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第4話 花に嵐

「なあ、香村! 山川さんと付き合ってるってガチ!?」  座席についた途端、名前も覚えていない同級生が寄ってきて、もう何回聞かれたかわからない質問を投げ掛けられる。  内心溜息が出そうになるのをこらえながら、あぁうんまあね、と笑う。  一体この質問は何回目だろうか。大体お前は誰だ。何で俺の名前を知っているのか。というか質問するくらいならまずお前の名前を名乗れ。何で勝手に友だちみたいに声掛けてきてんだ。  そう言ってやりたい気持ちをぐっと腹の底まで沈めて、当たり障りないように答えるのが、最近の日課になった。璃空が隣にいる時は来ないのに、璃空がいない講義の時を狙って声を掛けてくるから、なお質が悪い。 「どうやってあの高嶺の山川さんと!? もしかして香村が告ったのか!?」  ただ確かめたいだけで、多分悪気はないんだろう。  でもこういう場合、それがかえって疲れる。  そもそもだ。どっちが告ったかなんて第三者には関係ないことだし、それを知ったからといって利点があるわけでもない。なのに、どうしてみんな同じようなことを聞いてくるのだろう。いや、まあそれを話のネタとして持っていたい、という野次馬精神なんだろうが。  山川さんが告って来たと言えば、また何か言われるような気がしているから、とりあえず自分が告ったことを否定しないことにしている。そうすれば大抵、お前も隅に置けないやつだな~、なんて言われてその話題は終了する。  これでどうにか乗り切っているが、もうそろそろ限界だ。 「あ、先生来たぞ~」 「やべっ! また詳しく教えてくれよな!」  講義の教授が入ってこりゃ幸いと教えてやれば、名前も知らない同級生はさっさと自分の席に戻っていってくれる。  誰が教えるかよ! 友達でもなんでもないだろ、俺たちは! 大体お前は誰だ!  そう叫んでやりたい。  こういう事態になってから、出入口に一番近い席に座っている。こうすれば講義が終わった途端に、姿をくらませられるからだ。璃空が一緒の講義では、お気に入りの窓際の席に座れるが。  ふーっと息を吐きながら、リュックの中から筆記具とルーズリーフ、提出予定のレポートを取り出す。  あと三日で夏休みだ。本当にこの時期でよかったと心底思う。  結論から言えば、俺は山川さんと恋人になった。  そろそろ一か月が経とうというところだ。  今の自分には山川さんに対する恋愛感情はないこと。  それでも良ければ恋人になってもいいこと。  でも好きになる努力はすること。嫌がることはしないこと。  それらを彼女に隠すことなくあの日に伝えた。こんなことを言えばさすがの山川さんも冷めるかもな、と思った俺とは裏腹に彼女は、それでも構わない、と言った。  なので晴れて恋人になったわけだが。  これと言って恋人らしいことはしていない。  メッセージのやり取りもほとんどしないし、デートなんてしたこともない。キスなんてもってのほかだ。二、三回くらいは一緒に帰ったことがあるが、手をつなぎもしなかった。  果たしてこれで付き合っている、と言えるのか。  何もかも初めてで、恋人らしい付き合い方がよくわからない。  それよりも、と講義を聞きながら思う。  様子が少し変な璃空の方が気になる。  きちんと言葉にしようと思うと難しいのだが、少しだけ距離を感じるのだ。  物理的な意味でも、友だち的な意味でも。  横並びで座っている時に、前はほとんどなかった隙間が、拳二つ分くらい開くようになった。遊びに誘うと、断られる。なのに縁も一緒だ、と言うと、了承してくれたりする。  