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第6章 100歩の鎖
夜半、鐘は鳴っていなかった。石壁の奥で水音だけが規則正しく響き、それは「何も起きていない」という証のはずだった。
しかしその静寂を、突然の波形が引き裂いた。理由は些細だった。神官の報告書に書かれた一文――《依存度:上昇傾向・分離検討段階》
その文字を見た瞬間、アシュレイの呼吸が大きく乱れた。『分離』という言葉が胸を痛いくらいに締めつけ、穢れが直ぐさま反応した。制御しようとしても気持ちが嵐の海のように揺らぎ、どうすることもできなかった。
扉の外で神官たちがざわめく。
「波形上昇! 規定値を超えます!」
今は接触時間外。あと二時間は許可されない。
そのとき、廊下に力強い足音が響いた。それは迷いのない、真っ直ぐこちらへ向かってくる足音だった。
「お待ちください、レオンハルト様! 今は規定時間外です!」
神官たちの制止の声と、金属の音がぶつかり合う刹那、扉が大きく開かれた。そこに立っていたのはアシュレイが待ち望んでいた人物――息を切らし、額に汗を浮かべたレオンハルト・ヴァイス・グランディアだった。
「殿下……」
穢れが彼を認識した瞬間、黒い波がざわりと揺れ、主を思い出したように静まり始めた。
「……来るな」
来てほしいと願いながら、拒む言葉が口を突いて出た。
「規定時間外に来れば、お前が罰せられる」
それでもレオンハルトは歩み寄った。27歩の距離を、簡単に超えて。
「構わない」
大きな手がアシュレイの頬に触れ、そして強く抱き締める。
安堵と喜びで一瞬だけ穢れが黒く弾けたが、次の瞬間、嘘のように沈静した。地下水盤が穏やかに整った途端に、外で悲鳴が上がった。
「減衰率、急上昇! 規定外接触を確認!」
武装神官たちが突入し、ふたりの間に割って入ろうとする。しかし、レオンハルトは離れなかった。
「聖騎士、時間外接触は禁則だ!」
武装神官はアシュレイの細い二の腕を掴み、レオンハルトから引き剥がそうとする。アシュレイは必死に、レオンハルトの鎧を掴んだ。
「やめろ!」
穢れが一瞬揺らぐが、暴走はしなかった。まだ温もりが残っていたから。
やがてレオンハルトは強引にその場に跪かされ、幾重にも鎖で拘束された。老神官が武装神官の間から、ゆっくりと現れる。
「聖騎士レオンハルト」
冷たい声が室内に響いた。
「3日間の拘束処分を命ずる。ゆえに接触全面禁止。さらに――」
老神官の視線がアシュレイに向いた。
「依存度上昇は、危険水準に達した。明日より分離距離を拡大。27歩を100歩へ。違反があれば、聖騎士は更なる拘束処分とする」
100歩――それは事実上の断絶だった。
「やめろ……」
アシュレイの声が震えた。老神官はそれを無視して、淡々と続ける。
「聖騎士をこのまま装置化すれば、殿下は穢れを自ら調整できず、自立できぬであろう。依存は早々に排除すべきだ」
レオンハルトが悔しげに顔を上げた。唇から血が滲んでいたが、瞳の力だけは強かった。
「それで殿下が無理をして壊れるなら、意味がない!」
武装神官が彼を引きずり始める。鎖の音が冷たく響いた。
「レオン……すまない。私のせいだ……」
アシュレイの胸で、何かが裂けた。穢れが静かに波打ち、怒りと自責、そして初めて明確な感情――神殿への敵意が沸々と燃え上がった。
老神官は気づいていない。水盤の数値は安定している。しかし、王子の瞳が変わったことに。
レオンハルトは振り返らなかった。ただアシュレイに聞こえるように、一言だけ大きな声で残した。
「俺は後悔していない!」
扉がゆっくり閉まる。静寂がひとりきりの部屋を包み込んだ。
100歩――神殿が引いたその線をいつか必ず越えることを、アシュレイは心の奥底で静かに、しかし確かに誓った。
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