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 現役を退いた長命な老院長が気まぐれにやっているような古い診療所である。  バスで三つ目の停留所をすぎ、黒い板塀の家屋が並ぶ石畳の道を複雑に折れていく。無言の北斗の後について、昴は朝の冷たい光の中を歩いていた。  六連(むつら)診療所。  気の引けるような立派な門構えが目印だった。  開け放ちの入り口から中に入ると、寒いほどの冷風が足元を抜けていく。手入れの行き届いた庭には青翠の影が落ち、蝉が憂鬱に呻いていた。  昴の他に患者はいない。問診票を返してからすでに四時間がたつ。それなのに一向に名前を呼ばれる気配はなかった。  北斗は午後の講義に遅れると言ってさっさと帰ってしまったし、当然お腹も空いてくる。喉も乾いた。古い病院だから水道の水は錆びくさく、近くに自販機はないだろうかと、うろうろと歩き回って病院を少し抜け出す。  念のためカウンターにメモを置いてきた。荷物をまとめて通りへ出かかったときだ。「おとしましたよ、」と不意に若い声にひきとめられて、昴は「あ、」と慌てて引き返し、会釈してそれを受け取ってから、手に押し込められたそれを確認していなかったことに気づいた。  鮮烈な夏模様を描いていた空が突然、(たらい)をひっくり返したような大雨になったせいでもあった。糸引くような大粒の雨に遠くの家屋はかすみ、板塀の前にびっしりとはえたリュウノヒゲが、激しい雨垂れに打たれて揺れていた。  柳の下に雨宿りしようと駆け出した昴は、その腕があたたかな男の手につかまれてがくりと跳ね戻る。 「こっち――」  冷たい雨に濡れたシャツごしに、男の腕が前を触れていた。  気づいたとき、昴は夏薔薇の茂る湿った庭に引きずりこまれていた。 「どこの根を試した?」  耳元の低い声に昴ははっと気づいたように起き上がる。そのからだを男は後ろから深く抱き込んだ。雨の匂いと、ツンとした草の匂いが鼻腔につく。昴は振り払えずに再び仰向けに倒れた。 「とくに皮を剥いた麻茎でないと、喉の痛みは消えない」  咽せるほどの草のいきれが指先に絡まっている。ベルトにおりていく男の手に、黙れよ、と睨み付ける。 「おてんばだな。処方箋を渡されただろ、」  そんなものはない。頭を振る昴の顎を、男が捉えた。 「口の中、」  拒否する間もなく、男の太い指が唇を割った。  そもそも、病院では診察もしていないのだから、処方箋などもらっているはずがない。けれどその小さな口の中に、ため息交じりの男の舌がねじこまれると、喉の奥に引っかかっていた何かが舐め取られた。唾液に濡れた男の唇がそれをくわえている。 「もらってないって? 素直に差し出せば、奪わないのに。わざわざ嘘までついて誘うのが、好きなんだ?」  桜色の小さな宝貝(たからがい)だ。  昴は顔を真っ赤にさせて、男の身体を遠ざけようとした。  襲われたいのが好きなわけがない。その宝貝が処方箋だと言い張るなら、薬だけはやくよこせ。  そう言おうとしたが、喉はいがらっぽく痛み、張り上げようとしても苦しげな吐息がこぼれるばかりだった。睨む昴に、目鼻立ちのすっきりとした男の顔が、ふと、思いがけずやわらかな笑みを浮かべた。 「聞いていたとおり、せっかちなんだね、昴くんは、」  背筋に走る甘い声に、昴の身体は優しく抱き込まれていた。桃の香りを漂わせる項に男の鼻筋が沿っている。濡れたシャツ越しに、ほんのりと高い体温が重なっていた。手足は茨にとられ、僅かな身じろぎでさえ、きめ細かな肌に傷をつける。その真紅にしたたる血に、喉を鳴らして舐め取るその男の名前を、昴は夜雨の滴りの間に知った。    ―――――――――――――――― 「どうして、ぼくの名前を知っているの」  そんな素朴な疑問は、花鳥のつるむ生絹(すずし)の几帳におちた薫の影に答えを得る。 