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第60話 櫻井ケント
ケントが両親を亡くしたのは、小学校高学年の頃だった。
その日のことは、あまり覚えていない。
サイレンの音。
大人たちの、ざわめき。
黒い服を着た人たちの、哀れむような視線。
それらはすべて、フィルター越しに見ているような、遠くて現実感のない景色だった。
唯一、鮮明に覚えているのは。
泣きながら、自分を強く抱きしめていた姉・リサの腕の温度だけだった。
震える細い腕。
首筋に落ちる、熱い涙。
その温もりだけが、ケントをこの世界に繋ぎ止めていた。
それからの日々は、慌ただしかった。
親戚の出入り。
葬儀。
役所の手続き。
すべてが目まぐるしく過ぎていく。
色んな人が、心配してくれた。
色んな人が、優しくしてくれた。
「可哀想に」という言葉を、何度も聞いた。
だから、ケントも笑った。
周囲が安心するように。
これ以上、波風が立たないように。
大丈夫だよ。
平気。
元気だよ。
何度も、そう口にした。
でも、本当に平気だったわけじゃない。
ただ、心をすり減らすことに疲れてしまったのだ。
悲しいとか。
寂しいとか。
痛いとか。
そんな感情を抱き続けるのは、あまりにも体力を消耗する。
だから、心に蓋をした。
何も感じないように。
期待しないように。
いつの間にか、何かを強く望むことがなくなっていた。
欲しいものなんて、もう何もなかった。
中学生になった。
サッカー部へ入った。
サッカーは嫌いじゃない。
むしろ、好きだった。
グラウンドを走る。
風を切る。
息が上がる。
ボールを追いかけている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
試合中は、頭が完全に空っぽになる。
ただ、目の前のボールと、ゴールだけ。
心臓の音だけが、耳の奥で響く。
それが、どうしようもなく楽だった。
友達もいた。
一緒に笑った。
馬鹿なことをして、遊んだ。
恋人もできた。
告白されて。
断る理由もなくて、何となく付き合った。
一緒に帰って、手を繋いで。
それなりの青春。
でも。
誰といても。
何をしていても。
心のどこかに、ぽっかりと空洞があった。
風が吹き抜けるような、冷たい穴。
きっと、この穴は、誰にも埋められない。
自分でも、埋めようとは思わなかった。
将来の夢。
やりたいこと。
なりたい職業。
先生たちは、決まってそんなことを聞いてきた。
ケントには、まるで分からなかった。
考えたこともなかった。
明日を生きる理由すら曖昧なのに、何年先の未来なんて描けるはずがない。
中学二年生の冬。
進路希望調査。
白い紙を渡される。
将来の進路。
高校名。
志望理由。
色々書く欄がある。
ケントは、迷わず一番上の空欄に書き込んだ。
『就職』
担任の先生は、酷く驚いた顔をした。
「まだ中学生だぞ」と諭された。
でも、本気だった。
高校へ行く意味が、分からなかった。
勉強も好きじゃない。
将来の夢もない。
それなら、早く働いて、自立した方がいい。
リサの負担を少しでも減らしたい。
ただ、それだけだった。
三者面談。
保護者席には、リサが座っていた。
親代わりみたいに必死に働いて、ケントを育ててくれた姉。
少し疲れた横顔。
先生が言う。
「ケントくんは、就職希望でして」
リサは、静かに首を振った。
「高校へ行ってほしいです」
ケントは、少し驚いて姉を見た。
早く自立して、安心させたかったのに。
「就職するにしても」
リサが、まっすぐにケントを見る。
「高校へ行ってた方が、絶対に選択肢が増えるから」
「でも、別に。やりたいことなんてないし」
「お願い」
その一言だった。
リサは泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、本当に心配そうな、切実な顔をしてケントを見つめていた。
ケントは黙った。
自分の将来なんて、どうでもよかった。
でも。
リサの願いなら。
自分のためにすべてを犠牲にしてきた姉の頼みなら。
それくらいは、叶えてもいいかもしれない。
そう、思った。
結果的に。
サッカーの実力が、大人たちの目に留まった。
私立高校。
スポーツ特待生としての推薦。
学費負担も少なく、リサも心から喜んでくれた。
それが、今の高校だった。
高校生活は、悪くなかった。
友達がさらに増えた。
サッカーのレベルも上がり、練習はきついけれど楽しかった。
女子にもモテた。
告白も、何度もされた。
付き合ったこともある。
休日、カラオケに行ったり、映画を見たり。
別れて、また違う誰かと付き合って。
寂しさを紛らわすように、身体だけの関係を持ったこともあった。
肌と肌を重ねれば、一瞬だけ熱を感じられるから。
でも。
朝が来れば、いつも元の冷たい空洞が待っていた。
やっぱり。
何かが、決定的に足りなかった。
将来について考えろと、また言われる。
でも、やっぱりピンとこない。
毎日が、まあまあ楽しい。
そこそこの充実感。
でも、その先がない。
灰色の、平坦な道が、ただ真っ直ぐに続いているだけ。
そんな感覚だった。
高校一年生の秋。
姉のリサが、彼氏を連れてきた。
水澄ショウ。
太陽のように明るくて、穏やかで、優しそうな人だった。
少し話して、悪くない人だと思った。
リサが幸せなら、それでいい。
心からそう思えた。
後日、リサから偶然聞かされた。
ショウの弟が、ケントと同じ高校にいるらしい。
「特進科なんだって」
特別進学科。
偏差値も段違いのエリートの集まり。
頭いいんだな。
感想は、それだけだった。
「水澄レオくん、って言うらしいよ」
知らない名前だった。
その時は。
ただの、名前の羅列。
自分とは交わることのない、別世界の住人。
数日後。
何となく。
本当に、何となく。
見てみようと、思った。
姉の彼氏の弟。
どんなやつなんだろう。
ただの気まぐれ。
興味本位。
昼休み。
普段は絶対に近寄らない、特進科の教室へ向かう。
廊下は静かで、スポーツ科の騒がしさとは空気が違う。
クラスの札を確認する。
教室の、開いたドアの隙間から中を覗いた。
窓際の、一番後ろの席。
一人で、本を読んでいる男子生徒がいた。
柔らかな、亜麻色の髪。
伏せられた、長いまつ毛。
陶器のように、透き通る白い肌。
静かな、整った横顔。
秋の柔らかな日差しが、彼を優しく包み込んでいた。
周りの雑音が、ふっと遠のく。
まるで。
一枚の、美しい絵画みたいだった。
ケントは、その場に立ち止まる。
足が、床に縫い付けられたように動かない。
目が、離せなくなる。
瞬きすら、惜しいと思った。
意味が、分からなかった。
突然、胸の奥がうるさく鳴り始めた。
ドクン、ドクンと。
心臓が、おかしい。
呼吸の仕方を忘れたように、息が苦しい。
モノクロだった視界に、一瞬で強烈な色彩が流れ込んでくる感覚。
ただ。
一つだけ、はっきりと分かった。
この瞬間。
自分の中の、何かが決定的に変わった。
後になって。
ケントは知ることになる。
この、胸を締め付けるような苦しさと、目が離せなくなる圧倒的な引力の正体を。
あれが。
人生で初めての、どうしようもない本気の恋だったことを。
そして。
長い間、ずっと止まっていたケントの人生の時計が。
灰色の空洞に、甘くて温かい一筋の光が差し込んで。
少しずつ。
本当に少しずつ。
再び動き始めた、奇跡のような瞬間だったことを。
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