5 / 21

第2章 離れないという嘘

 祈祷棟の回廊は、夜になるとすべての音が吸い込まれるように静かになる。石床は昼の熱を失い、芯から冷えきっていた。魔導灯の淡い青白い光が、長く伸びた影を壁にゆらゆら揺らしている。  かつて少年だった聖騎士は、今では銀の鎧がよく似合う背丈になった。  レオンハルト・ヴァイス・グランディアは、厚い扉の外に立っていた。中にいるのは、アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシア。12の誕生日の夜に、穢れを引き受けた王子。  あれからいくつかの冬が過ぎ、少年は青年へと変わった。守るべき王子だった存在は、今や国の厄災を封じる立派な器と成長を遂げた。  そして自分は器を調整するための聖騎士であり、同時に監視役となっていた。 (――監視、か……)  神殿で繰り返し告げられた言葉が、レオンハルトの胸の内で蘇る。 「加護は完全ではない」 「穢れは、年を重ねるごとに濃くなる」 「けして近づきすぎるな」 「管理せよ」  管理――あの夜、決して使われなかった冷たい言葉を思い出しながら、レオンハルトは目を閉じた。  小さな手が震えながら伸びてきた夜。まだ声変わりもしていない声で「平気でしょう?」と強がった夜。淡い銀色の光が黒い紋様を押し留めた感触が、今も手のひらにしっかりと残っている。  今、扉の向こうにいる彼の声は、もう低く落ち着いている。あの頃よりよく通る声が、ひどく遠く感じられた。扉越しに気配を探る。  穢れの脈動は、かつての荒れ狂う波から、深海の重い潮流へと変わっていた。以前より確実に強くなっているが、暴れてはいない。 (――殿下は、耐えていらっしゃる)  けして叫ばず、縋らず、王にも運命にも声を荒げない。あの夜とは違う。もう泣かない――それが、何よりも痛かった。  不意に衣擦れの音がした。きっと気づいている、自分がここに立っていることに。しかし、名前を呼ばない。数年前なら、すぐに「レオン」と呼んだはずだった。  レオンハルトは落胆を隠せず、小さく息を吐いた。 「……殿下」  声は以前より低く、深くなっていた。扉越しにかけた声に、返事はない。ただ、穢れがわずかに揺れるのを肌で感じた。 (俺は監視者だ。感情で動くな――)  そう自分に言い聞かせる。だからこそ、あの夜の記憶が鮮やかに蘇る。  石の寝台で震えていた指先。触れてもいいかと訊ねた時の、驚きに満ちた瞳。守らなければと思ったのは、任務などではなかった。  扉にそっと手を当てた。木越しに伝わる熱は、昔より明らかに強い。だが、しっかりと制御されている。それは、アシュレイの努力の跡だった。 「……起きておられますか」  しばらくの沈黙の後、低い声が返ってきた。 「ああ、当然だ」  あの頃より落ち着いた、王族としての理性をまとった響き。しかしレオンハルトは、わずかな息の乱れを聞き逃さなかった。 「監視なら、扉越しで十分だろう」  告げられた理屈は正しい。 「穢れは強くなっている。お前の加護がいつまで保つか分からない」  かつて守られる側だった少年が、今は自分を守ろうとしている。それがレオンハルトの胸を強く締めつけた。 「来るな」  短い拒絶に反応するように魔導灯の光がわずかに揺れ、影が歪む。 「私は、もう王子ではない。国の厄災だ」 『違う』と叫びたい衝動を、レオンハルトは喉の奥で飲み込んだ。12歳の幼かったあの夜なら、迷わず扉を開けていただろう。だが今は、踏みとどまる。成長したのは、彼だけではなかった。 「……俺は監視者です」  あえて、その言葉を選んだ。すると扉の向こうで、穢れがひときわ強く脈打った。 「命じられています。離れるな、と――」  それは嘘ではない。ただ、理由の半分しか言っていない。  沈黙が続いた。やがて、かすかな乾いた笑いが聞こえてきた。 「そうか……」  それはどこか諦めたような、寂しげな口調だった。 「ならば、好きにしろ」  距離を置くための言葉は、やけに掠れた声だった。衣擦れの音が扉越しに遠ざかる。その瞬間、穢れが感情に呼応するように大きく波打った。 (――まだ、揺れている)  完全には、閉ざされていない。  レオンハルトは、扉に額をそっと押しつけた。かつて少年だった自分にはできなかった距離。それでも、離れることなどできなかった。 「……離れません」  静かに、しかしはっきりと告げる。 「任務ですから」  本当は違う。あの誕生日の夜に交わした、もっと純粋な誓いだった。しかし、一度でもそれを口にすればレオンハルトを守るために、アシュレイはもっと遠ざかってしまう。それが分かっていた。  穢れはしばらく荒れ狂うように脈打ったが、やがて深い海の底のように静かに沈んでいった。回廊の魔導灯が、ゆっくりと弱まっていく。  数年前は、同じ夜を越えるたびに震えていた。今は違う。一緒に立ち続けることを選んでいる。扉一枚の距離。それでも、あの白薔薇の庭から続く誓いは、まだ終わっていない。

ともだちにシェアしよう!