最初は俺に遠慮しているのかと思ったが、二人きりになるのを意図的に避けているような気がしてきた。璃空自身がバイだと公言しているから、山川さんに気を遣っているのかもしれない、と考えもしたが、本当のところはよくわからない。  そういう話をしようとすると、何故だかいつも話を逸らされているから。  ヴヴ、と太ももに伝わってきた振動。  もしかして璃空だろうか。  教授に見つからないように、こっそりポケットからスマホを取り出した。画面のポップアップには、山川想実、と表示されている。なんだ山川さんか。そう思いながら開くと、一緒に帰らないか、というお誘いだった。お伺いを立てるような可愛い犬のイラストのスタンプも添えられている。この犬ちょっと璃空に似てるなぁ。小さく漏れた笑いを零して、了解の旨を伝えるスタンプを送り返しておく。  先月まではあんなに稼働していた璃空とのトーク画面は、今ではほとんど動かない。通知だって璃空が埋め尽くしていたのに、今ではすっかり沈黙している。それが淋しいと思うのは、俺の我儘だろうか。  もう一度スマホをポケットに入れなおして、窓の外を見る。  今日も晴天だ。天気予報によれば、最高気温は人の体温とほぼ同じの36℃。空には入道雲もある。  なのに、俺の胸の内は梅雨空になったみたいにすっきりしない。  いつも通りの夏、なんて思っていた梅雨頃の俺に、教えてやりたい。  お前は今年恋人が出来たのに、何となくどんよりした夏休みを送ることになりそうだぞ、と。 ***  昼の学食は、予想通り凄く混んでいた。  どうにか日替わりランチCセットをモノにした俺は、きょろきょろと辺りを見回す。  窓際の席に目を向けると、目当ての人物をやっと見つけることが出来た。人の間をすり抜けてそこにたどり着く前に、顔を上げた縁がにぱっと笑いかけてくれる。 「席取ってくれてありがとな、縁」 「全然。2限が早く終わってくれたから」  どうぞ、と目の前の荷物をどかしてくれた。俺がそこに座ると、きょろりと周りを見た縁が首を傾げる。 「あれ? 璃空は一緒じゃないの?」  びくっと肩が揺れる。あー、と言いながら割り箸を割った。 「今日は別の奴と食べるって断られた」  2限は別の講義を取っているけれど3限は同じだから、前までは昼休みは一緒に食べていた。そこに縁が混じったりすることもよくあることだったが、断られることは殆どなかったのに。  明らかに肩を落としてしまっていたのか、縁はムッと眉を寄せた。 「別の奴の名前聞いた?」 「いや、そこまでさすがに聞くのはどうかなってさ」  気にならないと言えば嘘になる。でもそこまで聞くのは、友だちにしてはやりすぎだと思ったのだ。璃空だって、時々は別の奴と食いたいだろう。避けられているかもしれない、という考えを頭の外に追い出して、味噌汁に口をつける。 「……本当にばかだよ、もう」 「えっ、ごめん。何て言った?」  縁がぼそりと小声で何か言ったようだったが、味噌汁うめぇ、なんて思っていた俺の耳には届かない。ううん、と首を横に振った縁が笑みを浮かべる。首を僅かに傾げながらもう一回味噌汁に口を付ける。 「それで、僕に聞きたいことって何?」  ごくん、と口の中に入っていた分の味噌汁を飲み込んでお椀を置く。箸もお椀の上に置いて、姿勢を正す。つられるようにして縁の背筋も伸びた。 「ごめん。こんなこと聞くのは失礼だって自覚があるから、先に謝っとく」 「えっ、う、うん。そんなに折り入ったことなの?」 「た、多分。それで……、俺が聞きたいのは」 「うん」  すうっと息を吸って吐き出して。腹を決めてゆっくりと口を開く。 「縁って恋人とどんな事する? あと、されて嫌なこととかあったら、教えてほしい。