6 / 21
第2章 離れないという嘘2
***
扉の前で足音が止まったのを、アシュレイは確かに知っていた。
祈祷棟最上階の部屋は、夜になると風の音だけが残る。高窓の外で枝が擦れ、かすかな影が石壁を横切っていく。魔導灯の淡い光が、部屋の隅々までを青白く染めていた。
扉一枚を隔てて、人の気配がある。しかも離れていない。それだけで、胸の奥が軋むように痛んだ。
(――なぜだ)
来るなとハッキリ言った。任務を果たせと冷たく正しく、王族として恥じぬ言葉を選んだはずだった。それなのに、どうしてまだそこに立っているのだろうか。
「……任務、か」
低くなった自分の声が、静かな室内に落ちる。あの誕生日の夜よりも、ずっと落ち着いた響きになっていた。
レオンハルトは、そう言った。「任務だから離れない」と。それでいいはずだった。これは私情ではない――ただの義務。だから安心して突き放せる……そう思ったのに、胸の奥が熱い。
寝台の上に落ちた自分の影がわずかに揺らぐだけで、胸元の黒い紋様がじわりと浮かび上がり、肌をゆっくりと這い始めた。穢れが脈打つのが、嫌でも分かる。
(抑えろ……何とか、抑えなければいけない。無駄な感情に引きずられるな――)
私が「来るな」と言ったとき、心の内は本当は逆だった。レオンに来てほしい。触れてほしい。あの夜のように、優しく笑ってほしい。
――平気でしょう? と、幼い顔で強がったあの笑顔を、もう一度見たい。だけど、そんなことを望む資格などない。私は器で、国の礎なのだから。平然と誰かに縋っていい存在ではない。
「くっ……それでも――」
否応なしに喉が震える。両手で寝台の縁をぎゅっと握りしめた。成長した指は骨ばり、爪が白くなるほど力を込めているのに、どうしても震えは止まらない。胸の紋様が濃くなるにつれ、黒が広がっていく。穢れによって肺が圧迫されるせいで息が次第に苦しくなり、心臓が軋む。
高窓の外では風が強まったらしく、魔導灯の炎がかすかに揺れた。
(――いなくなれ。いなくなれば、きっと楽になる……はずなんだ)
レオンがいなければ、こんなにも欲しくならない。こんなにも救われてしまわない。
目を閉じてそう願った瞬間、外の風の音に混じって、扉越しに微かな衣擦れの音が聞こえた。
何かが動いた。まだ、近くにいる。そこから離れていない――それを感じただけで、荒れていた穢れが波打ちながらも、ゆっくりと沈み始めた。胸の熱が次第に和らぎ、呼吸が随分と楽になる。
不意に、魔導灯の揺れが静まった。
「あぁ……ずるい」
涙が頬を伝った。一滴、二滴……石床に落ちる音が、やけに大きく響く。いなくなれと願いながらも、いなくならないことに救われている。この矛盾こそが、自分の弱さの証だった。
「レオン……そばにいるな」
命令でも、願いでもない。これはただの本音。呟いた小さな声は、扉までは届かない。触れれば崩れてしまいそうだから、絶対に触れない。
それでも耳を澄ませて、向こう側の気配を確かめる。レオンは監視者で、任務を果たしているだけ。でもいい、そこにいるのなら――。
アシュレイは、ゆっくりと目を開けた。涙は止まらなかった。けれど、呼吸は穏やかになっている。穢れも、深く静かに沈んでいく。高窓の向こうで、夜風が少しずつ静まっていった。
扉一枚の、触れられない距離。今夜は、それでいいと思ってしまった。この距離が、いつか自分を壊すのかもしれない。
それでも、アシュレイは静かに目を閉じた。レオンハルトの気配を感じながら、初めての夜以来、久しぶりに心が安らぐのを感じていた。
ともだちにシェアしよう!

