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第14章 残る鼓動
その頃、神殿上空では、黒がゆっくりとしかし確実に渦を巻いていた。それは暴走ではない。王子に制御され、選ばれた方向へ圧をかける意思のある穢れだった。
上空で渦を巻く黒のせいで石畳が軋み、空気が重く沈む。地下で観測していた神官たちが、次々に膝をついた。
「王子の圧力、さらに増幅!」
「結界、限界です! このままでは持たない!」
老神官は、一瞬も迷わずに命じた。
「聖騎士を出せ。今すぐにだ!」
地下の扉が開く。現れたのは、レオンハルト・ヴァイス・グランディア。無表情で静かな瞳が、そこにあった。神殿で管理された彼の心は、常に安定している。当然、波形は正常値を維持した。
「任務内容をお聞かせください」
平坦な声で問いかける聖騎士に、老神官は冷たく命令する。
「王子の威圧を中和せよ。必要なら、力ずくでも構わない」
「承知しました」
それだけで、十分だった。レオンハルトは一切振り返らず、塔の最上階へ向かう。階段を上る足音が、規則正しく反響した。その足取りに、全く乱れはない。だが胸の奥で、原因の分からないわずかな軋みが続いている。
祈祷塔にある最上階、王子の私室。アシュレイは目を閉じたまま、部屋の中央に立って、レオンが来るのを今か今かと待っていた。背後で黒が激しく揺れる。内側には熱を孕んだ怒りがあるのに、表面は氷のように冷たかった。
開け放ったままの扉から、こちらに向かってくる規則正しい足音が聞こえたので、ゆっくり目を開けて振り向く。
「……レオン」
その名を呼ぶ声だけが、柔らかく震えてしまった。
レオンハルトはアシュレイを見るなり、形式通りに片膝をついた。
「王子殿下――」
聞き慣れないその呼称で、アシュレイの瞳が細くなり、表情が一瞬で険しくなる。
「来ると思った」
レオンハルトは、何も言わずに立ち上がる。そして、音もなく愛用している剣を抜いた。そこに、迷いがないこと自体が異様だった。
「王子殿下から威圧を確認したので、中和する作業を開始します」
レオンの足元に加護陣が展開する。その瞬間、部屋の中に白い光が一気に広がり、黒と白が激しくぶつかり合う。その衝撃で空気が裂け、窓ガラスがビリビリと震えた。
ほんの僅かに、アシュレイの圧が削られる。
「お前……本気で、私を止めるのか」
「これは、神殿に命じられた任務です」
レオンハルトが即答したその直後、アシュレイは忌々しげに眉根を寄せる。彼の態度に呼応するように、黒が大きくうねった。
「私は、神殿にお前を奪われた」
アシュレイはいつもより低い声で呟きながら、一歩だけレオンハルトに踏み込む。その呟きは、明らかに怒りに満ち震えていた。
「お前の感情を——」
「申し訳ございません。記録にありません」
無機質な声を聞くだけで、アシュレイの胸の奥が激しく軋む。
「では、お前に聞く」
レオンに訊ねた声が低く沈む。瞳の奥で、黒が更に濃くなった。
「今、私を見て、お前は何も感じないのか?」
小さく開いた窓から、風が激しく吹き込む。それでも黒と白は激しく交錯し、ぶつかり続けた。
何かに反応するように、レオンハルトの瞳がわずかに揺れた。一瞬、胸に鋭い痛みが走る。理由は分からない。
「……対象、確認」
声が、ほんの僅かに掠れる。
「異常ありません」
不思議と足が動かない上に、剣を振り下ろせない。加護陣が、不安定に激しく歪む。
「聖騎士側、波形乱調! 急上昇しています!」
アシュレイは確信した。完全に壊れていない——まだ、残っている。
「レオン」
加護陣の隙間から、黒が彼を包み込む。攻撃ではない、そっと、しかし強く触れるように。心の中の空洞に、静かに、深く沈むように優しく触れた。それだけで、レオンハルトの呼吸が激しく乱れた。頭の奥で、何かが激しく軋む——夜の回廊、触れた体温、甘く絡み合う唇。
《離したくない》
断片的な映像が、脳裏の奥で激しく流れ始める。
「……っ!」
