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お前の【初めて】に立ち会いたいから
『てわけでぇ、夏祭り行こっ!』
壁掛けの受話器を取るなり耳を突き刺すようなキャピキャピ声が飛び出してきて、殆ど反射的に浩司はその手を伸ばして最大限遠ざけてしまった。
「どんなわけだ」
疲れたように搾り出された声をきっちりと拾い、機械越しの声のテンションは更に上がっている。
一人できゃあきゃあ騒げるのはもはや特技だろうとうんざりして、浩司は受話器を戻そうとした。
『ちょちょちょーっと待ったぁ! 今切ろうとしたでしょ! したよね? 待ってー切らないでーっ』
必死の懇願に、浩司は舌打ちをする。
何故バレたし。
『ゴメンってぇ。もう少し声を落とすからぁ……だから、ねっ?』
出会ってもうじき一年。浩司の性格をだいぶ承知している翔子は、声量をぐんと落としてしおらしく謝った。
はぁ、と吐き出した息すら機械は伝え、それに対して翔子は更に謝り続けている。それなら最初から普通にかけてくればいいのに、と浩司は内心ゴチた。
『去年のお祭りは途中で変なことになっちゃったし、今年こそは六人で楽しめないかなぁって。ダメ?』
昨年は途中で後輩らに乱入されて浩司がすこぶる不機嫌になり、翔子はそんな浩司をなだめようと懸命になっていた。あのときは悪いことをしたと思い出し、浩司右手で首筋を掻き上げる。
「あー……。でもなあ、どうせあいつらはデートだろ」
六人のうち二人はめでたく昨年末に恋人同士になっている。二人きりで楽しみたいのではないかと思う。
『うぅ……かもしれないけどぉ……一日くらい』
尊敬する先輩の恋路を応援したい気持ちもあるが、翔子自身の恋心を優先させて電話してきたらしい。
翔子からは散々アタックされて一時的に付き合ったこともある(正確には、付き合うかもしれないことを前提にしたお試し付き合い)が、恋愛感情を抱くにはいたらず、グループでの付き合いしか許容していない。こういったきっかけがないと、翔子は浩司に会うことができないのだ。
『馬に蹴られてもいいから、浩司くんに会いたいよぉ……』
泣きそうな声が電話口からもれてくるが、浩司はそれに応じることはできない。
ツレとして、友人の一人としてであれば、翔子は浩司が素で接しても平気な稀有な女性だ。夜に遊んでいて変な奴らに絡まれたとしても自力でどうにかできる腕っぷしもある。強引なように見えて、気遣いできる。そんなところが好ましくて、はいさようならと切り捨ててしまうには惜しい間柄だ。
それでも。
『あ、そういえばこないだ新菜さんが〜』
数呼吸の間に気持ちを切り替えたらしき翔子が、別の話題を振ってくる。
浩司は瞬きをしてから目を細め、口元を緩めてそれに相槌を打つ。四半時ほど雑談に付き合い、浩司は受話器を戻した。
「へぇー。じゃあショーコちゃんのおかげで俺はここに連れてきてもらえたんだ」
頭上から降ってくるバリトンに少しくすぐったいような笑みを浮かべ、浩司は帯の形を整えながら頷いた。
「まだ本物って見たことねぇんだろ?」
綺麗に貝の口になったのを確認し、浩司はそのまま立ち上がってから下がる。少し離れて全体のバランスを見ると満足そうに顔が綻んだ。
縦縞の綿楊柳は、すっかり日の落ちたこの時刻に合わせて白地を選んだ。自分も白地に淡い柳柄が入っている浴衣を着用済みだ。
「だって、襟川町近辺じゃあやってないって言うからさぁ」
仕上がった自分の全身を姿見に映し、それからウォルターは向きを変えて「ありがとな」と微笑んだ。
そこらじゅうの女性がうっとりするような美貌は、片田舎の畳の上でも僅かなかげりもない。プラチナブロンドは蛍光灯よりも眩しくきらめき、エメラルドの双眸はまっすぐに浩司を見つめている。
「あー……俺らが小等部の頃はやってたんだけどな」
市が主催の大規模な花火大会は、一級河川の中洲で打ち上げられていたのだが、ある年に外国から研修で来ていた見習い花火師が事故で亡くなり、中止になった。
そういえば母親の実家近くで小規模ながらも花火が上がると家族内で話題になったのを思い出し、浩司からウォルターを誘ったのだ。
「三百発くらいしか打ち上げねぇらしいけど、まぁいいだろ」
「何発って言われてもわからんけど、見られるならなんでもいいよ」
ウォルターは上機嫌で浩司に軽く体をぶつけてきた。少し自分の方が背が低いながらも、それなりに鍛えている浩司の体は傾ぐこともなくそれを受け止める。
「じゃあ、行くか」
促して、縁側に並べてある下駄へと指を通す。「ちょっと歩くけどな」と付け足した浩司に、ウォルターは鼻歌で応じた。
いったいどこから集まったのかというくらい、丘を二つ越えて歩いてきた広場は人で溢れていた。木々の間に吊るされた提灯の下、暗い橙に照らされて仄かにしか表情のわからない浴衣姿の影たちが蠢いている。
広場といっても、櫓の周りで輪になり踊っている連中と、それを囲むようにぐるりと並んだ屋台だけでも球場ひとつ分くらいの規模だ。屋台から吐き出される煙に燻されて軽く咳き込みつつも、ふたりは人込みを抜けて石舞台に上がる幅広の段に腰を下ろした。
地元だけではなく全国津々浦々の曲が次々と流れ、踊り連に加わる者抜ける者とひっきりなしに櫓周りの影は入れ替わる。
感心したようにそれを見つめるウォルターを見て、浩司はホッと息をついた。
