59 / 60
第59話 櫻井リサ
「リサって、昔はどんな子だったの?」
もし誰かにそう聞かれたら。
たぶん、あたしはこう答える。
——どこにでもいる、ごく普通の子だったよ、って。
別に、誰もが賞賛するほど特別運動ができるわけでもなくて。
先生に褒められるほど特別頭が良いわけでもなくて。
朝起きて、普通に学校へ行って、普通に友達と他愛もないことで笑い合っていた。
「昨日見たあの動画、やばくなかった?」
「あの俳優、最近めっちゃかっこいいよね」
「新しく出たリップ、絶対買わなきゃ」
流行りの音楽とか。
推しのアイドルの話とか。
放課後の寄り道とか。
そんな些細な話で盛り上がって。
「私たち、大人になったら何になるんだろうね」なんて、根拠のない希望を胸に笑い合って。
そんな、本当にごく普通の女の子だった。
家だって、普通だった。
真面目な銀行員の父と、料理が得意な専業主婦の母。そして五つ下の、口答えが多くて生意気な弟、ケント。
たまの連休には家族旅行に行って。
些細なことでたまに喧嘩して。
夕飯の時は、たまにみんなで同じテレビ番組を見て笑って。
当たり前だけど。
その温かくて退屈な当たり前が、この先もずっと続くんだと信じきっていた。
あたしもいつか、好きな人と結婚して。
子どもができて。
父と母みたいな、平凡だけど温かい家庭を作るんだろうな。
そんな自分の未来を、一ミリも疑ったことなんてなかった。
中学三年の冬。
全部が、音を立てて壊れた。
父が仕事を辞めた。
いや、辞めたというより、辞めさせられたのだと思う。
父は悪くなかったはずだ。
でも、大人の理不尽な世界で、責任だけを一方的に押し付けられた。
そこからだった。
家の中の空気が、じわじわと淀んでいったのは。
生真面目だった父は、酒に逃げるようになった。
朝から。
昼から。
夜まで。
シラフでいる時間よりも、アルコールの臭いをさせて酔っている時間の方が長くなった。
そして、酔って機嫌が悪くなると、手がつけられないほど暴れた。
庇おうとした母を殴った。
泣き叫ぶあたしを殴った。
まだ小さかったケントも、容赦なく殴った。
怖かった。
自分の家なのに、息をするのも怖かった。
玄関のドアが開く音。
重たい足音。
テーブルにドンとグラスを置く音。
その生活音の全部に、ビクビクと怯えた。
『今日は何も起きませんように。お願いだから、機嫌よく寝てくれますように』
毎日、ただそれだけを神様に願って生きた。
高校に入ってすぐ、あたしはアルバイトを始めた。
家計を助けるお金のためじゃない。
ただ、家にいたくなかったから。
父の怒声と、母の泣き声が響くあの空間から逃げたかった。それだけだった。
母とケントを地獄に置いて逃げるみたいで、胸が締め付けられるような罪悪感もあった。
でも。
あたしだって苦しかった。
あたしだって、これ以上壊れないように自分を守りたかった。
高校二年生のある日。
両親は死んだ。
あまりにも、突然だった。
バイト中、ケントから電話があった。
『リサ、早く帰ってきて』
様子が明らかにおかしかった。
飛び出すようにバイト先を出た。
家の中は不気味なほど静かだった。
玄関を開けた瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。
そして。
薄暗いリビングの隅で、膝を抱えてガタガタと震えているケントを見つけた。
まだ子どもだった。小さな男の子だった。
なのに。
その目は虚ろで、この世の終わりのような、全部を見てしまった絶望の顔をしていた。
無我夢中で駆け寄り、抱きしめた。
ケントはあたしの腕の中で、何度も何度も謝った。
「オレが、もっと早く帰ってたら」
「友達と寄り道なんか、しなかったら」
「オレのせいだ……オレのせいだ」
違う。
絶対に違うのに。
何度「ケントは悪くない」と言っても、その声は彼の心には届かなかった。
悪いのは誰でもない。
ただ、あたしたちの運命が最悪だっただけだ。
でも。
本当は、あたし自身も心の奥底で思っていたのだ。
一番悪いのはあたしだって。
逃げたのはあたしだ。
ケントと母を見捨てて、自分だけ安全な場所に逃げた。
その結果が、これだ。
ずっと、そう思っていた。
高校は辞めた。
