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第10章 甘い疼き
夜の接触時間は、既に終わっていた。祈祷棟の灯りも落ち、王城は静まり返っている。
100歩の遠い距離を感じながら、アシュレイは窓辺に立っていた。穢れは静かなのに、胸の奥がどうにも落ち着かない。
甘い疼きのように、心をゆらゆらと揺らした。
(――いつからだろう。レオンを、ただの聖騎士として見ることができなくなったのは。彼を見る度に、ときめきを感じ始めたのは……)
思い出すのは、あの日――分離距離が27歩に定められた直後だった。
神殿はこのことを「最適解」と喜び、神官たちは成功例だと記録した。誰もが観測する数値だけを見ていた。ただ一人、レオンハルトだけが、数値を見ていなかった。
ある日、原因が分からないまま穢れが急上昇した。神殿はレオンハルトに後退を命じた。
「距離を取れ!」
「27歩を越えるな!」
アシュレイ自身の力で、穢れを抑え込む算段を考えていた神殿。それは聖騎士に依存しないように――なのにレオンハルトは命令を聞かず、迷いなく一歩踏み出した。理由は、ただ一つだった。
「殿下の呼吸が乱れている」
告げられたセリフは、それだけ。水盤の波形ではない。理論でもない。ただ、アシュレイの顔色だった。あの瞬間、アシュレイは初めて衝撃を受けた。
穢れではなく、「私自身」が見られていることを。王子でも、国の贄でもない。一人の人間として、大切に扱われていることを感じてしまった。逆に、それが怖かった。そして、たまらなく嬉しかった。
それは心が甘く満ちるような、初めての喜びだった。あのときから、すべてがガラッと変わった。
彼に抱き締められるたびに、それが任務だと分かっていても、レオンハルトの腕の力を少しだけ強く感じた。規定より、ほんの僅かに――。自分が震えると、腕の力がわずかに増す。それは誰も気づかない、誤差の範囲だった。でもアシュレイは知っていた。
あれは義務ではない、彼の選択だと――。
「……ずるいのは、私だ」
私は先に気づいていた。彼の優しさに――不器用な愛情に。そして自分が、その温度を待ちわびていることに。毎日の接触の時間を心の底から待ち焦がれながら、甘い予感に胸を高鳴らせた。
だから、あのとき堪らなくなって唇を重ねた。濃厚な接触をしても、穢れが反応しないと分かっていた。数値が変わらないと知っていた。ただ、知りたかった。彼が揺れるかどうか。私の想いに、甘く応えてくれるかどうか。
……答えは見えた。抱擁の中で背伸びをして、レオンハルトの唇に自分の唇をそっと重ねた瞬間、柔らかく熱い感触に胸が軋んで痛んだ。
ほんの一瞬の触れ合いのはずが、わずかに唇が開き、湿った熱が絡み合う。彼の息が一瞬止まり、鎧の内側で心臓が強く跳ねるのが、密着した胸に直に伝わってきた。
レオンハルトの唇は驚くほど柔らかく、かすかに震えていた。私は意地悪く、下唇を軽く吸うように食み、舌先でそっと内側をなぞった。甘い唾液の味と、熱い吐息が混じり合い、銀の糸が一瞬だけふたりの唇の間に引かれた。
離れる直前、彼の腕が無意識に強くなった。一拍だけ、離したくなくてためらったその瞬間。あのわずかな抵抗が、すべてを物語っていた。
それは互いの心が、確かに響き合った証だった。
「私は、お前を意識した――」
それは依存ではない。王子としてではなく、一人の人間として。恋する者として。そして今、レオンハルトの守りが薄くなっているのを感じる。
穢れが僅かに彼に触れるだけで、彼の感情が波形に現れ始めている。それが今は痛い。だけど、甘い痛みだった。
「私のせいで――」
いや、違う。私は選んだ。彼を意識して、求めることを。ならば彼が揺れる責任も、半分は私のものだ。ふたりで分かち合う、甘い絆になる。
窓を開けると、夜風が頰に優しく触れた。
アシュレイは目を閉じながら、静かに、しかし確かに呟いた。
「――レオン」
遠く離れた場所で、レオンハルトもまた眠れずにいる。なぜか、それが分かった。
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