昨夏、「海を見たい」と言ったウォルターは、体全体で浜の空気を満喫し、足裏の砂の感触、岩場でぬるつくことにすら目を輝かせ、台風に驚いた。冬に雪が降れば薄着で飛び出し「空に吸い込まれそう」と言いながら、ずっと夜空を見上げていた。
ウォルターの【初めて】に何度も遭遇し、そうするたびに自分の中で少しずつ変わっていく何かがある。
その瞬間に立ち会うのが自分であればいい。
その感動を分かち合うのが自分であればいい。
翔子との電話中にこの夏祭りのことを思い出し、そのあとすぐにウォルターに声を掛けた。きっかけになった翔子が知れば、憤慨しながら涙目になるだろう。
最後に地元の盆踊りが流れ、眺めるだけのふたりをよそに、輪に加わらずにそこここで人々が踊り始める。一番が終わったと思えば、腰を上げながらウォルターが浩司の腕を引き、「こうかな?」とその場で踊り始めた。
石舞台の篝火からの仄かな灯りに、揺れるプラチナブロンド。目を細め、唇の端は上がっている。伏せ気味の睫毛が、火の粉を弾くかのように強く瞬く。
「そんな感じ」
中学生の頃なら「だせぇ」と言って踊れなかった。でも、今を楽しめない方がだせぇと、いまだからこそ言える。
向かい合ったふたりは、足を踏み外さないように気を配りつつも、時折互いに視線を交わしながら踊り終えた。
数分間の静寂ののち、石舞台からカッ、カッとゆっくりとしたリズムが、熱をはらんだままの空気を伝わり周囲に流れ落ちて行く。
ふたりは体の向きを変え、至近距離からその音を受け止めた。
ほんの数十センチの高低差、距離にして二メートルもない舞台には、黒い法被に地下足袋を身に着けたグループがバチを手に低い姿勢を取っている。
リズムは徐々にスピードを上げ、軽やかな和太鼓の音が混じり、ついにどおんとひときわ大きく打ち鳴らされた。
大地が、大気が震える。音に押されて仰け反りそうになりながら、浩司は隣をうかがった。
予想していたよりも、ウォルターの反応は小さかった。切れ長の目を見開き、喘ぐように口が開いているけれど、微動だにしない。
舞台に釘付けになっているのを確認すると、浩司も演目に没頭することにした。
濃密な三十分が過ぎ、楽器を残してメンバーが袖に消えていく。それを見守りながら、誰もがようやく呼吸を思い出したかのように、長く吐息した。
浩司が口を開こうとしたとき、濃紺の空へと木々の隙間から昇っていく筋が目に入った。
軽やかに赤白黄の花が咲き、殆ど同時にパン、パンと音が降ってくる。
突然始まったスターマインの打ち上げに、周囲は沸き上がった。手に手に携帯端末をかざし、林の向こう、グラウンドから上がる花火に歓声が上がる。
ふたりはただ、黙って空を見上げていた。
雪空のときのように、暖めるための上着も体温も必要ない。だから傍にいるだけでいい。
どおんと轟く音に、ウォルターの肩が微かに揺れた。パラパラと音を立てて、火の粉がばらまかれていく。それほどの距離で観ることができるのは、田舎ならではか。
流星のように尾を引いて木立に降っていくように見える白い光を見ながら『結構金かかってんじゃん』と浩司は感心していたのだが、ウォルターは瞬きすら惜しむかのようにじっと空を見つめていた。
名残りを惜しみつつも、家路につく。往路よりもゆっくりした歩みで。
このあとは着替えてからすぐに自宅に戻る予定だ。汗ばんだ浴衣を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる瞬間が待ち遠しいのに、いまこの瞬間がいつまでも続けばいいのにとも思う。
用水路の水面は、月光を映し込みつつゆったりと流れている。その脇を歩きながら浩司が余韻に浸っていると、少し掠れた声で、ウォルターに呼ばれた。
「――浩司」
「んん?」
半歩遅れて斜め後ろについてくるウォルターを振り返ると、少し泣きそうな表情に息を呑む。
「鼻緒でも擦れたか?」
半分冗談のつもりで尋ねると、金糸が揺れて、受け止めた肩に浩司が熱を感じると同時に足が止まる。
「なんか、凄かった」
「ん。俺も久しぶりだったけど、綺麗だったな」
「花火も良かったけど……あの太鼓」
ぐりぐりと額を押し付けたかと思うと、そのまま顔を上げたウォルターは、浩司の耳へとそっと声をそそぐ。
「心が震えるって、こういうことかと思った」
秘密のように。
は、と吐き出された浩司の息が震えた。
「泣いてもいいんだぜ?」
「泣くかよ」
でも、とウォルターが続ける。
「誘ってくれて嬉しかった。それだけですっげー嬉しかったのに」
「良かったよ、お前が喜んでくれて」
「ありがと」
「俺はなんもしてねぇだろ」
うそぶく浩司の頬は熱くなっている。
「いいの、誘ってくれて、誰よりも優先してくれたのが一番嬉しいんだから」
誰よりも、という部分を肯定も否定もできず、浩司はパシンと手の甲でウォルターの頭をはたいた。
「だって、もしかしたらこれが最初で最後かもしれないだろ」
歩みを再開する浩司に合わせて、今度は隣に並ぶ。
三回目の夏、でもふたりにとっては二回目の夏。卒業後、こちらにいるかどうかまだ分からないウォルターへの餞というほどではないんだけれど。
「一度きりの体験になるかもなこと、なるべく俺が一緒にできたらいいなとか、思ったからさ」
浩司の歩幅が大きくなるのを見て、ウォルターは破顔しながらそれに合わせた。
了
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