昼はカフェで働いた。
夜は水商売で働いた。
年齢も偽って、派手な化粧をして。
身体も売った。
喉が焼けるほど酒も飲んだ。
生きていくためなら何でもした。
全部、ケントを養うための、そしてあたし自身の罪滅ぼしのつもりだった。
でも、本当は違う。
汚れていく自分を見ることで、ただ自分自身を罰していただけだった。
そんなある日。
ケントが見慣れないスニーカーを履いていた。
ピカピカの新品だった。
一目でわかる、高そうな靴。
今のうちの生活で、買えるはずがないものだった。
問い詰めた。
『買ってもらった』
ケントは淡々と、そう言った。
相手がどんな人間か、言われなくてもすぐに分かった。
あたしは生まれて初めて、ケントの頬を思い切り殴った。
涙がボロボロとこぼれた。
怒鳴った。
「なんでそんなことするの! 目を覚ましてよ!」って。
でも、殴られたケントは、ひどく静かだった。
冷めきった目で、あたしを見据えて言った。
「リサがやってることと、同じだろ」
その言葉で、息が止まり、何も言えなくなった。
同じだった。
自分の身体を削って、心をお金に変えている。
本当に、同じだった。
でも。
あたしはよかった。あたしはもう、どうなったって構わなかった。
だけど、ケントには未来があった。
ケントにだけは、こんな泥沼のような地獄へ堕ちて欲しくなかった。
だから苦しかった。
どうして、この想いだけは伝わらないんだろうって。
泣き崩れるあたしを置いて、ケントは部屋を出ていった。
そんな、どん底の時だった。
ショウに出会ったのは。
最悪な夜だった。
酔った客と揉めて、理不尽に突き飛ばされて。
アスファルトに倒れ込み、ストッキングは破れ、膝も掌も擦り傷だらけになった。
誰も助けてくれない。
この街の人間は、みんな通り過ぎていくだけだと思った。
でも。
ショウは助けてくれた。
近くのコンビニに走って、水、消毒液、何種類もの絆創膏、それから真っ白なタオル。
両手いっぱいに抱えきれないほどの荷物を持って戻ってきた。
あまりにも真剣な顔で。
あまりにも不器用な手つきで、あたしの泥だらけの膝を洗ってくれた。
その滑稽なほどの必死さに、思わずふっと笑ってしまった。
何年ぶりだっただろう。
誰かの前で、心からおかしくて笑ったのは。
そこから少しずつ。
本当に少しずつ。
凍りついていたあたしの人生が、再び動き始めた。
ショウは、あたしの全部を知った。
汚い部分も。
絶対に見せたくない、過去も。
今の最低な生活も。
全部。
引かれると思った。捨てられると思った。
それでいいと思った。あたしには幸せになる資格なんてないから。
でも。
ショウは逃げなかった。
真っ直ぐにあたしを見て、こう言ったんだ。
「過去のリサは分からない」
「でも、今、オレの目の前にいるリサが全部だから。それで十分だから」
その言葉に。
何年もあたしの首を締め付けていた、重たくて冷たい鎖が、音を立ててほどけた気がした。
泣いて、泣いて、彼の胸の中で子どもみたいに泣きじゃくった。
ようやく。
あたしも、明日のことや、その先の未来を見てもいいのかもしれない。
心から、そう思えた。
今。
あたしの隣には、ショウがいる。
リビングのソファでは、ケントも口を開けて無防備に笑っている。
そして、ケントは。
ショウの弟の『レオ』を見る時だけ。
隠しきれないくらい、少しだけ特別な、優しい顔をするのだ。
たぶん。
好きなんだろうな。
長年一緒に生きてきた姉の、直感だった。
よく見れば、レオもケントを見る時、同じように愛おしそうな顔をしているし。
もしかしたら、あたしが知らないだけで、もう付き合ってたりして。
なんてね。
そんなことを考えながら、マグカップに紅茶を注いで一人でクスッと笑う。
開け放した窓の外から、心地良い春の風がフワリと吹き込んできた。
レースのカーテンが優しく揺れる。
昔は、明日生き延びることだけで精一杯で、未来なんて何一つ見えなかった。
でも、今は違う。
この温かい風は、きっともう止まらない。
あたしたちを。
もっと遠くへ。
もっと、たくさんの笑顔がある幸せな場所へ。
きっと、連れて行ってくれる。
今はそんな確かな気がして、あたしはショウの隣にそっと座り直した。
ともだちにシェアしよう!