勿論、答えたくなければ答えなくていいから」  ぱち、ぱち。ゆっくりと縁の瞼が瞬かれて、少しの沈黙。ふっと息を零したのは、縁だった。かと思えば、握り拳を口元に当てて肩を揺らしている。 「……笑うな。自分でもバカなこと聞いてる自覚あるし恥ずかしいから」 「ふふっ、あはは。ごめんね。バカにしたんじゃないんだ。あまりにも洸ちゃんが初心だったから」 「はいはいどうせ俺は経験ゼロですよ。恋愛のれの字もわかんないような経験値ナシ男ですよ」  不貞腐れたように言えば、ごめんって、と笑いながら言われる。全く謝られている気がしない。確かにバカにしているわけではないだろうが、恥ずかしさは増すばかりだ。気を取り直して、箸を手に取って生姜焼きへ伸ばした。つやつやの汁が垂れないようにご飯に乗せるようにして、噛み付く。うん、おいしい。 「そりゃあ恋人だったら、手をつないだりとかキスしたりとかかなぁ」 「手を繋ぐとかキスって、自然としたくなるもの?」 「多くの場合はね」  じゃあ俺の場合はどうなんだろう。いまだに『好ましいとは思う』以上の感情を抱いていない。これじゃあ一生キスなんて出来そうにない。したくなる時なんて、今まで一回も感じたことがない。思うことと言えば、横顔きれいだな、くらいである。 「まあでも別にそれをしなきゃ恋人じゃないわけじゃないから。焦らなくていいと思うけど」 「でもこう……、さ。なんかあるじゃん」 「なんかって?」 「なんかだよ。このタイミング、って時」 「それが、したいな、って思った時かなって僕は思うけど」 「確かにそうか」 「うん」  妙に説得力がある。  じゃあもしもその雰囲気になったとして、俺は出来るだろうか。  例えば、あの夕暮れの教室で、璃空と縁がしてたみたいに。  ドクン、と心臓が変な音を立てる。ドキドキというよりも、少し不穏なそれ。よくわからなくて、胸に手を当ててみるが、もうすでに不穏の影はなく、いつも通りのリズムに戻っている。 「璃空には聞いてないの?」 「え、あぁ、一回聞いてみたんだけどな。でもその時の璃空が、ちょっと悲しそうっていうか、苦しそう? でさ。ごめん忘れてくれ、って切り上げちゃったんだよな」  その時の璃空の顔は、今でも鮮明に覚えている。見た瞬間に、やってしまった、と思った。傷付けてしまったと言えばいいのか、踏み込んではいけないところに踏み込んでしまったのが、すぐに分かったから。なかったことにして、すぐにゲームの話に変えたのだ。 「……そっか」  縁の声まで少し沈んだように聞こえて、咄嗟に謝る。 「ごめん。やっぱり聞くべきじゃなかったよな。聞けるの、お前と璃空くらいだから甘えちまった」 「あ、ううん! むしろ僕は洸ちゃんに頼ってもらえて嬉しいよ!」 「……うぅ、お前ホント良い奴だよ、縁。ありがとな」  思わず緩みそうになった涙腺を誤魔化すように、腕で顔を隠す。大げさだよ、と縁は朗らかに笑ってくれるのがまた救いだった。  もしかしたら璃空には、ドン引きされてしまったのかもしれない。こう考えれば、避けられてしまうのも頷ける。  縁に対してそうしたように、ちゃんと前置きしてから聞けば、また違ったかもしれない。なんでも話せる相手だから、と突然直球で聞いてしまったのはマズかったと思う。三限の時に時間があったら、ちゃんと謝るべきだろう。 「ね、洸ちゃん。ちょっとだけアドバイスしていい?」 「ん、うん! 頼む!」  再開していた食事をいったん止めて、縁を見る。  縁は真剣な顔で、びしっと人差し指を吐き出してくる。 「キスは絶対に、洸ちゃんが本当に相手のこと好きだなって思った時にしなね。あと、嫌なことは本人に聞いてみるのが一番いいよ。