16 / 25

第12章 奪われた心 選んだ力

 朝、王都は曇っていた。陽は差しているはずなのに、光はどこか鈍く、空気が重く淀んでいる。人々はまだ気づいていない。昨日までの平穏が、すでに終わっていることに。  アシュレイの穢れは安定している。ゆえに数値は理想値——神殿にとって、これ以上ない成功だった。 「情動依存、解消」 「聖騎士は、安定装置として最適化済み」  地下から届く報告は、どこまでも平坦だった。そこに人の気配はない。ただ結果だけが並べられている。老神官は満足げに頷き、記録板に印を押した。これで均衡は保たれる。王子は器として機能し、聖騎士は感情を排した完璧な装置となった。  神殿の理屈では、それが正しい結末だった。  だが祈禱棟最上階にある王子の私室。鏡の前に立つアシュレイの瞳の奥では、黒が静かに渦巻いていた。内なる穢れの制御を、完璧にこなす。だからこそ、暴走もしなかった。  黒い紋様は皮膚の下で規則正しく脈打ち、いつものように抑え込まれているように見える。  しかしそれは、抑え込まれているのではなかった。選ばれている――穢れは感情に呼応する。ならば選べばいい。どの感情で、この力を使うのかを。 「私の穢れは、守られるための力ではない」  誰にも届かない声で、静かに告げる。鏡に映る自分の瞳が、深い黒に染まっているのがわかる。 「この穢れを、大切な者を奪われないための力に変えてみせる!」  両手を強く握ると、指先に黒が集まった。少しでも気を抜くと穢れが滲むので、凝縮させるために集中しながら武器にするためにイメージした。黒い霧が指先に収束し、徐々に形を成し始める。  するとそれはやがて、刃の輪郭を持った。短い剣のような、あるいは短剣のような形状。しかしそれは金属ではなく、純粋な穢れの結晶だった。  触れただけで心を蝕み、魂を揺さぶるような、冷たく重い感触を覚える。 「よし……これで奪える」  これまで抑えていた出力を、段階的に解放する。けして、無駄に溢れさせない。当然、暴走もさせない——制御したまま、徐々に強めていく。  黒い刃が、アシュレイの手の中で静かに脈打つ。それは彼の意志そのものだった。  その瞬間、穢れの動きに呼応するように、地下の水盤が大きく震えた。 「王子の波形、異常増幅!」  観測神官の声が跳ね上がる。しかもすぐに、異変の質に気づく。 「これは今までとは違う。なんだこれ……暴走ではない!」 「これは……振幅が一定だ。制御されているのか?」  今まで見たことのない観測に、地下でざわめきが広がる。水盤の黒い光は増幅しているのに、波紋は整然としていた。まるで意思を持って動いているかのように。 「まるで……意図的だ」  水盤を見つめる老神官の表情が、初めて強張った。皺深い顔に、わずかな動揺が浮かぶ。 目に映る水盤の波形は乱れていない。むしろ、あまりにも整いすぎている。増幅しているのに、一切崩れない——しかも選んでいる。  その事実が、神殿にとって最も異質だった。  これまで彼らは、穢れを「制御不能な災厄」として扱ってきた。だが今、それが「意志を持った武器」に変わろうとしていた。  祈祷棟をまとう空気が、より一層重くなる。不思議と人は倒れない。花も枯れない。それなのに穢れは広がっている。しかも——明らかに選別されている。  見えない圧はゆっくりと確実に、神殿へと向けられていた。石壁に微かな黒い染みが広がり始め、魔導灯の光がわずかに翳る。  神官たちの背筋に、冷たいものが走った。  私室で、アシュレイは目を閉じる。内なる怒りは、燃え上がらない。静かに沈み、核になっている。  昨夜、奪われた熱。平坦な声で「殿下」と呼ばれた瞬間。抱きしめた腕から力が抜けた感触。それらすべてが、黒い核の中で静かに燃えている。 「私から大事な者を奪うなら——代価を払え」  低く確かな声が、私室に落ちた。  もう迷わない。愛する人の感情を奪われたのなら、その代償は自分の力で取り立てる。それは守るためではない。自分の大切なものを、取り戻すための力になった。  アシュレイはゆっくりと窓を開けた。  王都の空が、さらに暗く淀んでいく。穢れは静かに、しかし確実に、神殿の石壁を蝕み始めていた。黒い霧が窓から溢れ出し、見えない糸のように神殿の方向へ伸びていく。  鏡に映る自分の姿を、アシュレイはもう一度見つめた。瞳の奥の黒が、静かに、しかし確かに輝いていた。 「レオン……待っていてくれ」  小さく呟く声は、風に溶けて消えた。だがその決意は、穢れの刃とともに、確かに形を成していた。  地下では、老神官が水盤から目を離せなくなっていた。 「……まさか、制御下での増幅だと?」  神官たちが慌てふためく中、老神官だけが静かに息を吐いた。 「ならば——これは警告だ」  王都の空が、さらに重く沈んでいく。朝の光は、もう届かなくなっていた。

ともだちにシェアしよう!