3 / 25
第1章 静かな穢れ2
王宮の謁見室は、12歳になったばかりのアシュレイにはやけに広く、冷たく感じられた。 大理石の床は磨き上げられ、冷たい光を反射している。高い天井からは巨大なシャンデリアが下がり、無数の蝋燭の炎が揺れていたが、それでも部屋全体に漂う冷たさは拭えなかった。
誕生日の祝宴は、庭での発現の直後に強制的に終わらされた。白薔薇の花びらが散らばったまま、笑い声は消え、祝福の音楽は途中で断ち切られた。
城全体の空気が、あの一瞬で張りつめたものに変わってしまった。
玉座の前に立つアシュレイの足は、まだ少し震えていた。胸の黒い紋様はレオンハルトの加護で抑え込まれていたが、皮膚の下に残る熱と疼きは完全に消えていなかった。時折、鋭い痛みが波のように引いては返し、息を浅くさせる。
王は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「アシュレイ」
父の声は優しかった。しかしその優しさは、どこか遠く、薄い膜を隔てたようにアシュレイの耳に落ちた。玉座に座る王の姿は、いつもより大きく、遠く感じられた。
「お前は、この国のために生まれた」
幼い頃から何度も聞いた言葉だった。今日、その重い意味がようやく明かされる。
王はゆっくりと語り始めた。古き神との契約、王家の血が国に降りかかるすべての厄災、穢れ、怨嗟を一身に引き受ける仕組みについて。国民が平穏を得る代償として、王家の第三子が「楔」となること。
「本来、こうした穢れの契約は第一王子の務めとなるはずだった。しかし第一王子には王位を継がせ、第二王子には隣国との政治的な婚姻で国を支えさせる……そのため、残されたのはお前だけだ」
アシュレイの指先が、わずかに冷たくなった。血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「お前が、選ばれた」
王の声は重く、謁見室に響いた。
「第三王子という位置。継承権は遠いが、王家の血筋は確かに引いている。切り捨てるには惜しく、守るには重すぎる……まさに、器として相応しい」
王はそこで一度言葉を切り、玉座の肘掛けを指で軽く叩いた。まるで自分自身に言い聞かせるような、わずかに苛立つ仕草だった。
「お前は、国が存続するための礎だ。アシュレイ」
アシュレイは静かに理解した。自分が過不足なく丁寧に育てられてきた理由を。壊れにくい器として、長く保つための教育だったのだと。帝王学を学びながらも、王位を継ぐためのものではなかった。痛みに耐え、穢れを溜め続けられる「容器」として育てられたのだ。
喉の奥がひどく乾いた。それでも少年は、掠れた声で言った。
「……私は、贄なのですね」
王は否定しなかった。ただ、わずかに目を伏せた。
「国を守る礎だ。お前がいなければ、この国はとっくに滅びていた。飢饉、疫病、戦争……過去に何度も、王家の楔がすべてを飲み込んだからこそ、今の繁栄がある」
どんなに言葉を飾っても、本質は変わらない――贄・生贄であり、生きながらの犠牲者。
アシュレイはゆっくりと膝を折り、頭を垂れた。
「承知いたしました」
声が震えていないことに、王はわずかに安堵の息を漏らした。父としての情と、王としての義務。その狭間で、微かな葛藤が一瞬だけ顔を覗かせたが、アシュレイはもうそれを見なかった。見ないようにした。
「神殿の祈祷棟へ移れ。あそこが……お前の新しい居所となる」
実質的な幽閉の宣告だった。王子としてではなく、器として生きるための檻。塔の最上階——空に近く、人々から遠い場所。
アシュレイは立ち上がり、背を向けた。振り返らず、父の顔を見なかった。ただ一度だけ、窓の外に浮かぶ冷たい月を眺めた。
