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第4章 27歩の外へ
地下神殿は、地の奥深くで脈打つ巨大な臓腑のようだった。天井は高く、黒曜石の柱が円環状に並ぶ。中央の巨大な水盤は、王城のどの玉座よりも冷たく尊大で、青白い光を放っていた。水面に浮かぶのは、王子の穢れを数値化した黒のみ。
黒の濃淡、揺らぎ、感情波——すべてが冷徹に記録され続けていた。
「距離27歩、安定維持」
神官が淡々と刻印板に記録する。
「心拍補正値、正常範囲」
「呼吸補助結界、作動中」
老神官の視線は、水面から一瞬も離れない。しかしその黒が、ぶつりと断ち切れた。
「座標消失!」
即座に声が飛ぶ。
「対象は移動していると思われます。結界反応なし。自発行動と推測」
祈祷棟にいるはずの王子の消失により、水盤が激しく波立った。黒が水面に薄く広がり、観測式が縦横無尽に乱れる。黒い霧が渦を巻き、まるで怒っているかのように荒れ狂った。
「理論値から逸脱、許容誤差を超過」
老神官が渋い表情のまま、ゆっくり告げた。
「原因を排除せよ」
理由は問わない。結果のみが管理対象だった。王国の均衡こそが、すべてだった。
***
回廊は夜の底に沈んでいた。高い石壁に灯る魔導灯が、淡く青い影を落とす。磨かれた石床は冷えきり、氷のように輝いていた。外の風が小窓から吹き込み、レオンハルト・ヴァイス・グランディアの銀の鎧をわずかに揺らす。
27歩——神殿が定めた正確な距離。しかし今夜は、なぜか空気が違う。しかも、やけに静かすぎた。いつも感じる穢れの脈動が、突然途切れたような感覚。
ひたひた……と、裸足の掠れた足音が響いた。レオンハルトは、音のする方に視線を向けた。冷えた床に、白い足が突然現れる。細い足首が、かすかに震えていた。
「……殿下?」
闇の向こうから現れたのは、白衣の青年——アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアだった。夜気に晒された肌は青白く、黒色の髪が頬に貼りつき、呼吸が浅く苦しそうに胸が小刻みに上下していた。瞳は潤み、限界まで感情を抑え込もうとしているのが見て取れた。
「……息が」
風がアシュレイの言葉を攫う。
「息が、できない……」
それは王子の声というより、震える体温を纏った人間の声だった。その声を聞いて、レオンハルトの胸が激しく軋んだ。27歩の制限が、彼をここまで追い詰めていた。
***
一方、地下神殿では対象の消失により、混乱が広がっていた。
「距離25歩、穢れ増幅傾向——いや、違う。振動パターン変化!」
「分析不能!」
水面の黒が、さらに薄く広がりながら乱れる。黒い波が激しく打ち寄せ、観測陣全体が震えた。
「接触禁止距離を突破した模様!」
老神官が即座に命じる。
「武装神官、出動準備。対象と聖騎士を今すぐに分離。必要なら拘束せよ!」
「対象の精神依存兆候を確認。排除対象、聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア」
「聖騎士を……排除?」
「均衡維持を阻害する要素は、身分に関わらず排除する。それが王命だ」
それは国家が最初から決めた掟で、神殿は忠実にそれに従うのみ——冷徹で、容赦のない掟だった。
***
白衣の裾が石床を擦る音がする。
「レオン……そこに、いるのか?」
か細い声にレオンハルトの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……います」
アシュレイの肩が、わずかに落ちる。安堵したことで穢れが揺らぎ、一瞬で薄まった。あと数歩で、夜風が二人の間を通り抜ける。
「どうしても……我慢できなかった」
その告白を聞いた瞬間、レオンハルトの中で何かが音を立てて崩れた。アシュレイがあと一歩近づく。
触れてはいけない——それは命令であり、均衡だった。
しかし距離は消えた。アシュレイの額が銀の胸当てにぶつかった瞬間、鈍い音が響く。冷たいはずの金属に、確かな熱がじわりと伝わる。白衣越しの体温はやけに高く、震えを含んでいた。細い腕がやんわりと回り、レオンハルトの背中に回される。
「……レオン、少しだけでいい」
胸元に押しつけられた声が、鎧を震わせる。吐息が隙間から入り、冷えた内部を温めた。
レオンハルトは、息を吸い込んだ。鉄の匂いと、微かに混じる体温の匂い。腕がゆっくりと下り、アシュレイの細い腰を抱き寄せる。金属の軋む音がした。
「……レオン、もっと強く抱きしめてくれ」
その言葉に、夜気が揺れた。
レオンハルトは、強く抱きしめ返した。鎧越しに伝わる鼓動、震える肩、熱い吐息——すべてが彼の胸の奥を溶かしていく。少年の頃の記憶が、鮮やかに蘇った。あの白薔薇の庭で交わした誓い、触れてはいけないはずの温もり。
遠くから、複数の鎧の音が迫ってきた。武装神官たちが回廊を埋める。老神官が冷たい声で告げた。
「接触確認。分離せよ」
しかし、アシュレイは離れなかった。
「お前たち、私に触れるな」
王族としての威圧を込めた声に、神官たちが一瞬気圧される。青年となったアシュレイの声には、静かな威厳があった。
「……彼は安定している」
レオンハルトはアシュレイを抱いたまま、静かに事実を告げた。水盤の黒が、今この瞬間、確かに穏やかになっているはずだった。
「これは命令違反だ!」
「処分なら、この俺を!」
アシュレイの細い腕に力がこもる。
「レオン……私を離すな」
「行かない」
短く強い言葉が、レオンハルトの口から発せられる。
「俺は、アシュレイを置いて行かない」
石造りの回廊が、その誓いを静かに抱き込んだ。
老神官は長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。
「ならば、条件付きで接触を許可する。ただし、これは試験だ。均衡が崩れれば——即座に排除する」
武装神官たちが引き下がる中、二人はまだ抱き合ったままだった。
27歩の外へ——その一歩が二人の運命を静かに、しかし確実に変え始めていた。
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