってる感あったもんねー」  きゃあきゃあと、楽しそうな声が続く。  レオは視線を本に落としたまま、石のように動かなかった。  活字を目で追っているふりをしているけれど、文字が全く頭に入ってこない。  佐野萌香。  同じクラスの女子。  明るくて、愛嬌があって、可愛い。  誰とでも分け隔てなく話し、友達も多い。  そして。  ケントと、同じ中学出身の女の子だった。 『ケントって、昔からすっごくモテてたんだよ』 『中学の時のバレンタインなんて、本当に大変だったんだから』 『あ、ケントってああ見えて、意外と甘いもの好きなんだよ?』 『ケントって、不器用だけど意外と優しいんだよね』  これまで、彼女の口から何度、その言葉を聞いただろう。  決して嫌味で言っているわけではない。  悪い子じゃない。むしろ、普段は親切でいい子だ。  でも。  ケントの話になると。  ほんの少しだけ、声のトーンが上がり、得意そうになる。  まるで。 「私だけが、昔から彼の特別な部分を知っている」とでも言うみたいに。  レオは、静かに本を閉じた。  読めない。  全然、読めない。  放課後。  家に着く。  エプロンをつけて夕飯を作る。  ショウと、リサと、ケント。四人で食卓を囲んで食べる。  食器を洗って片付ける。  風呂に入る。  自分の部屋に戻り、机に向かって勉強する。  外から見れば、全部いつも通りだ。  なのに。  胸の奥が、ずっと泥水のようにざわざわと波打っている。  夜。  自室。  気晴らしに、昼休みの続きの本を開く。  活字が滑る。読めない。  パタン、と閉じる。  深呼吸して、また開く。  やっぱり、一行も読めない。  閉じる。  もう、同じことを3回繰り返していた。 (……なんなんだろう、これ)  レオは、熱を持った額を手のひらで押さえた。  理由は分かっている。  ただ、自分の中で認めたくないだけだ。  もし。  萌香とケントが付き合ったら。  その想像が頭に浮かんだ瞬間。  胸の奥が、ぎゅっと雑巾を絞られるように痛くなった。  肺が縮んだみたいに、呼吸が少し苦しい。  嫌だ。  明確に、そう思った。 (……なんで?)  自分でも分からない。  ケントは友達だ。  ただの、少し気の合う、特別な友達。  たまたま同じ屋根の下に同居している義理の兄弟。  それだけ。  それだけのはずなのに。 『もし、あの子と付き合ったら』  その想像をするだけで、どうしようもなく苦しい。  コンコン。  その時、ドアが軽く鳴った。 「レオ?」  ケントの声だった。 「……起きてる?」 「うん」  ドアが静かに開く。 「よっ」と、いつも通りの気だるげな、でも人懐っこい笑顔。  その顔を見た瞬間、レオの胸がまた、きゅうっと苦しくなった。 「数学、教えて」 「今?」 「今」 「明日でいいでしょ」 「明日提出のやつだからヤバい」 「……自分でやりなよ」 「そこをなんとか。レオ先生、お願いします」  わざとらしく、両手を合わせて深く頭を下げる。  本当に困っているわけじゃない、甘えたような声。  レオは、小さくため息をついた。 「……ちょっとだけだからね」 「マジで助かる!」  嬉しそうに、くしゃりと笑う。  その無防備な顔を見ると。  また、波のように胸が痛む。  机を挟んで、向かい合わせに座る。  ケントが持ち込んだ問題集を開き、レオがノートに数式を書きながら説明する。 「ここは、この公式を当てはめて……」  数分後。  ふと顔を上げると、ケントは全然ノートを見ていなかった。  というか。  途中からずっと、頬杖をついてレオの顔をじっと見つめている。 「……聞いてる?」 「ん。聞いてる」 「絶対聞いてないでしょ」 「聞いてるって」 「じゃあ、今何説明した?」 「……」 「ほら。図星」  呆れてため息をつくと、ケントは悪びれもせずに言った。 「いや、レオのまつ毛、すげー長いなって思って」  さらりと、とんでもないことを言う。 「……帰って」 「今から真面目にやるから」  いつもなら、ここで呆れながらも笑い合える。  