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第7章 意図的な黒
神殿はあれから、レオンハルトとアシュレイの分離距離100歩を厳格に維持した。地下水盤は緩やかに波打っており、老神官は満足げに頷いた。
「依存度、減少傾向にあります」
「距離拡大は有効です」
適宜に告げられる観測結果に、老神官は安堵の息を漏らした。白い髭を撫でながら、水盤の黒が穏やかに揺れる様子を眺める。
「やはり、感情の原因を遠ざければ安定する。依存は排除すべきものだ」
100歩の距離――それは、王子と聖騎士の心を切り離すための処置だった。穢れは感情に呼応する。ならば、感情の原因を遠ざければいい。神殿の理屈は単純で、冷徹だった。数字だけが真実であり、心など数値に表れないものとして切り捨てられていた。
だが、彼らは知らなかった。王子の私室で、アシュレイがひとり静かに目を閉じていることを。
窓からは、王都の夜景が見える。灯火の連なりが、静かな海のように揺れていた。普段ならその光景にわずかな安らぎを感じていたが、今夜は違った。すべてが、遠く、冷たく感じられた。
(……穢れは、上手く制御できる。いや、しなければならない)
ゆっくり息を吸い、深く吐く。身体の中に渦巻く黒を、アシュレイは強く意識した。黒い紋様が胸の奥で静かに蠢いている。いつものように抑え込めば、水盤は安定を示すだろう。
(こうして丁寧に呼吸を整え、思考をどんどん沈めればいい――)
そうすれば穢れは静まる。そして――。
(――レオンを思い出さなければ……)
胸の奥が嫌な感じで軋んだ。無実だというのに鎖で厳重にも繋がれ、切ない表情で連れ去られた彼の姿が脳裏に浮かびかけるのを、アシュレイは無理やり押し込めた。
唇から血が滲んでいたこと、最後に残した「俺は後悔していない」という言葉が、胸を抉る。
神殿が奪った――彼を罰という名目で。自分を守るために行動しただけの彼を、「装置」として扱い、鎖に繋いだ。
「……神殿が彼を、安全装置扱いするのなら――」
それは、やけに静かな声だった。感情は、徹底的に抑え込まれている。その奥には、確かな意志があった。少年の頃から受け入れてきた運命を、初めて積極的に利用しようという気持ち。
アシュレイは、ゆっくりと目を開けた。そして胸の奥に沈めていた黒へ、先ほどよりも強い意識を向ける。
穢れは王の感情に呼応し、地下深く眠るものや、外の世界に影響を及ぼす力を持っている。だからこそ、これまでは必死に抑えてきた。
しかしアシュレイは、自分の内側にある蓋を――ほんの少しだけ外した。
黒が外に滲む次の瞬間、地下水盤の水面が激しく揺れた。
「波形上昇!」
地下にいる観測神官の声が響く。神殿地下の騒ぎを完全にスルーしたアシュレイは、さらに穢れを解放するために、胸の奥にある蓋を少しずつ開いていった。そこから黒が滲み出て、窓から穢れが飛び出していく。まるで生きた黒い霧のように、夜気に溶け込み、王都へと広がっていく。
王城の空気が次第に重くなり、遠くで悲鳴が上がり始めた。燭台の火が激しく揺らぎ、庭園に咲き乱れていた花が瞬く間に萎れた。王都の上空を覆っていた夜空が、ゆっくりと黒い雲に飲み込まれていく。
星が消え、空が沈む。穢れは人々に不安と苦痛を与えた。それは災厄だった。兵士が膝をつき、市民が悪寒に震え、子供たちが泣き出す声が風に乗って届く。
しかし、これは暴走ではない。アシュレイは冷静だった。これは意図的な拡散であり、神殿への明確な反抗だった。瞳の奥に宿る黒は、怒りでも絶望でもなく、静かな決意だった。
「王子殿下、どうか制御を!」
扉の向こうで神官が叫ぶ。アシュレイはゆっくりと振り返った。瞳の奥が、深い黒に澱んでいる。
