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第11章 奪われた熱
深夜――神殿に規定された100歩の距離で、現在は接触禁止時間だった。当然、記録監視も強化中。すべて整っているはずだった。
そんな中、レオンハルト・ヴァイス・グランディアは眠れなかった。胸の奥が熱いせいで。アシュレイを思い出すたびに、鼓動が強くなる。
自分を見つめる穏やかな瞳、重ねられた柔らかな唇の感触、抱きしめた時の温もり――すべてが、心を甘く溶かしていく。穢れを安定させるための接触だったはずなのに、今はただ、彼の存在が恋しくてたまらない。
聖騎士として守るべき対象ではなく、愛おしい一人の人として求めずにはいられなかった。
あの問い——「私が、お前を求めたら」
あれは確認ではなかった。きっと告白だった、自分も同じだと。もう誤魔化せない。優しく微笑みながら見つめるアシュレイの眼差し、耳元で囁かれた言葉の全てが、胸を甘く締めつける。
任務を超えたこの感情——純粋な愛の炎が、レオンハルトの中で静かに燃え広がっていた。
「……俺は欲しているのか」
聖騎士ではなく、一人の男としてアシュレイを求めている。彼の傍にいたい、触れたい、永遠に守りたい。その想いが、理性の壁を穏やかに溶かしていく。
一歩——理性が止める前に、足が自然と前に出た。
もう止まれない。理性より先に、100歩の距離を越える。越境した瞬間、監視結界がわずかに震え、警告灯が淡く灯る。だが止まらない。
アシュレイの顔を思い浮かべるだけで、心が急いて駆り立てられる。
同じ頃、祈禱棟の王子の私室。アシュレイもまた、立ち上がっていた。不思議と、穢れは静かだった。あえて意図的に抑えている。
今日は呼ばない、脅さない。ただ——愛しい彼に会いに行くために、扉をそっと開けた。回廊から足音が響いて、アシュレイの耳に聞こえた。
それに導かれるように角を曲がった瞬間、その人と目が合った。そこに、レオンハルトがいた。100歩の距離を越えて、互いに同じことを考えていた。
見つめ合って数秒、何も言わない。レオンに出会った衝撃で、穢れは揺れなかった。ゆえに水盤も反応しない。
「……殿下」
「アシュレイだ」
小さく訂正しただけで、レオンハルトの喉が鳴った。心が揺さぶられるように震えた。
「今だけ……夜だけは、名前で呼んでほしい」
「……アシュレイ」
初めて呼ぶ名だった。レオンハルトがその名を呼ぶだけで、アシュレイの胸が温かく満ちる。
互いに距離を詰める。今度はゆっくり。27歩から10歩、そして目の前へ。触れる前に、視線が熱く絡む。穏やかで甘く、ふたりの想いが交錯する。
「俺は——」
低く、震えない声でレオンハルトが告げた。
「あなたを求めている」
それは任務ではない。責任でもない。アシュレイを愛する選択だった。自分の心を捧げる選択を直で聞き、アシュレイの瞳が柔らかくなる。
「私もだ」
自然と互いの手が伸びる。今度は、同時に抱きしめ合った。穢れは反応しない。波形は安定していたが、ふたりの呼吸は乱れている。レオンハルトの胸にアシュレイの体温が染み込み、心が甘く溶け合う。
この瞬間、すべてが完璧だった。愛おしい温もり、穏やかな息遣い——恋の喜びが、ふたりの胸を穏やかに満たす。
これは制御ではない、互いを想う恋だった。穢れを超えた、純粋な恋――。
そしてその瞬間、地下の監視水盤に別の反応が出た。
「感情波動増幅を検知しました!」
観測神官が慌てて顔を上げる。
「穢れではない……これは別の波長なのか?」
老神官が眉間にシワを寄せ、水盤を見ながら低く呟いた。
「やはり——」
そして、確信した声で告げた。
「聖騎士の情動が媒介化している」
これは依存ではない。相互感情であり、制御不能のものと老神官は判断した。
「仕方あるまい。実験を前倒しする」
静かな決定がすぐさま下された。
「感情抑制術の適用対象を、聖騎士に!」
老神官の命令で、地下の空気が一瞬にして凍りついた。
「……強制施術ですか」
「今すぐ必要だ」
気難しい面持ちのまま、老神官が冷たい口調で命じた。
「王子が制御不能になる前に、何としてでも情を断つ」
地下の祭壇に、準備が始まる。封印陣と精神干渉式、そして感情の振幅を削る術式。その対象——聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア。
その頃、回廊の闇の中。レオンハルトがアシュレイの額に優しく触れた。
「俺は後悔していない」
甘く囁く声に、アシュレイは嬉しげに微笑む。アシュレイの肌の柔らかさ、甘い香りがレオンハルトの心を穏やかに包み込んだ。
この瞬間を永遠に味わいたくて、アシュレイも答える。
「私もだ」
誰もいないはずの闇の中。アシュレイの指が、レオンの頰にやんわりと触れていた。
「レオン」