加護陣を作っていた剣が落ち、石畳に重たい金属音が響いた。アシュレイがゆっくりとした足どりで、目の前に立つ。
「レオン」
低い声は震えているが、ハッキリと告げる。
「思い出せ! 私を求めると言っただろう! 離したくないと、震える声であの時言ったじゃないか!」
レオンハルトの瞳が激しく揺れる。そこに感情はない——はずなのに、ジリジリと胸が焼け、頭が割れそうな痛みが走る。心の空洞が悲鳴をあげた瞬間、神殿の結界が激しく軋む。
「聖騎士を今すぐ後退させろ! 早く引き離せ!」
地下で老神官が叫ぶが、レオンハルトは動かない。なぜかアシュレイから視線が逸れなかった。彼の手が、レオンハルトの胸に強く触れる。手のひらに伝わる鼓動は、とても速い。それは、あり得ないほどに——。
「私は、お前を求めている」
静かに、心を込めてアシュレイは口を開いた。
「今もだ。永遠に変わらない。お前を愛している」
その言葉が——レオンハルトの封印に深い亀裂を入れる。地下にある水盤の術式が激しく歪む。水盤の中の水が大きく波立ち、一気に飛び散った。
「干渉強度を上げろ! 最大出力で!」
老神官が命令したことで表面の感情が削れても、奥深くに沈み込んだ感情は消えない。レオンハルトの唇が震え、声にならない声が何かを告げる。それは痛みか——それとも、取り戻そうとする叫びか。
黒と白が、塔の上で激しく渦を巻く。これは戦闘ではない。奪われた心と取り戻す意志の、激しい衝突だった。神殿は、ようやく理解する。この二人は、同時には制御できないことを。
塔の最上階でアシュレイとレオンが見つめ合う中、黒と白が激しくせめぎ合っていた。レオンの剣は手から落ち、加護陣は不安定に激しく揺らいでいる。その均衡を崩すように、アシュレイの左手が彼の胸に強く押し当てられた。
「レオン、思い出せ!」
悲痛に滲む声が封印の奥に深く亀裂を走らせると、レオンの瞳が激しく揺れた。
「……離したく、ない」
かすれた本音が漏れたその一言で、地下の水盤が再び激しく波打ち、警報が鳴り響いた。
「聖騎士の情動反応、再燃! 術式崩壊寸前!」
老神官が即座に決断する。
「強制遮断、開始せよ! 最大出力で!」
一瞬の静寂の後に、塔を貫く白光がレオンの身体を撃ち抜いた。
「ぐ……うッ!」
倒れかけたレオンを支えようとアシュレイが上半身に触れた瞬間、光が近づかせないように激しく反発し、二人が弾き飛ばされるように引き離された。
地下から伸びた光の鎖が、レオンの四肢を容赦なく拘束した。
「神経系再固定。情動野、凍結」
冷酷な宣告と共に、レオンの瞳から揺らぎが急速に消えていく。さっきまで確かにあった痛みと熱が、音もなく削ぎ落とされた。
「レオン!!」
アシュレイの叫びに呼応し、穢れが大きく爆ぜた。塔の壁が大きく崩れ、結界が激しく軋む音が響き渡る。だが術は止まらない。記憶だけじゃなく、感情そのものを断つ。それが神殿のやり方だった。
やがて、レオンの視線が再び結ばれる。そこにあるのは——無機質で冷たい聖騎士の瞳だった。
「任務、継続不能」
温度のない声に、アシュレイはショックで息を呑むしかなかった。光鎖が彼を引きずるように連れ去ろうとするそのとき、レオンの指先がほんのわずかに動いた。アシュレイへ触れようとするように。
でも次の瞬間、完全停止して光が弾けながら動きは消えた。最上階に重い静寂が訪れる。残されたのは黒く渦巻く穢れと、膝をつく王子のみ。
(……今、確かに戻りかけた)
消えていない、消せない。ならば、やることはひとつ——。
「……武器にしてやる」
穢れを形を変えるためにアシュレイは呼吸を整え、頭の中でイメージする。
「神殿が奪うなら——」
黒が凝縮して、さらに鋭い刃の形へと変化した。
「私は奪い返す」
その瞳に涙はない。あるのは、冷たいまでの覚悟だけだった。
***
地下神殿。隅にある台座に横たえられたレオン。情動反応はゼロ。水盤の端に微細な波形が、一瞬だけ揺れる。“A”の形に似た振動は、誰も気づかないほど微かだった。