でも、今日だけは、どうしても笑えなかった。  口角が引き攣ったまま、下を向いてしまう。  ケントが、ふざけた空気を消して、不思議そうに首を傾げた。 「レオ?」 「なに」 「……なんかあった?」  心臓が、ドキッとはねた。 「別に」 「嘘」 「嘘じゃない」 「今日、元気ない」 「そんなことないよ」 「ある」  即答だった。  いつも適当に見えて、ケントはこういう時だけ異常に勘が鋭い。  しばらく、重い沈黙が落ちる。  そして。  ケントが、窺うようにぽつりと言った。 「もしかしてさ」 「……」 「オレ、なんかした?」  違う。  ケントは悪くない。  何も、1つも悪くない。  悪いのは、勝手にモヤモヤしている自分の心だ。 「違うよ」  レオは、ペンを握り直して言った。 「……ちょっと、勉強で疲れてるだけ」  気付かれないように。  この醜い感情を悟られないように。  精一杯、声のトーンを上げて明るく振る舞う。  そして。  自分でもどうしてこんなことを言うのか分からないまま、口が勝手に動いていた。 「そういえば、話変わるけどさ」 「……佐野さん」 「ん?」 「佐野さんから告白されたって、クラスで噂になってるよ」  ケントの動きが、ピタリと固まった。  数秒。  呼吸すら忘れたように、完全に止まった。 「……誰に?」 「だから、ケントに」 「……」  レオは、恐る恐る顔を上げる。  ケントは、目を丸くして本気で驚いていた。 「なんで、レオがそれ知ってるの」 「……やっぱり、本当なんだ」 「いや……」 「……」 「まあ……告白は、された」  やっぱり。  本当だったんだ。  その瞬間。  自分でも驚くくらい、急速に気持ちが暗い底へと沈んでいくのが分かった。 「……そう、なんだ」  それだけ言うのが、精一杯だった。  声が、ひどく掠れた。  ケントは気まずそうに、しばらく黙って視線を泳がせていた。  それから、頭をかいて、小さな声で言った。 「まあ、断ったけど」  その言葉に、すがりつきたくなる。  でも、平静を装う。 「……へえ」 「きっちり断った」 「……なんで?」 「なんでって」  ケントは、何を馬鹿なことを聞くんだと言うように、当たり前みたいに言った。 「好きな人、いるし」  レオの心臓が、本当に、止まりそうになった。  好きな人。  あの、飄々としていて、誰にでも等しく優しくて、特定の誰かに執着しそうにないケントに。  好きな人がいる。  その、覆しようのない事実だけで。  今度はさっきとは違う、絶望に似た意味で、胸が激しく苦しくなった。  空気が足りない。 「……そっか」  それ以上、何も聞けなかった。 「誰なの?」と。  それを聞く勇気が、レオには全くなかった。 「じゃあ、オレ戻るわ。ありがと」  気まずい空気のまま、ケントが部屋を出て行ったあと。  レオは、机の上に力なく突っ伏した。  顔が、熱い。  胸が、張り裂けそうに苦しい。  頭が、どうかしてしまいそうだ。  萌香が告白したと聞いた時。  自分の知らないケントを取られるみたいで、苦しかった。  断られたと知った時。  誰のものにもならなかったことに、少しだけ、ひどく安心した。  でも。 「好きな人がいる」と聞いた時。  それが誰なのか分からない恐怖と嫉妬で、もっと苦しくなった。  こんな感情、今まで生きてきて一度も味わったことがない。  答えは、もう、1つしかない。  レオは、机に顔を伏せたまま、ゆっくりと目を閉じた。 「……おれ」  誰もいない、静まり返った部屋で。  震える唇から、小さく言葉がこぼれ落ちる。 「……ケントのこと、好きなんだ」  ただの友達なんかじゃない。  家族でもない。  特別な感情。  独り占めしたくて、他の誰かを見てほしくなくて、胸が痛くなるほどの熱。  それは。  十六歳の水澄レオが、人生で初めて、どうしようもない自分の「恋」を明確に自覚した夜だった。

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