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プロローグ
神殿の塔は高く、静かだった。あまりにも静かで、そこにひとりの人間が幽閉されているとは思えないほどだった。
夜のヴェールに包まれたヴァレシア王国の中心部。白い大理石で築かれた神殿の最奥にそびえるこの塔は、空を突き刺す一本の針のように見えた。塔の周囲には常夜灯のように淡く輝く聖なる結界が張られ、近づく者すべてに畏怖と敬意を強いる。風さえもその結界に触れると音を失い、永遠の静寂だけが支配する場所だった。
空に近い最上階。その石造りの部屋は、豪奢とは程遠い簡素さで満たされていた。分厚い壁は冷たい灰色の石で組まれ、唯一の窓は鉄格子と強力な封印魔法で固く閉ざされている。
部屋の中央に置かれた簡素な寝台の上に、アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアはいた。
ヴァレシア王国の第三王子。黒色の髪に、透き通るような白い肌を持つ少年は、まだ幼い面影を色濃く残していた。彼は国に流れ込む「穢れ」――人々の欲望、怨嗟、罪、苦しみの全てを一身に引き受ける生贄として生まれた存在だった。
王家に伝わる古の儀式により、第三子は常に「楔」となる。国全体の災厄を吸い取り、浄化する生きた楔。表向きは「神に選ばれし聖なる守護者」と讃えられるが、実態は生きた牢獄だった。アシュレイの血と魂が苦しむほどに、国は豊作に恵まれ、疫病は遠ざかり、敵国は退けられるという。
今夜もまた、穢れの波が少年の胸を苛んでいた。痛みはもはや日常。むしろ痛みを感じない瞬間の方が、彼を不安にさせた。
「ああ……また、今日もたくさん来る……」
小さな声が部屋に溶けた。誰にも聞こえない独り言だった。
一方、塔の麓に立つ銀の影があった。
レオンハルト・ヴァイス・グランディア。銀の鎧に身を包んだ若き聖騎士は、塔を見上げながら静かに息を吐いた。金髪を短く整え、鋭い蒼い瞳を持つ彼は、王子と同じ日に生まれた運命の騎士だった。
ヴァレシアの古い慣習では贄の王子が生まれた日、同じ刻に生を受けた男子の中から「聖騎士」を選ぶ。運命を共にし、王子が穢れに飲み込まれるその日まで傍らに立つ者――それが聖騎士の役割だった。
アシュレイが生まれた日、王城の周辺では複数の男子が同じ時刻に生を受けた。彼らは皆「聖騎士候補」として神殿に引き取られ、幼い頃から厳しい訓練を受けながら王子に仕えることを義務付けられた。
最初は十名近くいた候補たち。しかし年を経るごとに才能と適性、そして何より「王子との絆の深さ」によって人数は絞られていった。他の候補たちは剣術や魔法、礼儀作法に秀でていたが、王子の心の内を読み取ること、王子が言葉にしない痛みや孤独に気づき、そっと寄り添う気遣いができる者は、極めて少なかった。
聖騎士候補者の中でも、レオンハルトだけが違った。幼い頃から、彼はアシュレイの微かな表情の変化、息遣いの乱れ、瞳の奥に宿る色合いを敏感に感じ取った。言葉を交わさなくても王子の体調が悪いとき、ただそっと手を握るだけで少年の肩の力を抜くことができた。
他の候補たちが「王子殿下は大丈夫です」と形式的に報告する中、レオンハルトだけは「今、殿下はとても寂しがっています」と心の内を正確に伝えた。
ある冬の日、他の候補たちが寒さに震えるアシュレイに毛布を差し出したとき、レオンハルトは違った行動を取った。彼は毛布を肩にかけるだけでなく、少年の小さな手を自分の胸に当て、心臓の音を聞かせた。
「僕の鼓動が聞こえますか? 殿下の痛みを、半分だけでも分けたいんです」と。
その出来事が決め手となった。
十二歳のとき、レオンハルトは正式に「聖騎士」として任命された。王子と運命を共にするただ一人の騎士として。他の候補たちは聖騎士団の一般騎士や、神殿の守護者として配置転換されたが、彼らの中にはレオンハルトへの羨望と、わずかな嫉妬を隠せない者もいた。
レオンハルトは今、塔の麓に立ちながらその頃の記憶を思い返していた。
「聖騎士は、守るために立つ」
それは神殿の教えではない。彼個人の、ただひとつの誓いだった。
「命を捨てることが使命ではない。殿下の隣に立ち続けること――それが、私の矜持です」
風が彼の言葉をかき消そうとした瞬間、不意に止んだ。
塔の最上階で、アシュレイがわずかに身じろぎした気配を、レオンハルトははっきりと感じ取っていた。肉眼では到底見えないはずの動き。だが王子に流れ込む穢れの波動を通じて、彼の心の眼には鮮明に映る。
それは悲しみでも、怒りでも、単なる諦めでもなかった。ただ静かに運命を受け入れながら、なお遠くに何かを――誰かを――求め続けている、そんな色合いだった。
レオンハルトは剣の柄に指をかけ、静かに息を吐いた。
王子は空に近い塔に囚われ、騎士は地に近い場所に立つ。それが今、この王国の秩序だった。それでいい。それが正しい。少なくとも今は、まだ。
だが彼は知っていた。
この均衡が、いつか必ず崩れることを。そして自分が、その崩壊を心の底から望んでいることさえも。
幼い頃の記憶が、次々と蘇る。
初めてアシュレイと出会った日のこと。まだ五歳だった王子は、神殿の庭で一人ぼっちで座っていた。周囲の大人たちは「穢れを近づけてはいけない」と距離を置き、他の候補の少年たちも形式的に挨拶するだけで、すぐに離れていった。
そんな中、レオンハルトだけが少年の隣に腰を下ろし、拾った小石で地面に星の絵を描き始めた。
「殿下、これが僕の好きな星座です。一緒に見ませんか?」
その日から、二人の間には言葉を超えた絆が生まれた。
レオンハルトはアシュレイが穢れに苛まれる夜、禁じられているはずの塔の近くまで忍び寄り、歌を歌った。幼い頃に母親から教わった、優しい子守唄を。声が届かないとわかっていても、彼は歌い続けた。王子の心が少しでも軽くなるようにと。
そんな日々が、いつしか彼の生きる意味になっていた。
遠く、王城の灯りが夜空に揺れている。王弟や王妹、王妃、そして国王――彼らは皆、アシュレイの犠牲の上に安寧を築いている。
表向きは「愛する第三子を神に捧げた悲劇の王族」を演じながら。
レオンハルトの唇に、静かな決意が宿った。運命は、すでに静かに動き始めていた。
銀の鎧の下で彼の心臓が力強く、しかし誰にも聞こえないように高鳴っていた。
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