最後に、一時の感情に流されて後悔しないように、ちゃんと話すこと。わかった?」 「――――わかった」    神妙に頷けば、よかった、とまたいつも通りの笑みを浮かべた縁。  本当にいい友だちを持ったと思う。適当にすればいいよ、なんていう奴じゃなくて本当に良かった。こんなに真剣に考えてくれるのだから。  本当は、璃空からも何かアドバイスがもらえたらよかったけれど。  これ以上璃空を困らせないようにしよう。  そんなことを考えなら、淋しいと思う気持ちを日替わりランチCセットと一緒に、腹に落とし込んだ。 ***  3限の講義室に入ると、いつもの席に既に座っている璃空の背中が見えた。  広い講義室の中の真ん中の列の左端窓際。  その席に座る璃空は、頬杖をついて窓の外を眺めていて、俺が来たことにも気付いていない。緩んだ頬のまま、そろりそろりと近寄って、ポンと肩を叩く。  璃空にしては珍しく驚いたように体を揺らして、勢いよく振り返ってきた。  よっ、と手をあげる。璃空は笑ってくれたけれど、どこかぎこちない。やっぱり俺が璃空が不快になるようなことを、何かしてしまったのかもしれない。思いつくことと言えば、恋人に対してすることを無闇に聞いてしまったことくらいだ。 「隣、いいか?」  一応お伺いを立てれば、もちろん、と言った璃空が荷物を逆側に置いてくれる。完全に拒絶されてはいないのが分かって、ホッとしながらその席に腰を下ろす。それから、静かに息を吸った。 「璃空、この前は突然変な事聞いてごめん。気分悪くしたよな」  謝るのは早いほうが良い、と母から口酸っぱく言われてる俺は、すぐさま言葉にして璃空を見る。目をまん丸にした璃空は、こてんと首を傾げた。 「何の話?」 「この前何の前置きもなく、恋人同士ですることについて聞いただろ? それの事。今考えたら失礼だったよなって」 「あ、あぁ、うん」  どっちともつかない曖昧な返事が返ってくる。  もしかしてそれではなかったのか? そう思ったのだけれど、少し呆けていた璃空が、いつも通りの笑みを浮かべて、なんてことないように言った。 「あれね。全然気にしてないよ。俺こそなんか気ぃ使わせたみたいで悪い」  璃空の言葉を頭で反芻する。  全然気にしてないよ? じゃあどうして俺のこと避けてるんだ。  避けてないとは言わせない。遊びに誘っても全部断る。いつも一緒に食べていたのに、一緒にご飯を食べようと誘っても何か理由を付けて断られる。避けている以外のなんだというのか。  上手く言葉がまとまらない。ぐっと唇を嚙み締めた。  そんな俺の気も知らずに、璃空はまるで壁を作るみたいに俺側の右腕で頬杖をついて、講義室の教壇へ顔を向けている。  俺たちの間に出来た溝は、思っていたよりもずっとずっと深い、と思わせるそれ。  一度出来てしまった溝は、簡単には埋まらない。零れてしまった水が元に戻らないのと同じように、新しい物で修復するしかない。でもそれにも、どうして避けられているのか知らなければ、俺が出来ることはない。せめて理由だけでも知りたかった。  璃空にぶつけてやろうと思った言葉は、タイミング悪く本鈴に遮られて口を閉じるしかなかった。この講義の教授は、私語を絶対に許さないタイプだったから。  もやもやとした物を抱えたまま、教授の言葉に意識を向ける。  90分という時間がこんなにも長く感じたのは、今日が初めてだった。何度も時計を見ては、小さく息を吐く。  それを何回繰り返したか分からなくなるくらい沢山した頃。   「少し早いが、今日はここまで。夏休みだからといって羽目を外しすぎないように」  本鈴がなる前に終わった講義。他の学生が沸き立つ中で、すぐさま璃空を見る。