「(はじめ)、昴くんの具合はどうかな」  青葉を渡る爽やかな風が縁側から吹き込んでいた。欄間に手をかけて昴を見おろす男は統というらしい。晒した優美な上半身は薫風と沈香を纏い、菖蒲のような艶やかさと猛々しさをのぞかせる。そのからだはシャワーを浴びてきたばかりらしく、身体を拭いきらず、隆起した肌に水滴を滑らせていた。  几帳の裏でたずねる薫に、ちらりと昴の顔を見て、「さあ。どっちにしろ、掠れてますけど、」と素っ気なく統が答える。  余計な事は言うなよと統を睨みあげた。 蝉の羽を織ったような簾の影が、真新しいい草の香りがのぼる畳に繊細な綾をかけて揺れていた。  昴はその影を捉えようとするように白い手を伸ばす。必死に掴んでいたから、几帳の裾が皺だらけになっていた。その皺の複雑なよれのようだとも思うと、簾も几帳も、ことごく肌に刻まれた熱を思い出させるようで見ていられない。  なめらかな腰の線を描くからだや、薄い肌に咲きついた花模様が、袖を通した紋紗から透けていた。 「統、家まで送り届けてあげるんだよ」 「わかってますよ」  広い庭に繁る松や楓の木の向こうに、浅葱色の診療所の壁が見えていた。渡り廊下で繋がった家屋の方へ、薫は庭を横切っていく。  その影を目で追っていると、枕元に菓子鉢がとん、と置かれた。薄を配した質素な器に、硝子玉のような錦玉羹(きんぎょくかん)がのっている。すずしげな見た目をした菓子を一つつまんだ統が、乱れた昴の毛先をそっと指先に滑らせた。 「ぼくのこと、知ってた?」  あ、と口を開ける昴の舌の上に、錦玉羹が手ずから与えられる。統は膝に頬杖をついてよりかかりながら、食べ終わったばかりの昴の舌に、指先の砂糖を塗り込むように押しつけた。引っ込めようとする舌をおさえ、そのまま舌を重ね合わせてなめとる。 「ブルーベリータルトを、美味しそうに食べるって? 親父からよく聞いた。手垢は拭えば気にならない。血筋なんだ。あんたのことが好きなのは」  砂糖水のように甘い唾液が統の唇をぬらし、昴の舌先へと、まだ名残惜しむように続いている。統はその、もう一つ欲しいと強請るような昴の切ない眼差しに口づけを落とした。 「お兄さん……」  遠慮がちな線の細い声に、統が唇を離す。  聞き覚えのある声だった。手に、落とし物だと言って宝貝を捻じ込んだのは、彼だ。まだ中学生にあがったばかりのような淡い桜色の頬をして、気恥ずかしそうに唇を結んでいた。詰め襟姿の学生で、金を散らした朱塗りの美しい屠蘇(とそ)揃いを慣れたように用意する。銚子を注ぐ手つきの危うさに、統が手をとって代わった。  少年がそのとき少しだけ昴のことを見た。昴は驚いて、言葉を発せずに微笑んだ。一度会っているはずだが、彼は親しさもなく瞼を伏せただけで部屋を出て行ってしまった。  酒に濡らした親指を、統が昴の唇につたっていく。 「血筋って……?」  昴はふと彼の言葉を思い出していた。 「あんたの作る気配や、仕草、表情が。……俺の親父が昴くんの父親を愛したから、その遺伝子が刻まれているんだよ」 「それって、統さんがぼくの事を好きとは限らないよ」 「男同士だから?」  息を零すように統が笑う。 「きっかけはなんだっていい。どうして自分の感情を疑う? ずっと話がしたかった。親父に止められていたから、なおさら」  統の手が指先に絡んでいた。暖かくなっていく指先から熱がつたわって、身体中があの悶えるような熱を思い出すと同時に、脈を打つ胸が苦しくて声が出せない。統の香りに頭がくらむ。まっすぐなその眼差しと、やわらかく触れる手の感触に、少し分かったような気がした。自分の父親がどんな感情を薫に抱いたのか。それが、昴の身体をとおしてゆっくりとしみこんでいくようだった。 「……ブルーベリータルトより、いいものを、教えて」  ようやく絞り出した声は掠れていた。