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第1章 静かな穢れ

 塔の最上階からは、神殿の広大な庭園が一望できた。  白い大理石の回廊、整然と植えられた聖樹の並木、そして遠くに広がる青い空。風は穏やかで、祈りを捧げる人々の白い衣が花のように揺れている。その光景はとても美しかった。  それなのにアシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアは、決してその中に自分を重ねることができなかった。彼の身体に纏う穢れは、どんな祝福の光も寄せ付けない。 国に流れ込むあらゆる負の感情や罪の残滓、怨嗟の残滓を一身に受け止める器――それが彼の役割だった。  見下ろす景色の中に、ひとつの銀色が輝いているのが目に留まる。レオンハルト・ヴァイス・グランディア。神殿直属の聖騎士であり、アシュレイが唯一、親しみを込めて名前を呼ぶことを許された存在。銀の鎧に刻まれた神聖な紋章が、陽光を受けて静かに光る。  彼はいつも、あの場所に立っている。王子を見守るために。地上は遠い。声など届くはずもない。それでもアシュレイの胸の奥で、静かに穢れが揺れた。  それは恐ろしい感情ではない。怒りでも、悲しみでもない。ただ、静かな波のように、何かを求めるような……。 (レオン……)  アシュレイは細い指で窓枠に触れ、目を細めた。  第三王子という立場は、実に絶妙だった。王位継承順位は高くないが、無視もされない。穢れの器を背負わせるには、ちょうど良い位置と言える。幼い頃から過不足なく育てられ、丁寧に教育されたが、自由は与えられなかった。 「あなたは、この国の希望ですから」  そう繰り返し、周りの人間に言われてきた。希望という言葉の裏に、犠牲という真実が隠されていることも、いつしか理解した。  目を閉じると、12歳の誕生日の記憶が鮮やかに蘇る。 あの日は、祝福の庭に白薔薇が咲き乱れていた。陽光が柔らかく降り注ぎ、侍女たちが笑顔で祝福の言葉を並べ、花束が次々と差し出される。  周囲には甘い香りが満ち、音楽が流れた。その少し後ろに、ひとりの少年が立っていた。  同じ日に生まれたレオンハルト。神殿から「穢れを抑えることのできる、神の加護を持つ聖騎士候補」と予言された少年だった。 「おめでとうございます、殿下」  硬いながらも丁寧な挨拶が、アシュレイの耳に落ちる。少年の口元がわずかに上がり、灰青色の瞳が柔らかく細められる。アシュレイは自然と笑みを返した。 「レオンもだろう? 今日は」 「……俺は、祝われる立場ではありません」 「うそ。今日は半分、君の誕生日だもの」  無邪気な言葉に、周囲の侍女たちがくすくすと笑う。その瞬間までは、すべてが平穏だった。  それなのに突然、胸の奥が焼けるように熱くなった。アシュレイの浮かべていた微笑みが、見る間に崩れる。 「っ……!」  シャツの胸元を開くと、皮膚の下に黒い模様が浮かび上がり、細い亀裂のように脈打っていた。それが見る間に紋様は広がり、鎖骨から肩、腕へと這い上がっていく。皮膚の下で何かが蠢き、肺を内側から圧迫する。そのせいで息が詰まり、視界が歪んだ。 「いっ……あ……!」  それを見た侍女たちの悲鳴が上がった。 「きゃああっ! 穢れです!」 「触れてはなりません! 近寄らないで!」  花束が地面に落ち、祝福の庭は一瞬にして凍りついた。人々は後ずさり、誰も近づこうとしない。  こうして12歳の少年は、忽然と孤独の輪の中に取り残された。 (そうか……今日から、始まるのだ)  膝をついたアシュレイの脳裏に、そんな思いがよぎった。痛みと熱の中で、たった一つだけ理解した。これは自分の役目なのだと――。  その時、迷いのない足音が近づいてきた。レオンハルトだった。まだ正式な叙任を受けていない少年が、周りの制止を振り切って駆け寄る。 「レオン、来るな……! 危ない……!」  叫びは悲鳴に近かった。しかし、レオンハルトは止まらなかった。 「俺は、殿下の騎士になります」  少年の声はまだ幼く、微かに震えていたが、言葉ははっきりしていた。 「ならば、ここで退く理由はありません」  黒い紋様がレオンハルトの手に触れた瞬間、焼けるような痛みが走ったはずだ。それでも彼は手を離さず、王子の胸にそっと手のひらを当てた。淡い銀色の光が、彼の加護だった。神に選ばれた聖性の力。  穢れの黒い紋様が一瞬だけ揺らぎ、押さえ込まれる。  息が詰まるほどの熱と痛み。国の罪、怒り、嘆き、怨嗟――それらがレオンハルトの体内に流れ込む感覚。少年の顔がわずかに歪んだが、手はけして離さない。強く握り返し、声を絞り出す。 「殿下……落ち着いてください。俺は、ここにいます」  加護の光が強く脈打つ。完全には消えないものの、黒い紋様の動きがゆっくりと鎮まっていく。  アシュレイの呼吸が、ようやく戻ってきた。涙に濡れた瞳で、レオンハルトを見つめる。  恐怖はなかった。代わりに深い安堵と、小さな笑みが浮かんだ。 「……レオンハルト」  震える声で名前を呼ぶ。 「怖く、なかった……?」  焼けるような痛みを堪えながら、レオンハルトは静かに答えた。 「殿下が一人になる方が、俺は怖いです」  その言葉に、アシュレイは泣きながら笑った。祝福の庭に落ちた、たったひとつの光のような笑顔だった。  それ以来、王子は器となった。レオンハルト・ヴァイス・グランディアだけが、常に傍らに立つことを許された。触れられるのは彼だけ。近づけるのも彼だけ。穢れが暴れれば、彼が押さえ込む。  それは浄化ではない。ただ抑え込み、痛みを和らげるだけの行為だった。それでもアシュレイは、いつも微笑んで礼を言った。 「ありがとう、レオン」  あの日の笑顔が、レオンハルトの胸に深く刻み込まれた。孤独の中で、たったひとりに向けられた笑顔。  それが、二人の運命の原点となった。  塔の最上階で、アシュレイは再び目を開けた。遠くに見える銀色の騎士の姿が、少しだけ近づいた気がした。 (もうすぐ、来てくれる……)  静かな穢れが、再び胸の内で優しく揺れた。

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