璃空は笑ってはいなかった。黙々と筆記具と教科書をリュックに詰めて、さっさと立ち上がったのだ。 「じゃあ俺この後バイトだから。またな、洸」 「っ、待ってくれ、璃空」  身を翻そうとした璃空のリュックの紐を思わず掴む。見上げた顔には、やはりいつものような笑みはない。張り付けたような薄っぺらい笑みが、俺を見下ろしていた。立ち入らせないと言わんばかりの、嘘くさい笑み。ぐっと奥歯を噛む。でも俺だってこのまま有耶無耶にするなんて絶対に嫌だった。 「……もう一つ聞きたいことがあるんだ。頼む」  ここで引き下がってしまったらもう二度と聞けない気がして、食い下がる。ふっと小さく息を落とした璃空が、ゆっくりと体を俺に向けた。眉を下げて困ったように、璃空は問うてきた。 「何が聞きたいの?」  凪いだ声だった。いつだって何かしらの感情が乗っている璃空の声を、こんなに虚無に感じだのは初めてで、少しだけ怖気づく。からからになった喉でありったけの唾液を集めて飲み込んで、ゆっくりと口を開く。 「お前最近俺のこと避けてるよな? 俺、お前が嫌がるようなこと、なんかしたか?」  璃空は何も言わなかった。胸の内の不安がどんどんと大きさを増していく。 「考えても思いつかないんだ。でもお前にとって嫌なことをしたなら謝りたいし、このままずっと避けられるのは嫌だから、避けてる理由を教えてほしい」  勝手に回る口に任せた。沈黙が痛い。でも目を逸らさずにじっと璃空を見つめ続ける。ゆらゆらと璃空の瞳が左右に揺れていた。すぅっとその瞳が瞼に隠れて見えなくなって、三日月を描く。 「ははっ、そんなことないよ。洸の気のせいだって」  気のせい? カッと腹の底が沸騰する。その熱が全身を巡った。  そんなわけないだろう。俺が気付かないとでも思っているのか。どれだけお前と一緒にいたと思ってるんだ。そんな嘘が通用するほど、俺はバカじゃない。  湧き上がってきた怒りを、そのまま口から出した。 「気のせいって何だそれ。じゃあなんで講義以外で俺と会うの避けるんだ?」  目を逸らしたのは、璃空の方だった。  ほらみろ。やっぱりそうなんじゃないか。  喉の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを無視して、立ち上がりながら手を伸ばす。 「今だってそうだ。何か理由がなきゃそんなことしないだろ、……ッ!」  あと少しで掴めそうだった璃空の服。それを、パシッという音と痛みで遮られた。俺の手を璃空が払ったから。  じんじん、と手のひらが痛み始めたのを頭の片隅で認識しながら、俺は璃空を見つめた。見つめることしかできなかった。そんなことをされたのは初めてだったし、純粋に驚いたから。  咄嗟の反応だったのだろう。璃空も驚いたような顔をしていた。でも状況を理解した途端、くしゃりと璃空の顔が歪んだ。  痛いのは俺の方のはずなのに。それ以上に痛そうで傷付いたような顔だった。  なんでお前がそんな顔するんだよ。  そう聞いてやりたいのに、言葉が出てこない。喉のもっと奥が痛かった。 「ごめん」  ぽつりと璃空が言って、顔を背けられた。前髪の所為で、苦しそうに歪んでいる口元しか見ることが出来ない。 「ごめん、本当に洸は何も悪くないよ。全部、俺の問題なんだ。本当にごめん」  何度も謝った璃空は、動けないままの俺を置いて、身を翻してしまった。  謝ったとき、璃空はどんな顔をしていたのだろう。  そんなことをぼんやりと考えて、俺は突っ立っていた。  ポケットのスマホが振動して、やっと我に返る。取り出して見た画面には、山川さんの『図書館の近くのコンビニで待ってる』というメッセージが表示されていた。  