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いつのまにかほととぎすが庭木に棲みついていた。
ほの暗い家で、鉄門扉は錆びつき、庭は鬱蒼と青草の匂いに沈んでいる。
母と母の姉が息子たちの生まれる少し前に購入した古風な家で、百日紅 や芙蓉の夏花に庭は荒れ、果実が甘い香りをはなつようになると、窓から手を出し、実ったばかりの桃に齧り付いた。
病みそうな暑さの中、母の昔の恋人が細い上り坂を三十分かけて通ってくるのは、毎年この時期だった。
たっぷりと朝露の満ちた枝をかきわけ、蜜蜂の唸るやぶのような庭に入っていく。繊細な指使いでブルーベリーをつみとる彼は、浴室で汗を流した後、午後の長い日がさすキッチンに立ち、食べきれないほどのブルーベリータルトを作っては帰っていった。
“きょうは、母さん、いないよ”
使い回しのメモ帳を慌てて引っ張り出す。日に焼けて真っ赤にほてった薫 さんに差し出す。母の学生時代の先輩だという。交際はたったの一年ほど。それなのに薫さんとの交流は息子が生まれてもなお続いている。母と結婚した父親が、薫さんの友人だからだろうか。
四十はとっくにすぎているはずが、赤く開いた花のしたの体格は品がよく、夏の濃 やかな木陰を宿すオックスフォード生地の白いシャツがよく似合っていた。ゆるく癖のついた前髪をもの煩わしげに掻きあげて、穏やかで落ち着いた気配は、女親しかいないこの家ではあやしげにうつる。昴 は彼がこの家に上がると少し落ち着かなかった。
「君の顔が、見られるだけで十分、」
目尻の皺を深めて薫さんはいう。昴の繊細な輪郭を辿る寂しげな眼差しは母ではなく、父親の面影をなぞっていた。
母が無邪気に零したことがあった。
限界まで湿気を帯びた空が突然割れて、薫さんが土砂降りに足止めされたときだった。母との親密な会話にたえきれず、まだ宿題があるからと、早々にライムグリーンの軽やかな子ども部屋に駆け込んだ。
一階の様子に聞き耳を立てていると、暖炉のあるリビングから聞こえる薫さんの優しげな笑い声が、そのうち少しずつくぐもっていき、二つほどの微妙な会話のやり取りの後、言葉を濁し、追求を避けるように帰っていった。父と、薫さん。わざわざ毎年ブルーベリータルトを作りに汗だくになってまでやってくる。薫さんにも家族はいるし、それになにより、薫さんが一番語りたい相手、それは父親なのだ。その人はもう、この家にはいない。
激しい雷雨に降られた真っ黒な洋傘が雨煙の中に消えていく。
父との関係の曖昧さが、かえって薫さんを当惑的な雰囲気にさせるようだった。
眩しかった庭の果樹も夏が終わる頃になるとうんざりとした秋色にあせていく。もう、来ないのではないだろうか。不安な冬を過ごし、次の夏の盛りに、窓から薫さんの姿がふと見えると、昴はブルーベリーも夏も、嫌いにならずにすんだのだとほっとした。
タルトはベリーソースたっぷりの甘酸っぱいもの。星野家のキッチンで丁寧に仕上げられた宝石箱のようなそれを、昴はいつもこっそり取り出して食べていた。
父の好物だと薫さんに教わっていたから、人の目がどうしても気になった。とくに母は無頓着で、昴が美味しそうに頬張っていることを、本人を目の前にして薫さんに伝えてしまうのが、どうしても恥ずかしかった。
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切嵌 め硝子 の彩色あたたかな光りが家の中にやわらかな影を落とし、その赤や青、オレンジといった美しい光りをあびて、昴はウィンドウシートに億劫に横たわっていた。
庭は露草の吐息に蒸れてすでに真昼の猛暑をしのばせている。
明け方から苦心していたゲームはとっくに飽きていたし、高校の課題に手をつけるのも気が進まない。臘のような両腕を頭上に投げ出し、食べかけの桃のジュレはすでにぬるい。ひと月もなおらない喉の痛みを紛らわすように、ハーフパンツからのびる素足を退屈に揺らして、レースカーテンを悪戯につま先でいじっていた。
「あ、……昴、」
偶然、部屋の中に入ってきた三つ上の従兄弟が困った声で立ち尽くす。ウィンドウシートを独り占めする昴をみると、笑みの似合う優しい眉が途端につまらなそうに歪んだ。
和洋折衷の香りたかい石造りの、あたたかな家。昴とその母親、そして伯母のゆうこと、その息子の北斗 、四人暮らし。
母親が二人もいるために、日に何度と同じ事を注意され、二人の息子を放って熱心に語り合うものだから、昴と北斗は自然とそのやかましさを遠ざけて、ウィンドウシートのある静かな部屋で空想に耽り、従兄弟とはいえ兄弟のようにくっついて育った。
壁をくり抜いた本棚には幼い頃から少しずつ集めた外箱付きの装本を、昴も北斗も好き放題に押し込み、部屋は日だまりと古びた紙のにおいにたっぷりと満ちていた。この小さな一室でくつろぐのが休日の決まり事で、石榴 の木のあいだから柔らかな外光がウィンドウシートにこぼれる中、そのさんざめく光りをあびながら、ゆうこに切ってもらった果汁たっぷりの桃にかぶりつく。
