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第1章 静かな穢れ3

***  祈祷棟での最初の夜は、やけに静かすぎた。高い天井に吊るされた燭台の火が、石壁に細く長い影を落としている。窓は細く設計されており、月光は床に白い帯を引くだけで、外の風や人の声はほとんど届かない。  かつては神に祈りを捧げるための神聖な場所だったこの棟は、今や王家の契約を保つための冷たい檻と化していた。  石壁は夜になると冷気を帯び、寝台の白い布もどこか硬く、肌触りが寂しい。空気は澄みきっているはずなのに、息を吸うたび胸の奥が重く沈むような感覚があった。 アシュレイは一人、寝台の端に腰掛けていた。昼間、父である王に告げられた言葉が、何度も頭の中で反芻される。  器、礎、契約――自分はもう、王子ではない。ただの役割、それだけだ。  そう考えるだけで胸の奥がじわりと熱を帯び、黒い紋様がうっすらと浮かび上がるのが分かった。皮膚の下で蠢く感覚に、アシュレイは小さく息を詰める。 (――泣いてはいけない。感情が揺れると、穢れが反応してしまう)  それでも目の奥が、じんと熱くなる。まばたきをすると、窓の小さな隙間から入り込む月の光が、少しだけ滲んだ。  誰もいない夜は、こんなにも広く、深く、静かなものだったと、今日初めて知った。さきほどまでいた王宮の喧騒が、遠い昔の夢のように感じられる。 (……誕生日の今日は、本当に長い一日だった)  そんなことを思ったとき、扉が規則正しく叩かれた。迷いのない、しかし丁寧な音が耳に届く。 「……入れ」  声は思ったより掠れていた。まるで泣き叫んだ後のように。  扉がゆっくりと開き、灯りの逆光の中にひとつの影が立った。 「……殿下、いらっしゃいますか?」  レオンハルト・ヴァイス・グランディアの声はいつも通りを装っていたが、わずかに硬さがあった。それでも、その存在だけでアシュレイの胸が少しだけ軽くなった。 「……わざわざ来なくてよい」  アシュレイは顔を逸らした。 「なぜです」 「だって私は、穢れを帯びているからだ」  言葉にすると、実感が胸に重くのしかかった。膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。 「昼間、庭で見ただろう。皆、逃げた。仲の良かった侍女も家臣も、誰一人として触れようとしなかった。……君まで穢れる必要はない」  それは、静かに突き放す言葉だった。これ以上、大切なものを失いたくないという思いが、言葉の端々に滲む。  しかしレオンハルトは扉を静かに閉め、部屋の中央まで迷いなく歩いてきた。その足取りに、躊躇いは全くなかった。 「俺は、聖騎士になります」  まだ正式な叙任を受けていない少年が、きっぱりと言い切った。 「神から与えられた加護があります。殿下の穢れは、俺には届きません」  アシュレイは眉を寄せた。 「それでも……」 「平気です!」  レオンハルトはあの庭の時と同じように近づき、迷わず膝をついた。そして顔を上げ、真っ直ぐにアシュレイと目線を合わせる。  本当は完全ではないことを、レオンハルトは知っていた。神殿で大神官から聞かされた「維持するための力」という言葉が、胸の奥でちくちくと刺さっている。だが今は、それを口には出さなかった。  アシュレイが知る必要はない。  レオンハルトは手を差し出しかけて、わずかに指を止めた。黒い紋様が脈打つのを見て、喉が小さく鳴る。それでも、ゆっくりと指先を伸ばした。 「殿下、触れても……よろしいですか?」  アシュレイは一瞬躊躇った。手のひらにも薄っすらと黒い紋様が浮いている。それでも恐るおそる、レオンハルトの指先に自分の指を重ねた。触れた瞬間、熱と痛みがレオンハルトの腕を駆け上がった。それを弾くように、淡い銀色の光が少年の周囲で揺らぎ、穢れを押し留める。  レオンハルトは、少し得意げに笑った。それは少年らしい、まっすぐで無邪気な笑顔だった。 「ほら。平気でしょう?」  その笑顔を見た瞬間、アシュレイの胸の奥で何かがほどける。  今日初めて役目や契約ではなく、「自分自身」を見てくれている視線を感じて、涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えた。 「……レオン」  アシュレイの声が震えた。 「私は、もう王子ではない」  レオンハルトは静かに首を振った。 「いいえ。俺にとっては、何も変わりません。あなたは、アシュレイ殿下です」  迷いのない言葉が、アシュレイにとって希望の光のように響いた。 「俺はこれまでと変わらず、殿下のそばにいます」  その声には維持のためでも、契約のためでもない、何かもっと純粋な響きがあった。  アシュレイは俯いた。先程よりも目頭が熱い。泣くまいと思っていたのに、ぽたりと一粒の涙が膝の上に落ちた。 「レオン……ありがとう」  小さな声で礼を言ったアシュレイの手を、レオンハルトは強く、温かく握り返した。 「お疲れでしょう。おやすみください、殿下」  その夜、祈祷棟の石壁は冷たかった。けれど握られた手だけが、確かに温かかった。そのことを思い出しながら、アシュレイは目を閉じる。  突然与えられた重い役目に、明るい未来は見えなかった。それでも、一人ではない。それだけで、少年の心はわずかに救われたのだった。

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