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第5章 数値と鼓動
「接触時間は1日3回、各10分間」
老神官の声は抑揚がなく、祈りというより報告書の朗読だった。
「間隔は最低3時間以上。超過すれば強制分離。必要と判断した場合、鎮静処置を施す」
――鎮静処置。それは薬品や祈祷ではなく、手順として扱われる冷たい言葉として、ふたりは受け止めた。
アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアは気難しい表情で、渡された書面を見つめていた。黒いインクが鎖の輪のように連なり、彼を縛るように見えた。
隣に立つレオンハルト・ヴァイス・グランディアは、真顔で静かに頷いた。
「了承した」
その迷いのない返事に、アシュレイの胸がさらに痛む。
地下水盤の波形は、今は安定を示した。27歩以内、10分間の抱擁で減衰率が最大になる。神殿はそれを「最適解」と呼んだ。だが最適化とは、結局のところ切り捨ての別名だった。
「……私の穢れを抑えるために、お前を安全装置にするのか」
静かな言葉に、レオンハルトが振り向いた。
「それは違う」
「違わない」
穢れが感情に呼応して、胸の奥で微かに脈打つ。
「こうしてきっちり時間を区切られ、回数を数えられ、外部で記録される。私の中にある穢れのせいで、触れることが義務になっている。ちょっとのことで簡単に波打つ穢れを安定させるために、お前を利用しているに過ぎないじゃないか」
レオンハルトは数歩近づいた。27歩の内側だが、まだ触れない距離。それでも、離されているよりはマシだった。
「俺は選んでいる。神殿の命令だからじゃない。殿下が安定するなら、それでいい」
その真っ直ぐさが、アシュレイにとっては刃のように胸を抉った。
「……だから嫌なんだ」
アシュレイは俯き、声を震わせた。
「お前がそう言うから、甘えるしかない。背負うと言うから頼るしかない。それでは私は――」
王子でも贄でもない、ただの依存者だと言おうとした瞬間、鐘が鳴った。
「第一回、開始」
扉の向こうで羽根ペンが走る音が聞こえ、水盤の観測が本格的に始まる。レオンハルトが一歩踏み出した。しかし今度は、アシュレイが動かなかった。
「レオン……命令だから、私を抱き締めるのか?」
静かな問いに、レオンハルトの眉がわずかに寄る。それでも彼は両腕を伸ばし、やんわりとアシュレイを抱き寄せた。白衣越しの体温が、銀の鎧にじわりと伝わる。本来冷たいはずの金属が、内側から熱を孕んでいく。
鼓動が速い。それは穢れに侵された熱ではなく、必死に生きている者の鼓動だった。それが鎧を介して、レオンハルトの胸に届く。
外から神官の声が響いた。
「減衰率、上昇。安定傾向」
その言葉と同時に、レオンハルトの腕がわずかに強まった。観測値に合わせた力ではない。それは「離したくない」という、無意識の圧だった。
アシュレイは気づいていた。鎧の内側で、レオンハルトの鼓動も自分と同じ速さで打っていることに。
「この抱擁も……数字になるな」
無気力なまま、額をレオンハルトの胸当てに押しつけ、目を閉じる。この短い時間を、ふたりだけのものにしたいと願うアシュレイは、ぽつりと呟く。
「私とお前の距離を、数式にしてほしくない」
レオンハルトの息が、鎧の隙間でかすかに乱れた。
「俺は数字じゃない。殿下もだ」
互いの腕に力が込められた瞬間、外から呼びかけが飛んだ。
「残り1分」
早すぎると思い、アシュレイの指が鎧を強く掴む。その瞬間、穢れがざわめき、波形を乱した。水盤の揺れに外がざわつく。
「変動確認」
レオンハルトの腕の力がさらに強まる。規定を超えそうな感じで鎧が軋んだ。
「殿下……落ち着いてください」
囁きは命令ではなく、懇願だった。それだけで波形が戻る。そして鐘が鳴った。
「終了」
腕が解かれる。しかし一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、レオンハルトの指が白衣を離せなかった。そのわずかな抵抗を、アシュレイは確かに感じ取った。
「レオン……私はお前を奪っている」
「違う」
今度は、レオンハルトの声がわずかに掠れた。扉の向こうで神官が囁く。
「減衰率、過去最高値。依存度、上昇傾向」
(――依存で何が悪いというんだ)
アシュレイは喉の奥で、その叫びを噛み潰した。
その夜、穢れは静かだった。数値は安定している。だがふたりの心は、ゆっくりと、確かに荒れ始めていた。
「……私は、レオンを失いたくない」
だから縛りたくない。しかし神殿は、縛ることでしか安定を保てない。数値では測れないものが、静かに熱く燃え始めていることを、彼らはまだ知らなかった。
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