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第9章 揺らぐ聖騎士
地下牢の拘束が解かれた日から、レオンハルト・ヴァイス・グランディアの内面は何かが決定的に変わった。
表面上はいつも通りだった。銀の鎧を纏い、忠実に任務をこなす聖騎士。姿勢は正しく、声は落ち着き、神官たちへの応答も丁寧だった。
しかしアシュレイの存在を思うだけで、胸の奥から熱い愛おしさが沸き起こるようになった。あのキスの感触が、唇に残ったまま消えない。
「……私が求めた。お前を――」
耳元で告げられた甘い言葉が、どうしても頭から離れない。あれは、穢れを落ち着けるための言葉ではなかった。しかも水盤の数値にも現れなかった。つまり――あれは純粋に、アシュレイ自身の想いだった。
任務でも義務でもない、個人としての彼からの「求め」。
次の接触時間、聞き慣れた鐘が鳴る。規定通りに抱き締めると、穢れはいつも通り安定する。当然、水盤は静かだった。黒い波形は穏やかに揺れ、減衰率は良好な数値を示している。
それなのにレオンハルトの呼吸は、わずかに深くなっていた。密着した瞬間、アシュレイの髪が頰に触れる。そこから花のような甘い香りがふわりと漂い、それだけで胸が疼いた。以前なら気にも留めなかった感触が、今はすべてを侵食してくる。
これまでは「殿下の状態」しか見ていなかった。穢れの濃度、呼吸の乱れ、脈の速さ――数字として把握すべきものだけを見ていた。今は触れた唇の柔らかさ、吐息の熱さ、細い体の震えまで、すべてが鮮明に思い出される。
守る対象ではなく、愛おしい存在として、強く感じてしまった。
聖騎士は私情を持つな。守るのは国であり、王子は国の贄である――それは、幼い頃から叩き込まれた教えだった。
大神官の冷たい声が、今も耳の奥で響く。
「余計な感情は排除せよ」
それなのに今、レオンハルトが守りたいのは、心から愛する一人の男という個人的な想いだけ――。
「……殿下」
声が、いつもより低く掠れた。不意にアシュレイが顔を上げる。黒色の髪が頰にかかり、潤んだ瞳が彼を見つめる。
「どうした?」
その無防備で優しい視線に、レオンハルトの胸がぎゅっと締めつけられた。守りたい、触れたい、離したくない――そんな想いに、理性が抗いきれなくなる。
その瞬間、穢れがほんの微かに揺れた。水盤にはほとんど現れない程度の、小さな波紋。それは観測神官が気づかない程度の揺らぎだったが、レオンハルトには分かった。
アシュレイの体内で、黒い潮流がわずかに反応したことを。これは自分がアシュレイを想う、愛の揺らぎだということが。
「残り2分」
外からの無情な声が響く。いつもなら冷静に離れる準備をする。しかし今、離れたくないと、初めて強く思った。任務や義務ではない。ただこの温度を手放したくない。愛おしい存在を、ずっと抱きしめていたいという、切実な願いが沸々と湧き上がってくる。
そう思った瞬間、レオンハルトの腕が無意識に強まった。抱擁の圧が変わったことに、アシュレイが小さく息を呑む。
その刹那――穢れが揺れた。地下水盤に、小さな波紋が広がる。地下の観測室がわずかにざわめいた。
「微振動を検知」
「原因は不明……感情波との連動か?」
これは穢れの暴走ではない。自分の感情がアシュレイの穢れに影響を与えているのだと、レオンハルトは気づいた。守るべき存在を、自分が揺らがせている。その事実が、胸を鋭く抉った。
「……俺は」
喉が焼けるように渇いた。穢れを落ち着かせようと、思ってもいない言葉を口にする。自分に言い聞かせるように、低く呟く。
「俺は、殿下を安定させるためにいる」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。しかし、アシュレイは静かに首を振って否定する。柔らかい髪が頰に触れ、甘い香りが再び漂う。
「レオン、違うだろう」
互いの視線が絡み合う。それだけで胸が痛いほどに軋んだ。アシュレイの瞳は澄んでいて、しかしどこか物欲しげに揺れていた。
「お前は、私を守るためにいる。国のためでも、神殿のためでもなく――私のために」
告げられた刹那、終了の鐘が鳴った。
「終了」
レオンハルトは、離れなければならなかった。しかし動けない。一瞬だけ、水盤の波形が大きく揺れる。黒い光が水面を走り、観測陣が微かに震えた。
神官が鋭く叫んだ。
「感情波動を検知! 聖騎士側からの変調あり! 即座に分離を!」
レオンハルトの背筋が震えた。自分が穢れに影響を与えていることを、ひしひしと感じる。アシュレイを守るはずの自分が、今、彼を危険に晒している。
「……すまない」
震える腕で、名残惜しげにアシュレイからやっと離れた。指先が白衣を離れる瞬間、微かな抵抗を感じた気がした。アシュレイもまた、離れたくなかったのだと。
その夜、レオンハルトは一人、剣を握っていた。刃の切っ先が、わずかに震える。
以前なら、そんなことはなかった。訓練の最中も、戦場でも、手は決して迷わなかった。しかし今、胸が熱くて、焦がすような甘い感情に支配されるせいで、剣を持つ手に迷いが生じていた。
刃が、いつものように真っ直ぐに収まらない。
「俺は……」
気づいてしまった。アシュレイが欲しい。彼に触れたい。すごく愛おしい――胸の中に渦巻くそのすべてが、聖騎士である心の鎧を、内側から静かに溶かしていく。任務という冷たい鎖が、熱に負けてほどけ始めている。
神殿はすでに記録していた。
《聖騎士の精神揺らぎ、穢れへの干渉の兆候》
《感情波の逆流確認。要注意対象へ昇格》
聖騎士は壁でなければならない。彼が感情を持った瞬間、危険因子に変わったことで排除対象に昇格したことを――。
レオンハルトは剣を鞘に収め、静かに目を閉じた。塔の最上階で、アシュレイが同じように自分を想っているのかどうか、わからない。ただ、あの甘い言葉だけが、夜の闇の中で何度も響く。
「……私が求めた。お前を――」
その声が、聖騎士の心を、静かに、しかし確実に揺らし続けていた。
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