大学に上がった北斗の楽しみはそうした気取った一人の時間を堪能することで、それを、何年も一緒に過ごしてきて昴が知らないはずがない。
しなやかな身体をたっぷりと投げ出した昴は足を組み替え、一頁もすすまない書籍から目を上げた。大学の課題を抱えて戸惑う北斗に軽く顎を動かす。
“使用中”
そんな風に目で訴える。まだ声が出せないほど喉が痛いことに、北斗は呆れた顔をした。
「なんで、さっさと病院に行かない?」
昴が高校で使うノートとは違う、分厚い糸綴りの立派な一頁を無造作に引きちぎり、昴にペンを押しつける。
“そのうち、なおる……”
適当に書く。本当は病院に行くつもりはなかった。自分の回復力を信じていたし、何より医者に素肌をさらすのが嫌だった。母に聞かれたときは「明日行く」といい、ゆうこにつっつかれたときは「ちゃんと行くよ」とかわしていた。北斗から病院に行っていないことが母親たちに知られると余計に面倒だ。
北斗がその汚い字と少し居心地悪い昴を見て、おかしそうに笑う。
「全裸でどんないやらしいことを? おれじゃないぜ、あさこさんが言ってたんだ」
あさこは昴の母の名前だ。時々北斗につられ、昴も自分の母親を名前で呼んでしまう。家族で遠出したときは、「母さん」と呼びかけるとふたりが振り向くので、最近はほとんど「あさこさん、」と他人行儀に呼ぶようになっていた。あさこも母と呼ばれるよりは機嫌がいい。
「早く行けよ。おれまで小言がとんでくる」
追い打ちをかける北斗が昴の足の間に少し熱っぽい身体をおさめる。ウィンドウシートから蹴りだそうとする長い足を素早く捉えて傲慢に座った。昴は足を取られたまま素早くペンを走らせた。
“母さんたちには、いわないで”
身体の上から覗き込んでいた北斗がその紙をむしり取り、小さく声に出して笑い飛ばした。
「内緒にしてやるよ、ここ、どいてくれるなら、」
北斗は最近、二人だけの部屋を自室にしようと企んでいるらしい。昴はむっと唇を尖らせて北斗の肩を軽く蹴り飛ばした。
穏やかで優しいと同級生に言わせる北斗は、朝顔の絡む家の中では意地が悪い。
“北斗くんの性悪”
昴がペンを走らせて目一杯イッと目を剥いたとき、階段下からゆうこの鋭い声が飛んだ。
「――すばるぅ! ちょっとこっち、おりてきなさい!」
途端、水を得た魚のように、北斗が「早く行けよ」と優雅にウィンドウシートを占領する。昴は慌てて駆け出ていって、一階のゆうこの様子に耳を傾けた。
「すばる! 聞こえてるんでしょッ!」
ゆうこが買い物から戻ってきたことに、少しも気づかなかった。さてはあさこから連絡がいったに違いない。幸いなことに今日は祝日だから、病院はどこも開いていないはず。
冷蔵庫を開け閉めするキッチンへ、昴は手すりに絡まるようにおりていく。
ゆうこは慌ただしく食品を詰め込んでいて怒っている様子はない。昴を背にしたまま話しはじめた。
「私たちが小さい頃、かかってた病院で、おじいちゃま先生がやってるとこ。北斗も知ってるから、明日二人で行ってきなさい。北斗に言っておくから」
紺色の細身のプリーツに襟の大きい白いサマーニットを着こなしたモダンなゆうこは、豊かな髪を短く詰め、ツバの上がった帽子に造花を飾り、この家の主に相応しい装いだった。
あさこも総じてかっちりした硬い線のツーピースドレスを好んで身につけている。時代遅れ、昴はたびたび苦言を呈したが、彼女らの派手好きな化粧や物言わせない雰囲気に、昴どころか周囲の人間さえのまれていた。
昴は“やだよ”と頭をふって、ゆうこの小言がはじまるまえにさっと身を翻した。
「すばる、こら、話しはまだ終わってないのよ!」
ゆうこが逃げる昴を捕まえようと追いかける。観葉植物をぐるりとまわりこみ、サンルームから裸足のまま庭に飛びおりた。白く輝く細い足が、豊かな芝生の上を弾むように駆けていく。ブルーベリの木が眺められる位置にハンモックをかけていた。そこに、昴は急いでとび乗った。
困ったように立ち尽くすゆうこに、にっこりと笑って手を振る。
ゆうこは植物が好きではないし、蒸し暑い外も虫も、洋服やヒールが葉っぱと泥で汚れるのも嫌いだった。だからここまでは追いかけて来ない。
日に焼けていないまっ白な股をゆるいハーフパンツから露わにさせて、汗の滲む細い腰を剥き出しにし、昴はハンモックの上で仰向けになった。
市販薬を飲んでいるのに喉の痛みはひと月もひかない。鳳蝶 のように、昴も美しく変身を遂げるのだろうか。それに必要なのは、花の蜜。竹籠いっぱいに溢れる甘い果物だ。
夏の陽ざしが吹きこぼれる庭先で昴は目を閉じた。バッタが草を織る羽音と、木立の揺れる影が心地の良い夏の一日だった。
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