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第1章 静かな穢れ3
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祈祷棟での最初の夜は、やけに静かすぎた。高い天井に吊るされた燭台の火が、石壁に細く長い影を落としている。窓は細く設計されており、月光は床に白い帯を引くだけで、外の風や人の声はほとんど届かない。時折、遠くから聖歌隊の低い祈りの声が響いてくるが、それさえも現実味を帯びない幻聴のように感じられた。
かつては神に祈りを捧げるための神聖な場所だったこの棟は、今や王家の契約を保つための冷たい檻と化していた。壁に刻まれた古い聖刻は、まるでアシュレイを監視しているかのように見えた。
石壁は夜になると冷気を帯び、寝台の白い布もどこか硬く、肌触りが寂しい。空気は澄みきっているはずなのに、息を吸うたび胸の奥が重く沈むような感覚があった。穢れが、静かに体内で蠢いている証拠だった。
アシュレイは一人、寝台の端に腰掛けていた。昼間、父である王に告げられた言葉が、何度も頭の中で反芻される。
器、礎、契約――自分はもう、王子ではない。ただの役割、それだけだ。
そう考えるだけで胸の奥がじわりと熱を帯び、黒い紋様がうっすらと浮かび上がるのが分かった。皮膚の下で蠢く感覚に、アシュレイは小さく息を詰める。痛みはまだ引かない。まるで体内に別の生き物が棲んでいるかのようだった。
(――泣いてはいけない。感情が揺れると、穢れが反応してしまう)
それでも目の奥が、じんと熱くなる。まばたきをすると、窓の小さな隙間から入り込む月の光が、少しだけ滲んだ。少年は唇をきつく噛み、涙を堪えた。12歳の誕生日が、こんな夜になるとは思わなかった。
誰もいない夜は、こんなにも広く、深く、静かなものだったと、今日初めて知った。さきほどまでいた王宮の喧騒——笑い声、花の香り、音楽が遠い昔の夢のように感じられる。
(……誕生日の今日は、本当に長い一日だった)
そんなことを思ったとき、扉が規則正しく叩かれた。迷いのない、しかし丁寧な音が耳に届く。三回。いつもと同じリズムだった。
「……入れ」
声は思ったより掠れていた。まるで泣き叫んだ後のように。
扉がゆっくりと開き、灯りの逆光の中にひとつの影が立った。
「……殿下、いらっしゃいますか?」
レオンハルト・ヴァイス・グランディアの声はいつも通りを装っていたが、わずかに硬さがあった。それでも、その存在だけでアシュレイの胸が少しだけ軽くなった。まるで重い霧が薄れるような感覚だった。
「……わざわざ来なくてよい」
アシュレイは顔を逸らした。声が震えないよう、必死に抑えていた。
「なぜです?」
「だって私は、穢れを帯びているからだ」
言葉にすると、実感が胸に重くのしかかった。膝の上で両手をぎゅっと握りしめる。指の関節が白くなるほど。
「昼間、庭で見ただろう。皆、逃げた。仲の良かった侍女も家臣も、誰一人として触れようとしなかった。……君まで穢れる必要はない」
それは、静かに突き放す言葉だった。これ以上、大切なものを失いたくないという思いが、言葉の端々に滲む。もう一人でも耐えられるように、自分を慣らさなければと思った。
しかしレオンハルトは扉を静かに閉め、部屋の中央まで迷いなく歩いてきた。その足取りに、躊躇いは全くなかった。銀の胸当てが燭台の火に反射し、淡い光を部屋に広げる。
「俺は、聖騎士になります」
まだ正式な叙任を受けていない少年が、きっぱりと言い切った。
「神から与えられた加護があります。殿下の穢れは、俺には届きません」
アシュレイは眉を寄せた。レオンハルトの瞳に映る自分は、ひどく弱く見えた。
「それでも……」
「平気です!」
レオンハルトはあの庭の時と同じように近づき、迷わず膝をついた。そして顔を上げ、真っ直ぐにアシュレイと目線を合わせる。灰青色の瞳は、揺るぎなかった。
本当は完全ではないことを、レオンハルトは知っていた。大神官から聞かされた「維持するための力」という言葉が、胸の奥でちくちくと刺さっている。穢れを完全に消すことはできない。消せば国が滅びるからだ。だが今は、それを口には出さなかった。
アシュレイが知る必要はない。彼に与えられる痛みは、もう十分すぎる。
レオンハルトは手を差し出しかけて、わずかに指を止めた。黒い紋様が脈打つのを見て、喉が小さく鳴る。それでも、ゆっくりと指先を伸ばした。
「殿下、触れても……よろしいですか?」
アシュレイは一瞬躊躇った。手のひらにも薄っすらと黒い紋様が浮いている。それでも恐るおそる、レオンハルトの指先に自分の指を重ねた。
触れた瞬間、熱と痛みがレオンハルトの腕を駆け上がった。それを弾くように、淡い銀色の光が少年の周囲で揺らぎ、穢れを押し留める。痛みは鋭かったが、レオンハルトは表情を崩さなかった。
レオンハルトは、少し得意げに笑った。それは少年らしい、まっすぐで無邪気な笑顔だった。
「ほら。平気でしょう?」
その笑顔を見た瞬間、アシュレイの胸の奥で何かがほどける。
今日初めて、役目や契約ではなく、「自分自身」を見てくれている視線を感じて、涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えた。誰にも必要とされず、恐れられるだけの存在だと思っていたのに。
「……レオン」
アシュレイの声が震えた。
「私は、もう王子ではない」
レオンハルトは静かに首を振った。
「いいえ。俺にとっては、何も変わりません。あなたは、アシュレイ殿下です。俺が知っている、優しくて、少し寂しがり屋の殿下のままです」
迷いのない言葉が、アシュレイにとって希望の光のように響いた。
「俺はこれまでと変わらず、殿下のそばにいます。たとえ神殿が、父上が、何と言おうと」
その声には維持のためでも、契約のためでもない、何かもっと純粋な響きがあった。少年の決意そのものだった。
アシュレイは俯いた。先程よりも目頭が熱い。泣くまいと思っていたのに、ぽたりと一粒の涙が膝の上に落ちた。そしてもう一粒、二粒……。
「レオン……ありがとう」
小さな声で礼を言ったアシュレイの手を、レオンハルトは強く、温かく握り返した。その手の大きさはまだ少年のものだったが、確かに頼もしかった。
「お疲れでしょう。おやすみください、殿下。俺はここにいます」
その夜、祈祷棟の石壁は冷たかった。けれど握られた手だけが、確かに温かかった。そのことを思い出しながら、アシュレイは目を閉じる。
突然与えられた重い役目に、明るい未来は見えなかった。それでも、一人ではない。それだけで、少年の心はわずかに救われたのだった。
レオンハルトはアシュレイが眠りにつくまで、そっと手を握り続けていた。銀色の加護の光が、二人の間に淡く灯り続けていた。
静かな穢れの夜は、まだ始まったばかりだった。
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