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第6章 100歩の鎖

 夜半、鐘は鳴っていなかった。石壁の奥で水音だけが規則正しく響き、それは「何も起きていない」という証のはずだった。地下神殿の水盤は穏やかに黒を揺らし、神官たちは淡々と記録を続けていた。  しかしその静寂を、突然の波形が引き裂いた。理由は些細だった。神官の報告書に書かれた一文――《依存度:上昇傾向・分離検討段階》  その文字を見た瞬間、アシュレイの呼吸が大きく乱れた。『分離』という言葉が胸を痛いくらいに締めつけ、穢れが直ぐさま反応した。制御しようとしても気持ちが嵐の海のように揺らぎ、どうすることもできなかった。黒い紋様が白衣の下で急激に濃くなり、肺を内側から圧迫する。息が詰まり、視界がわずかに歪む。 (――レオンを、私から引き離す……?)  アシュレイは寝台から立ち上がり、震える足で部屋の中央まで歩いた。感情を抑えようとすればするほど、穢れは激しく波打った。依存度が上昇していると指摘された瞬間から、心の奥底に潜んでいた恐怖が溢れ出した。  扉の外で神官たちがざわめく。 「波形上昇! 規定値を超えます!」 「感情波、急騰! 鎮静処置の準備を!」  今は接触時間外。あと二時間は許可されない。それでもアシュレイの胸の奥で、黒い潮が荒れ狂い始めていた。  そのとき、廊下に力強い足音が響いた。それは迷いのない、真っ直ぐこちらへ向かってくる足音だった。銀の鎧が石床を踏む音は、まるで鐘のように響く。 「お待ちください、レオンハルト様! 今は規定時間外です!」  神官たちの制止の声と、金属の音がぶつかり合う刹那、扉が大きく開かれた。そこに立っていたのはアシュレイが待ち望んでいた人物――息を切らし、額に汗を浮かべたレオンハルト・ヴァイス・グランディアだった。灰青色の瞳は険しく、しかしアシュレイを捉えた瞬間、わずかに柔らかくなった。 「殿下……」  穢れが彼を認識した瞬間、黒い波がざわりと揺れ、主を思い出したように静まり始めた。まるで、長い間待っていたものがようやく訪れたかのように。 「……来るな」  来てほしいと願いながら、拒む言葉が口を突いて出た。声は掠れ、震えを隠せない。 「規定時間外に来れば、お前が罰せられる。わかっているだろう……!」  それでもレオンハルトは歩み寄った。27歩の距離を、簡単に超えて。銀の鎧が魔導灯の光を反射し、部屋を淡く照らす。 「構わない」  大きな手がアシュレイの頬に触れ、そして強く抱き締める。冷たいはずの金属が、内側から熱を帯びていく。アシュレイの細い体が、レオンハルトの胸にすっぽりと収まった。  安堵と喜びで一瞬だけ穢れが黒く弾けたが、次の瞬間、嘘のように沈静した。地下水盤が穏やかに整った途端に、外で悲鳴が上がった。 「減衰率、急上昇! 規定外接触を確認!」 「波形が急激に安定……あり得ない数値だ!」  武装神官たちが突入し、ふたりの間に割って入ろうとする。しかし、レオンハルトは離れなかった。むしろ腕に力を込め、アシュレイを守るように抱きしめる。 「聖騎士、時間外接触は禁則だ!」  武装神官はアシュレイの細い二の腕を掴み、レオンハルトから引き剥がそうとする。アシュレイは必死に、レオンハルトの鎧を掴んだ。指が白くなるほど強く。 「やめろ……! 離さないで……!」  穢れが一瞬揺らぐが、暴走はしなかった。まだ温もりが残っていたから。レオンハルトの鼓動が、鎧越しに確かに伝わってくる。それが唯一の錨だった。  やがてレオンハルトは強引にその場に跪かされ、幾重にも鎖で拘束された。銀の鎧に黒い鎖が巻きつき、金属音が冷たく響く。老神官が武装神官の間から、ゆっくりと現れる。 「聖騎士レオンハルト」  冷たい声が室内に響いた。 「3日間の拘束処分を命ずる。ゆえに接触全面禁止。さらに――」  老神官の視線がアシュレイに向いた。そこには憐れみも、敬意もなかった。ただの「管理対象」を見る目だった。 「依存度上昇は、危険水準に達した。明日より分離距離を拡大。27歩を100歩へ。違反があれば、聖騎士は更なる拘束処分とする」  100歩――それは事実上の断絶だった。扉一枚どころか、回廊を二つ三つ越えた先の距離。声も、気配も、ほとんど届かない。 「やめろ……」  アシュレイの声が震えた。老神官はそれを無視して、淡々と続ける。 「聖騎士をこのまま装置化すれば、殿下は穢れを自ら調整できず、自立できぬであろう。依存は早々に排除すべきだ。それが国のためであり、殿下のためでもある」  レオンハルトが悔しげに顔を上げた。唇から血が滲んでいたが、瞳の力だけは強かった。鎖に繋がれながらも、真っ直ぐにアシュレイを見つめる。 「それで殿下が無理をして壊れるなら、意味がない! 数字で測れるものだけが、均衡じゃない!」  武装神官が彼を引きずり始める。鎖の音が冷たく響いた。アシュレイは一歩踏み出そうとしたが、神官たちに阻まれる。 「レオン……すまない。私のせいだ……! 私が弱かったから……!」  アシュレイの胸で、何かが裂けた。穢れが静かに波打ち、怒りと自責、そして初めて明確な感情――神殿への敵意が沸々と燃え上がった。黒い紋様が、今までとは違う色合いで脈打つ。  老神官は気づいていない。水盤の数値は安定している。しかし、王子の瞳が変わったことに。あの少年の頃の静かな諦めではなく、静かな、しかし確実な決意が宿っていた。  レオンハルトは振り返らなかった。ただアシュレイに聞こえるように、一言だけ大きな声で残した。 「俺は後悔していない! 殿下のそばにいることを、一度も!」  扉がゆっくり閉まる。静寂がひとりきりの部屋を包み込んだ。鎖の音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。  アシュレイは床に膝をついた。胸の黒い紋様は静まっているのに、心の奥は嵐のようだった。涙は出なかった。代わりに、冷たい決意が胸に灯る。  100歩――神殿が引いたその線をいつか必ず越えることを、アシュレイは心の奥底で静かに、しかし確かに誓った。  そしてその時、もう「器」としてではなく、ひとりの人間として、レオンハルトの手を握るのだと。

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