呼ぶ声がいつもより柔らかい。心が穏やかに響く。レオンの手が、彼の腰をぐいっと引き寄せた。今度は迷いがない。それは任務ではない上に、責任でもない。ただ——純粋に欲した気持ち。アシュレイのすべてを深く愛したいという衝動が、抑えきれなくなっていた。
ゆっくり唇が重なる。最初は確かめるように、穏やかな触れ合いだった。しかしそれが、次の瞬間に変わった。
レオンの息が荒くなり、腕に力がこもる。彼はアシュレイの唇を貪るように深く重ね、柔らかい下唇を強く吸った。舌が熱く侵入し、アシュレイの口内を貪欲に探る。湿った音が静かな回廊に響き、甘い唾液が絡み合う。
息が苦しくなるほど深く、激しく、求め合うキス。レオンの心が、甘く熱い炎に包まれる。
アシュレイの唇の柔らかさ、舌の感触、吐息の甘さ——すべてが恋の炎をさらに燃やし上げた。
穢れはけして揺れない。水盤は安定したまま――だがレオンの手は、アシュレイの背中を強く抱き締め、まるで溶け合うように引き寄せていた。
白衣越しに伝わる体温が、レオンの鎧の内側を熱く溶かしていく。
「……離したくない」
掠れた声で、初めて剥き出しの本音をレオンは告げた。
アシュレイを永遠に抱きしめていたい、この温もりを失いたくない——その想いが、言葉とともに溢れ出す。それだけで、アシュレイの心臓が激しく跳ねた。
「私もだ。レオン、お前を離したくない。ずっと一緒にいたい……」
言葉と同時にもう一度、強く口付ける。今度はアシュレイも積極的に応え、舌を絡め合い、互いの恋心が熱く溶け合う。
レオンの手がアシュレイの腰をさらに強く掴み、身体をぴったりと密着させる。鎧と白衣の間にあるわずかな隙間から体温が混ざり、甘い吐息が漏れる。この瞬間、ふたりはただの聖騎士と王子ではなかった。
互いを深く求め合う、一人の男と一人の男だった。
ふたりが熱く求め合ったその瞬間、地下祭壇で封印陣が起動した。老神官が低く詠唱を始める。
「情動振幅、即時遮断。精神干渉、開始!」
特別に用意された水盤が、別の波形を描く。それは聖騎士の精神波だった。魔法陣が光り輝いて干渉した刹那、レオンの背筋が凍りついた。びくりと大きく体が震える。
「……くっ!」
その反動で唇が離れた。レオンの突然の異変に、アシュレイが目を見開く。
「レオン、どうした?」
レオンの頭の奥に、冷たい何かが侵入する。それは感情の熱に、水を浴びせるような感覚だった。
「干渉成功――」
地下で声が響く。老神官が展開した術式が、レオンの精神に深く絡みつく。
愛おしい。求めたい。守りたい――その振幅が、強制的に削られる。記憶は消えないが、心に灯った“熱”だけが無情にも奪われた。
見る間に、レオンの瞳から光が引く。しかも、ほんの一瞬で。アシュレイを抱いていた腕の力が、一気に緩む。
「……殿下」
声が平坦になる。明らかに、さっきまでの温度がなかった。突然すぎる異変に、アシュレイの胸が凍りつく。
「どうした?」
問いかけるとレオンはまっすぐ立ち、距離を一歩取る。それは神殿に命令された規定通りだった。
「今は、接触時間外です」
淡々と、機械のように告げる。
「何を言ってるんだ。私に触れていたのは、お前だろう」
震える声を聞いても、レオンは瞬きすら少ない。
「申し訳ございません。規定違反でした。以後、遵守します」
地下で神官たちが安堵する。
「情動振幅、基準値以下。精神干渉成功です!」
アシュレイは瞬時に理解した。これは穢れの影響ではなく、自分のせいでもない。間違いなく神殿に奪われたのだというのを――。
「レオン」
一歩近づくが、彼は全く反応しない。
「私を求めると言ったじゃないか」
切実に問いかけても、レオンは真顔で口を開く。
「申し訳ございません。記録にありません」
その言葉が、刃になった。その刃で胸を刺されたせいで、アシュレイの喉が詰まる。
目の前にいるのは、レオンハルト・ヴァイス・グランディア。姿も声も同じ。だが“灯”がない。抱き締めたときの熱も。離れたくないと言った震えさえも、全て消えていた。
「……返せ」
小さな声を発したら、穢れが揺れた。怒りで地下水盤がざわついたのに、レオンはなぜか動じない。
彼の感情が削がれている。それは聖騎士として、最適化された状態だった。完璧な盾で完璧な装置と化した姿。
目の前の状況に、アシュレイの拳がぶるぶる震える。これは心の殺害だと思った刹那、レオンがその場で静かに膝をつく。
「王子殿下、落ち着いてください」
その呼称が決定的だった。夜だけの名も互いに呼び合った温度も、今この瞬間、見事に切断された。
地下で老神官が告げる。
「これで王子は安定する。情動依存は排除された」
だが彼らは知らない。穢れは制御できても、失った怒りは制御できないことを。アシュレイの瞳が、ゆっくりと黒く染まる。今、初めて神殿を滅ぼしたいと、強く思った。
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