統が優しく昴の首筋を撫でている。 「わかった。明日の夕方、駅前の喫茶店においで」    ――――――――――――――――  真夏の騒々しさの後に束の間の静寂が蘇った。 篠を突く雨に蝉が声を忘れる一瞬の静けさだった。じっとりとくすぶる湿気に雨の名残を惜しみ、昴は物憂い顔で喫茶店にいた。  (はじめ)のしらんぷりをした横顔を見つめている。  気が塞がれる様な暗澹とした池が、日没に染まる裏庭に広がっている。古い家屋を改築した喫茶店で、朱を帯びた鯉の尾ひれが水面を弾くと、斜陽のさす橙色の店内に水陰が涼しげに揺れた。 「どうして麻が、喉に良いの?」  純粋に気になっただけだった。統は学生服姿の昴をじっと見ると、困ったように目を逸らす。 「ここで話す、内容かよ、」  昴の額を強めに弾いて顔をしかめるので、途端にいけないことを口走ったように思われた。 「別に、変な意味で聞いているわけじゃ……」  慌てて誤解だと伝えるが、テーブルの上で腕を組む統が試すように昴を覗き込んだ。 「俺が与えた麻のことを、聞いているんだろ?」 「そういう話しじゃなくて、」 「同じ事だろ」  昴はそのまま黙り込んでしまったのだ。  燻っていた夕日はすっかり沈み、駅前は賑やかに人が通り過ぎていく。喫茶店はテラス席まで満席になっていた。  統とご飯を食べに行くと伝えると、「うまくいったのね、」とやはり無邪気にあさこはいった。「どういう意味?」と昴は不機嫌な顔を隠しもせずに聞き返す。あさこは、「あら、他にも意味があるの? 母さんにも教えて、」と悪気なく言うので、薫が彼女の追求を嫌った理由が分かったようだった。  二杯目のジンジャーエールを飲みながらそんな事を思い出していると、統がひどく困ったように口元を覆った。 「……親父みたいにしゃれたものは作れないし、夏だけ会うんじゃ物足りない。ここの杏仁豆腐はブルーベリータルトには劣るけど、いつでもあんたを誘える」  瞼を伏せて、年上の彼が少し心細げにいうので、昴は思わずストローから口を離していた。 「時々こうして、昴くんと過ごしたい」  星影のおちる石畳の歩道に、街灯の柔らかい光がこぼれている。遠くから聞こえてくるウクレレと賑やかな男性たちの歌声が、すぐ軒先のテラス席を前に足をとめた。  しっとりとした月夜は優しい歌声に包まれていく。美しい人を称える歌だった。楽団を連れてきたのは、どうやらその人の恋人のようだ。  落ち着いた店内の照明は深い影を落とし、耳を傾ける統が小さく口遊んでいる。昴は静かに腰をあげ、口遊むその統の口もとへ、指先を近づけた。  杏仁豆腐を食べて過ごす、テーブル一つ分の距離。触れる理由が、ほしいのだと昴は気づいていた。 「……傘を、持ってる?」 「傘?」  夕立がすぎたばかりだった。月を隠す灰色の雲が頭上に広がり、ぽつぽつとアスファルトに雨粒がおちている。  目を上げた統に、戸惑った顔で引っ込めかける昴の手を、統がすかさずにぎり込んだ。 「何をしようとしてた?」  もどかしい顔をした昴が唇に触れたそうにしているのを、統はしっていた。昴はそれを見抜かれたと思い、首筋から顔を赤らめながら口早に言う。 「盃のかわりに、ジンジャーエールで……」 「心を、通わせてくれるの?」 「言わないで、」  息を飲み込む昴の頬を、統は味わうように撫でる。 「親父はあまり、離れに来ないよ。六連診療所の場所はわかるね。会いたくなったら、おいで」  暮れていく夏の空に、真っ黒な傘が一輪開く。真珠のような雨粒が降りかかる草木はようやく衰えはじめ、秋草や萩の花が、猛暑の縁を彩りはじめていた。  石榴の実がはじけるとき、父親が母でなく、薫を選んでしまった苦悩を昴は思い知った。  〈了〉

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