(レオンは……知っているのだろうか)
胸の奥が小さく痛んだ。しかしその痛みも、すぐに飲み込む。自分はもう、役目を自ら受け入れたのだから。これ以上、父を苦しめたくはなかった。
――同じ夜、神殿の奥深く。燭台の炎が揺れる冷たい石室で、レオンハルト・ヴァイス・グランディアは大神官の前に跪いていた。白金の髪が炎の光に照らされ、少年の肩がわずかに強張っている。
「王子の発現は確認された。予定通りだ」
大神官の声は淡々としていた。感情の欠片も感じられない。
「俺の加護で、殿下の発作は鎮まりました」
レオンハルトが報告すると、大神官は静かに頷いただけだった。
「……それでよい」
短い返答に、レオンハルトは顔を上げた。灰青色の瞳に、かすかな苛立ちが浮かぶ。
「よい、とは……どういう意味ですか? 俺は、殿下の穢れを祓うために生まれたのでは? 同じ日に生まれた聖騎士候補の中で、俺だけが選ばれたのは、そのためだと……」
大神官は冷たい目で少年を見下ろした。炎の影が、彼の厳しい顔立ちをより神々しく、しかし冷酷に見せていた。
「お前の加護は浄化ではない。王子が壊れぬよう、調整するための力だ」
その言葉が、レオンハルトの胸に深く突き刺さった。
「穢れを完全に祓えば、神との契約は成立しない。国は守られぬ。王子は器として機能し続けなければならない」
「器……」
レオンハルトの喉が乾いた。
庭で見た、涙を浮かべながらも笑ったアシュレイの顔が脳裏に浮かぶ。焼けるような痛みを堪え、手を強く握り返してくれた小さな温もり。あの笑顔は、器などという冷たい言葉で片付けられるものではなかった。
「では、殿下は……一生、あの痛みを?」
「そうだ。お前は傍にいて、器として長く使えるよう維持する。それがお前の役割だ」
大神官の声は機械的だった。
「決して、器に情を移すな。あれは人ではない。国の礎だ。感情を持つ必要などない」
拳が、膝の上で小さく震えた。
「維持するため」――その言葉が、少年の胸の奥で何かをひび割れさせた。守るためではなく、壊れないように調整するため。道具として扱うため。
「俺は……殿下を守るために生まれたはずです」
「違う。維持するためだ」
大神官はきっぱりと言い切った。それは命令ではなく、冷たい戒めだった。レオンハルトは唇を噛み、頭を垂れた。
「……承知、いたしました」
口ではそう答えたが、心は到底納得していなかった。
庭で感じた、あの笑顔は偽りではなかった。孤独の中で自分だけに向けてくれた温もりは、本物だった。たとえ大神官が何と言おうと、あれは「人」だった。
同じ頃、祈祷棟の最上階へ続く長い廊下を、アシュレイは月明かりに照らされながら歩いていた。
背後にはもう、華やかな王宮の灯りはなかった。代わりに冷たい石壁と、淡い聖なる光だけが彼を包む。足音が虚しく響き、少年の小さな影が長く伸びていた。
二人は同じ夜に、自分の運命を知った。アシュレイは「器」として。レオンハルトは「調整装置」として。
それでも、あの白薔薇の庭で交わした笑顔と手のぬくもりだけは、胸の奥に鮮やかに残っていた。痛みを分け合い、恐怖の中で見つめ合った瞬間は、誰にも奪えない。
静かな決意が、それぞれの心に灯った夜だった。
アシュレイは塔の窓辺で、遠くの神殿の灯りを見つめながら小さく呟いた。
「レオン……これからも、そばにいてくれるよね」
一方、レオンハルトは石室を出た後、塔の麓に向かって歩きながら拳を握りしめていた。 大神官の言葉など、関係ない。
自分は、殿下を守るためにここにいる。たとえそれが、神殿や王国のルールに反したとしても。
二人の運命は、この夜から本格的に動き始めた。静かな穢れの中で、わずかに——しかし確かに——亀裂が入り始めていた。
ともだちにシェアしよう!