塔の上空で黒が収束し、アシュレイの穢れが次々と形を成す。手には漆黒の刃、背中には黒の翼。身体を纏うのは黒の鎧。制御された威圧で、完全武装が完了した。
「レオンを返せ」
低く静かな声を発しても、神殿から返答はない。反応があったのは、棟を守る結界のみで、守りがさらに強化される。それでもアシュレイは、一歩踏み出す。
迷うことなく黒の刃が、結界に向かって振り下ろされた——第一層が激しく崩壊し、三重の結界が一気に薄くなった。その隙間を見極め、黒の翼で地下神殿まで真っ逆さまに飛んでいく。薄暗がりの中で目に映ったのは、慌てふためく神官たちと白い光に包まれたレオンだった。
「王子殿下」
感情のない声を聞いて、アシュレイの眉間が歪む。
「これ以上の侵攻は、反逆と見なします」
神官たちの盾となったレオンが、再び剣を振り下ろす。黒と白が激しくぶつかる衝撃に、地下全体が大きく揺れた。
「レオン!」
アシュレイは迷わない。レオンの感情を取り戻すために、黒い刃を強く握る。
「今度は奪われない」
白の聖騎士と黒の王子が、神殿の中枢で再び激しく対峙する。だがレオンの指先が、ほんのわずかに震えた。穢れの圧が、彼の奥に触れている。そのせいで、消えたはずの熱が、否応なしに疼き始める。
神官たちが水盤を見ながら叫ぶ。
「聖騎士の情動反応、再発!」
「遮断術式が不安定です!」
アシュレイは、さらに一歩踏み込む。
「選べ」
地下で声が静かに、しかし力強く落ちる。
「神殿か、私か」
白の剣が音もなく振り上げられる。黒の刃が交差する刹那、激しい火花が散った。そして、レオンの瞳が揺れた。
ほんの、ほんの一瞬だけ。レオンの剣は正確だった。なのにアシュレイに全て先を読まれ、止められる。
(——なぜだ
剣が交差するたび、レオンの中に違和感が積もっていった。
(なぜ、この距離が懐かしいと思える——?)
「レオン、私から目を逸らすな」
至近距離でかけられたアシュレイの声を聞くだけで、レオンの呼吸が激しく乱れる。何度も黒が白を削る。刃を交わした五撃目で、白が黒を裂いた瞬間、アシュレイの頰に血が滲む。その赤を見ただけで、レオンの心拍が大きく跳ねた。
「……損傷確、認」
なぜか声が掠れる。
「私を傷つけて、お前は平然でいられるのか」
アシュレイが大きく踏み込み、黒の刃が横薙ぎに走る。レオンはそれを受けたが、完全に防げない。鎧が砕け、肩から血が散る。温かくて赤い血が目に映った瞬間、視界が激しく揺らぐ。
夜の回廊、触れた指先。そして、熱いくちづけが走馬灯のように頭の中に流れ込んだ。
「離したくない」
自分の声でレオンの剣が、ピタリと止まる。
「早く思い出せ!」
アシュレイがレオンに踏み込みながら叫ぶ。
「お前は、私の騎士だろ!」
その言葉が、レオンの核心を激しく撃ち抜いた。
守る者、誰を——アシュレイ。
「やめろ……!」
神殿の水盤が激震する。
「情動再活性化!」
「遮断術式、維持不能!」
老神官が叫ぶ。
「戦闘継続を命じろ!」
命令が脳へ流れ込む。レオンの精神に干渉しようとする神殿の光が、彼を締め上げる。強制遮断が再起動を試みた。だが、剣を握るレオンの手が激しく震える。自分で、王子を斬らないように。
その隙をついて、アシュレイが刃を払う。レオンの剣が弾かれ、石床に突き刺さった。レオンは膝をつき、両手で頭を押さえる。白の加護が乱れ、その場で激しく砕け散った。
「……アシュ、レイ……」
はっきりと名前を告げたレオン。
「遮断不能!」
「情動波形、暴走!」
神殿が悲鳴を上げる中、レオンが顔を上げる。瞳にいつもの熱が戻っているのが、アシュレイの目に映った。
「……俺は……」
息を荒げながらも、心を込めて告げる。
「お前を、守る……騎士だ……」
完全ではない。まだ術は絡みついているが、もう神殿のいいなりにはならない。アシュレイがゆっくり近づく。黒は攻撃ではなく、包むように揺れる。
ふたりのぶつかり合いにより神殿の結界が激しく軋み、棟の崩壊は時間の問題だった。
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