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第8話 現れたサーシャ

「……カミル、さん?」  あぁ、この声は。  一カ月ぶりに聞いた、低く響く男の声。  重い頭を何とかあげて通りの方を見ると、薄闇の中に立たずむ黒い人影をみとめた。  これは……日が沈もうとしているから黒いわけじゃない。  黒い髪をしているからだ。  俺はなんとか気力を振り絞り、ノエルの腕から逃げようとぐっと手に力を込めて彼の身体を押し戻そうとした。  なぜ彼が現れたのか。  こんな暗い路地裏をなぜ、彼は覗いたんだろうか。  いや、そんなことを気にしている場合じゃない。  俺はノエルの身体を何とか押そうとするが、びくともしない。なんて力だ。  俺だって男だし、非力ではないのにアルファであるノエルに対抗できないなんて。  ノエルは冷笑を浮かべ、俺を見つめている。きっと、サーシャのことなど目に映っていないのだろう。 「あはは。ベータであるお前がアルファである俺に勝てるわけないだろう?」  そんな事言われても、諦めるわけにはいかない。俺だって自分の身を守りたいのだから。 「ノエルさん? 何をしているんですか」  サーシャの厳しい声が響く。  その声にやっと気が付いたらしいノエルは、ゆっくりと路地からこちらに入ってきたサーシャの方を見た。  彼は革の鎧を着て、マントを羽織っているようだった。騎士だったというからてっきり金属鎧を着ているのだと思っていたけれど違うのか。  でも鎧を着ている、ということは奈落から帰って来たところだろうか。それにしてはずいぶんと時間が遅いように思うが。  いや今はそんなことどうでもいい。 「あぁ、君か。邪魔しないでくれるかな?」  ニコニコと笑って言うノエルの声と顔が、とても怖かった。  なんでこんな男に俺は振り回されなくちゃいけないのか。  怒りがふつふつと俺の中で沸き上る。  だけどノエルの声に身体が震えてしまう。この声はアルファ特有の声なのだろうか。  人を威圧し、言うことを聞かせる響きを持つ声。この声をきくと何もできなくなってしまう。  「どう見ても、貴方が彼を襲っているように見えますけど」  まっすぐと、毅然とした声でサーシャは言い、こちらにゆっくりと歩み寄ってくる。  なんでサーシャは、ノエルの声を聞いても大丈夫なんだ?  この男には何か秘密があるのだろうか?  俄然興味が湧いてくるが、今はそれどころではない。 「襲っているとは人聞きが悪い。彼は俺の『運命』なんだ。だから俺が彼に愛人になるよう望むのは当たり前だろう?」 「だからそれが迷惑だと……!」 「愛人? 運命?」  サーシャが顔をしかめ、いぶかしげに首を傾げる。  彼には理解できないだろうな、俺にも理解できないのだから。  アルファはこんな身勝手な生き物なのか。話がかみ合わな過ぎる。  サーシャは不思議そうな声で言った。 「いったい何を言っているんですか? 貴方はご結婚されているんですよね? そう聞いていますけど。たしか子供が生まれるとか。それにカミルさんは男、ですよ?」  その通りだ。俺はベータだから愛人にすらなれない。なのになぜ、この男は俺が『運命』であると確信しているんだ?   アルファの本能に刻まれているものなのだろうか。  そんなもの、理解したくもないし迷惑極まりない。そういう事はアルファとオメガの間だけでやっていてほしい。そう思うのに、身体がいうことをきかなくて自分の無力さに腹立たしさを感じた。  ノエルはサーシャを睨み付け、低い声で威嚇するように言った。 「邪魔をするな、と言っているんだが?」 「ですけど、明らかに嫌がっているカミルさんを放っておくことはできません」  ノエルの、怒りをはらんだ声に俺は身体が震えて動けなくなるというのに。サーシャはそんなの気にするそぶりもなくこちらに近づいてくる。  なんだんなだあいつは。アルファ、なのか?  アルファもオメガもわかっていないことだらけで、判別法が確立していないことが悔やまれる。  ノエルだって両親共に男性であるからアルファだとわかるが、そうではない場合もあるらしくどうしようもない。  ノエルはいぶかしげな顔になる。俺から手を離すと、ゆっくりとサーシャの方に近づいていった。  やっと解放されたものの、俺はあの声のせいか動くことができず、その場にへたり込んでしまった。  息が苦しくて、頭もくらくらしている。  俺はぼんやりとノエルの背中を見つめた。 「なぜお前は平気なんだ?」  サーシャに迫りながら、ノエルが声を荒げる。  その声を聴いただけで俺は身がすくんでしまう。 「何が、ですか?」  ノエルとは対照的に、わけがわからない、といったサーシャの声。 「声だよ。俺の声を聞いてなぜお前は何ともないんだ?」  あぁやはり、あの声はわざと出しているのか。ということはアルファ特有の声なのは間違いないらしい。 「アルファのこの声が通じない、ということはお前、アルファなのか?」 「あるふぁ……? え?」  意味が分からないらしいサーシャは、首を傾げてノエルを見つめる。  あぁそうか。アルファやオメガというものの存在について研究が進んできたのはここ十年ほどだ。だからその存在について知らない者もいるということか。  それを考えるとサーシャの反応はいたって普通なのだが、ノエルはそんなことに気が回らないようだった。

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