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第8章 求めるということ
合図の鐘が鳴った。
「聖騎士レオンハルト、接触を開始してください」
規定通りの時間、規定通りの距離――そして規定通りの抱擁。レオンハルトの腕に包まれると、アシュレイの穢れは嘘のように静まっていく。鎧越しの体温が、白衣を通して胸にゆっくりと染み込んでいった。冷たいはずの銀の金属が、内側からほんのりと熱を帯びる。
(――きっとこれなら、地下水盤の波形も安定しているはずだ)
扉の外では、観測神官が記録を取っている。羽根ペンの音が規則正しく響き、水盤の数値が淡々と刻まれていく。いつも通りの、変わらない毎日。規定の10分間。数字に管理された、機械的な接触。
しかし、今日は違った。アシュレイはレオンハルトの胸元に額を預けたまま、しばらく動かなかった。穏やかな鼓動を聞きながら、ぽつりと呟く。声は低く、柔らかく、いつもの王子らしい冷静さとは少し違っていた。
「……私がレオンを求めたら、どうなると思う」
レオンハルトの腕が、ほんの僅かに強張った。
「求める?」
彼は言葉の意味を測りかねるように聞き返したが、心の奥で何かがざわめいた。胸の奥が熱くなり、息が少し浅くなる。
アシュレイがおもむろに顔を上げた。瞳は澄んでいて、優しく輝いている。彼の中にある穢れは、不思議と一切揺れていなかった。黒い紋様は静まり返り、ただ二人の距離だけが、静かに熱を帯びていた。
「穢れの安定のためではなく、国のためでもなく、私がお前に触れたいと純粋に望んだら?」
レオンハルトの喉が小さく鳴った。返答の言葉が出ない。告げられたことを想像するだけで胸が高鳴り、頰が熱くなる。銀の鎧の内側が、急に狭く感じられた。
鐘の残り時間が刻まれていく中、アシュレイがさらに一歩踏み込んだ。抱擁の距離をほんの少し変え、レオンハルトに密着する。
ふたりの体温が混じり合い、甘い香りがふわりと広がった。アシュレイの髪から微かに漂う香りと、白衣に染み付いた淡い石鹸の匂い。それがレオンハルトの理性を、静かに溶かし始めていた。
「今は、規定時間だ」
アシュレイは小さく笑った。その笑顔は柔らかく、レオンハルトの心を甘やかに溶かしていく。少年の頃の無邪気さとは違う、青年としての、少しだけ危うい魅力を帯びていた。
「だから、誰も止めない」
その言葉に、レオンハルトの心臓が強く打った。アシュレイの穢れは、相変わらず安定している。だからこそ、水盤にも変化はないはず。それなのに彼の中で、何かが確かに反応した。
任務という冷たい枷が、内側から熱を持って軋み始めている。
「殿下――?」
呼びかけた瞬間、アシュレイは背伸びをして顔を近づけ、唇を重ねた。
ほんの一瞬だったはずのキスが、ゆっくりと深みを増していく。押しつけられるアシュレイの唇は意外に柔らかく、わずかに湿り気を帯びていて、レオンハルトの唇に優しく吸い付くように重なった。息が絡み合い、甘い吐息が互いの口内に流れ込む。
レオンハルトの思考が、一瞬で白くなった。鎧の内側が急激に熱を帯び、心臓が激しく鳴り響く。
任務という枷が、軋むような音を立てて崩れていく。
腕に力が入り、アシュレイの細い腰を無意識に引き寄せた。
アシュレイの唇は、ただ触れるだけでなく、わずかに開いてレオンハルトの下唇を甘く食むように吸った。舌先がほんのわずかに、挑むように唇の内側をなぞる。湿った熱と、甘い唾液の味――穢れとは明らかに違う純粋な欲情の熱が、ふたりの間にゆっくりと広がっていく。
アシュレイの指が銀の胸当てを掴み、ぎゅっと力が込められる。
「つっ……はあぁ」
レオンハルトの息が荒くなり、自然と腕に力が入った。鎧の胸当て越しに伝わるアシュレイの体温が、まるで自分の皮膚に直接染み込んでくるようだった。鼓動が激しく同期し、互いの熱が混じり合う。
唇が離れる直前、アシュレイは名残惜しそうにレオンハルトの下唇に軽く歯を立て、引っ張るようにして離す。銀色の糸が一瞬だけふたりの唇の間に引かれ、すぐに切れた。甘く淫靡な余韻が、口内にハッキリと残る。
アシュレイは離れず、レオンハルトの耳元で蜜のように囁いた。吐息が耳殻をくすぐり、背筋に甘い戦慄が走る。
「……私が求めた。お前を――」
甘やかで静かな宣言に、レオンハルトの胸の奥で熱が爆ぜた。
今まで自分は「守る側」「安全装置」として定義してきた。しかし今、求められる側の悦びが甘く体を疼かせる。理性が悲鳴を上げる一方で、心は喜んでその熱に身を委ねようとしていた。
「……それは、ずるい」
掠れた声で返すレオンハルトに、アシュレイが瞳を細めて柔らかく微笑む。頰が淡く赤らみ、いつもより少しだけ潤んだ瞳が、彼を見上げていた。
「何がだ?」
「俺は――」
どうしても言葉が詰まる。任務と感情の境界が、瞬く間に溶けていくせいで。頭の中が熱く、うまく考えがまとまらない。
「俺は聖騎士で、殿下の穢れを安定させるためにここにいる、のに……」
そう思ってきた。そう定義してきた。だが今、違う形で求められた。一人の男として、心が否応なしに疼く。守るべき対象が、自分を「欲しい」と言った。その事実が、すべてを変えてしまっていた。
「残り一分」
外から声が響く。現実を突きつけられたのに、レオンハルトの中はもう元には戻れなかった。鐘の音が近づいているのに、腕を解く気になれない。
「……俺が殿下を求めたら」
低く震える声で問い返した瞬間、アシュレイの瞳が物欲しげに揺れた。ほんの一瞬、王子ではなく、ただの恋する人になる。穢れは静かなままなのに、二人の間の空気だけが、甘く濃密に変質していた。
合図の鐘が鳴った。
「終了」
規定時間だから、すぐに腕を解かなければならない。それなのにレオンハルトは、ほんの一拍だけ、自分の意志で距離を保った。まるで甘い温もりを惜しむように。その一拍を、アシュレイは確かに感じ取った。
頰を赤らめ、俯きながら微笑む。穢れは静かなままなのに、室内の空気は明らかに変わっていた。ふたりだけの、甘く濃密な空気に――。
レオンハルトはゆっくりと離れながら、心の奥ではっきりと理解した。もう自分は、アシュレイの安全装置ではいられない。
求められた。そして――自分も求めてしまった。
扉の外で神官が淡々と記録を続ける。
「減衰率、安定。異常なし」
数字は何も知らなかった。二人の間で起きていた、取り返しのつかない変化を。
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