「私は、制御“しない”と決めただけだ」
真顔で淡々と答えるのみ。声に感情は乗っていない。それがかえって、周囲を凍りつかせた。
地下にある水盤がけたたましく警報を鳴らし、祈祷棟全体に響き渡った。減衰率ゼロ、増幅率が一気に急上昇していく。黒い光が水盤を埋め尽くし、観測陣が悲鳴を上げるように震えた。
「このままでは、埒が明かない。急いで聖騎士を呼べ!」
慌てふためいた老神官の声が震えた。先ほどまでの余裕は消え、額に冷たい汗が浮かんでいる。
「拘束中でも構わぬ! 何も手を打たなければ、間違いなく王都に多大な影響が出る! 急げ!」
だが、既に影響は出ていた。城壁の上で兵が膝をつき、市井で人々が悪寒に震えていた。穢れが与える影響を分かっていながらアシュレイは立ち上がり、窓を開けた。部屋の中に重い風が吹き込む。黒い霧がさらに外へ溢れ出す。
「……レオン」
小さい声なれど、確かに呼ぶ。それは祈りではない。命令でもない。ただ純粋に、彼を求める声だった。窓の外に広がる黒い夜空に向かって、アシュレイは静かに目を閉じた。
***
地下牢で鎖に繋がれたレオンハルトは、気配を感じて顔を上げた。胸が熱を帯び、穢れの波動が皮膚を刺す。銀の鎖が軋む音が、狭い牢に響く。
「……殿下?」
彼は即座に理解した。これは事故ではない、意図的だということを。アシュレイが、自分を呼ぶために穢れを解放したのだと。
地下牢に焦った表情の神官が、転がり込むように駆け込んだ。
「聖騎士レオンハルト! 即時出動を願います! 王都への被害が拡大している! 殿下の穢れが制御不能です!」
鎖がすぐに解かれ、レオンハルトは一目散に祈祷棟の最上階を目指した。階段を駆け上がるたびに、穢れの圧が強くなる。肺が締め付けられるような感覚。それでも足を止めなかった。
私室の扉が破られ、室内に満ちた濃い穢れに神官たちが次々と膝をついた。アシュレイの周囲で黒が渦を巻くが、中心はとても静かだった。青年の姿は、まるで黒い嵐の目のようだった。
足音が近づき、レオンハルトが現れる。アシュレイの視線が彼を捉えた瞬間、穢れが大きく揺らぐ。黒い波が一瞬暴れ、しかし次の瞬間には、まるで帰巣本能のように彼に向かって収束し始める。
レオンハルトは迷わず手を伸ばし、アシュレイを抱き締めた。自身が穢れに汚染されるのもかまわず、強く、強く抱きしめる。銀の鎧が黒い霧に包まれ、軋む音がする。それだけで、穢れが崩れるように沈静した。
瞬く間に夜空が晴れ渡り、遠くの悲鳴が止んだ。けたたましく鳴り響いていた警報が止み、水盤が一瞬で安定を示す。黒い光が淡くなり、穏やかな波紋だけが残る。
神官たちは、安堵で沈黙した。誰もが言葉を失っていた。
数字が証明していた。分離は、失敗だったということを。これは依存ではなく、王子には聖騎士が必要だという、紛れもない事実だった。100歩の距離など、何の意味も持たなかった。
アシュレイはレオンハルトの胸元で、静かに囁いた。
「……私は、自身の穢れで国を脅した。レオン、お前を呼ぶためだけに。もう、我慢できなかった」
レオンハルトは、腕の力をさらに強くした。鎖の痕が残る手首が、アシュレイの細い背中を支える。
「俺は来る。殿下が呼べば何度でも――たとえ鎖に繋がれようと、罰せられようと」
神官たちの間に、さらに重い沈黙が落ちた。
王子は穢れを制御することができるのに、あえてしなかった。それは意思であり、彼の持つ力だった。
そしてそれは、神殿への明確な警告だった。
これ以上、二人を引き離そうとすれば――次はもっと大きな災厄を起こす、という静かな、しかし確かな警告を。
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