7 / 21

第3章 均衡の代償

 神殿の地下は、祈りの場ではなかった。湿り気を帯びた石の匂いと、絶え間ない水音だけが満ちる記録の場だった。円形の巨大な観測陣が床一面に刻まれ、祈祷棟と魔力で連動した仕組みになっている。  陣の溝には古い魔力の残滓が黒ずんで沈み、長い年月を物語っていた。中央に据えられた水盤に映るのは、黒く揺らぐ光――アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアの穢れを表す値を示した。  穢れの脈動は常に不安定で、規則性はない。24時間の監視で、神官たちが水盤を見張っている。 「本日、第三刻より上昇傾向」  白衣の神官が淡々と告げる。 「感情波と連動。抑圧時に急騰が見られる」  告げられた言葉を表すように水面がざわりと荒れ、黒が一気に濃くなった。 「……接近反応」  その直後、数値が滑らかに落ち始めた。荒波が岸に触れて静まるように。 「聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア、回廊位置確認。距離、扉一枚」  記録板に淡々と文字が刻まれる。老神官が腕を組みながら、目を細めた。 「ふむ、これは偶然ではないな」  静かな地下で、水音だけが反響する。 「ここ最近、この兆候が目立ってます。すべて、同一人物の接近時のみ減衰しておりますが――」 「数値の減少は、加護による抑制と推定すべきでしょうか?」 「いや……加護の波長とは一致しない」  水面に映る黒が、ゆっくりと呼吸するように脈打つ。 「どちらかと言えば、そうだな……依存の可能性が高い」  余計な感情を含まぬ、ただの分析結果だった。 「聖騎士を呼べ」  レオンハルト・ヴァイス・グランディアは、神殿の間に立っていた。冷えた石床に柱の影が長く落ち、彼を檻の中に立たせているように見えた。 「観測結果を共有する」  水盤の黒い光が、二人の視界に映し出される。 「ここ一ヶ月、贄の穢れは不安定だ。しかし、貴殿の接近時のみ、顕著に減衰が確認されている」  レオンハルトの呼吸が、一瞬だけ止まった。 「……偶然です」  老神官は動じなかった。 「聖騎士が近づく度に毎回減衰するのを、偶然とは呼ばん」  記録板には、減衰率と波長の変化が事細かく刻まれていた。 「これは加護か?」 「……分かりません」  老神官の声が低く落ちる。 「観測結果の推察から、聖騎士レオンハルトの存在は、贄の維持装置として有効である」  その言葉に、レオンハルトの手のひらに爪が食い込んだ。  維持装置――あの夜、決して口にしなかった冷たい響きに胸が痛む。 「……違います」  自然と声が低くなった。それに反応するように、老神官の眉間に深いシワが刻まれる。 「聖騎士、余計な感情は排除せよ。近づきすぎないように、離れるな」  矛盾した命令が続くことに、レオンハルトの胸の奥で苛立ちが募った。 「いいか、常に均衡を保て」 (――この仕事は、俺でなければならない)  その事実が、言葉と一緒に重く突きつけられる。 「贄の穢れを安定させるために今後、接触制限を設ける。試験運用期間は七日。距離27歩を基準とする」  レオンハルトは無意識に、その歩数を頭の中で刻んだ。石床を踏む足音の数、27歩。 「……承知しました」 ***  老神官に呼ばれた後、回廊の最奥にレオンハルトはいた。アシュレイのいる部屋の扉は、そこから角を二つ曲がった先にあった。穢れの気配は、いつもより遠く感じられ、薄く頼りない。 (――たぶん、落ち着いている)  これなら、水盤は安定を示すだろう。だが静まりすぎている。柔らかな沈静ではなく、無理に均された硬い静寂のように、レオンには感じられた。 ***  祈祷棟最上階、アシュレイはすぐに気づいた。  近くない。扉の向こうに、あの温かい気配がない。それだけで、胸の紋様がざわついた。 (――来るなと、レオンに言ったのはこの私だ)  分かっているのに、もの足りない。彼が欲しい。レオンの声も気配も、その存在そのものが――。  そう思うだけで穢れが波打ち、ぎりぎりの均衡を保った。 「……ずるい」  涙は出なかった。ただ、胸にぽっかりと空洞が広がる。その空洞を埋められるものが、たった一人だと知ってしまったから。 ***  地下の水盤は、淡々と結果を示した。 「成功だ。距離27歩が適正と見なす」  老神官は、満足げに記録を続ける。 「聖騎士の存在は有効、だが接触は不要」  冷たい結論だった。人の心は、数値に含まれない。回廊の最奥で、レオンハルトは遠い脈動を肌に感じていた。  安定しているが、明らかに削れているのが分かる。 (殿下……かなり無理をしていらっしゃる)  削れているのは、加護だけではない。欲も、声も、感情も。  表面上は、均衡は保たれている。しかしそれは嵐の前に張りつめた、あまりにも静かで危うい水面だった。

ともだちにシェアしよう!