ふーっと息を吐いて、顔を上げる。出しっぱなしになっていた筆記具と教材をリュックに押し込んで、俺もまたその場を後にしたのだった。 ***  シャワシャワと蝉が鳴いて、全身を刺すような陽光が降り注いでいる。  日傘を差して足早に歩いていく人たち。その姿を日陰からぼんやりと眺める。キャップを被ってこなかったら俺の頭は完全に焦げてたな、なんてどうでも良いことを考えながら、ぽたと汗が零れ落ちるのをそのままに、壁に体を預けたまま待ちぼうけだ。  晴天の下、夏休み真っ盛り。  でも俺の心は、どんよりとしたままだった。  璃空とは、あれから会っていない。結局会う前に夏休みに入ってしまったから。  どうしてこうなってしまったのか、何度も考えたけれど分からなかった。そもそも理由もよく分からないし、璃空からも『洸は悪くない』と言われている。けれど、あんな傷付いた顔をしていて、俺は悪くない、なんてことあり得ないだろう。  手を振り払うのは拒絶の意思のように思えて、連絡するのは気が引けた。  これ以上煩わせたら、本当に俺たちの間に空いた距離がより大きく深く、修復不可能になりかねない。冷却期間みたいなものが必要だ、と自分自身に言い聞かせる。そうは思っても、気分は沈んでいくばかりだ。  嗚呼まただ、と思う。頭が焦げるかも、みたいなバカみたいな事を考えていないと、また此処に思考が戻ってきてしまうのだ。はあ、と何度吐いたか分からない溜息を吐いた。 「洸くん」  いつの間にか下げていた頭を、ぱっと上げる。  山川さんが少し眉を下げて立っていた。いつもと変わらない、Tシャツにジーンズスタイルで、今日は珍しく紺のキャップを被っていた。涼しげに見えるけれど、山川さんのこめかみは汗でしっとりと髪が貼り付いていて、彼女でも暑いんだなぁと思う。 「早いね。ごめん、待たせちゃったかな」 「大丈夫。俺が早く着いちゃっただけだから」  半分本当で、半分嘘だ。  家にいても同じことを考えてしまうから。さっさと準備を済ませて随分早くに外に出てきただけ。つまり完全に俺の都合である。待ち合わせは10時で、今の時間は10時の5分前。謝る必要なんてどこにもない。 「とりあえず、中に入ろっか。中の方が涼しそうだし!」  そんな俺に笑いながら、うん、と頷いた山川さんと並んで、建物の中に入る。  今日が最終日というアクアリウム展。こういう所に来るのは初めてだ。  誘ってきたのは、山川さんの方だった。 ――アクアリウム展のチケットが二枚あるんだけど、明日が最終日なの。よかったら一緒に行かない?  昨日突然そんなメッセージが来たのだ。バイトも入ってなかった俺は、二つ返事で行くことに決めた。理由は、家にいても以下略。  予想通り会場の中は冷房をかなり効かせているらしく、天国みたいに涼しい。熱帯魚や金魚を大きな水槽に入れて展示するのだから、温度管理をしているのは当然と言えば当然なのだけれど。ほっと息を吐きながら、キャップ帽を取ってぱたぱたと仰ぐ。山川さんはキャップを付けたまま、斜めにかけたサコッシュを探ると、長方形の紙を差し出してきた。 「これ、洸くんの分」 「ありがと。チケット代いくら? 払うよ」 「もともと貰ったやつだから要らないよ。ありがと」  そうなのかと受け取ったチケットを見る。確かに前売り分のチケットだ。ふとみた日付は、二か月ほど前の日付になっていた。  他に一緒に行きたい人はいなかったのかな。そんなことを思いつつも、自分が今恋人という立場であることを思い出す。一緒に行きたい、と思ってくれたのだろうか。それだったら、ちょっと嬉しかった。もしも恋人という立場じゃなくても、一緒に行きたいと思ってもらえるのは嬉しいものなのだ。    外からでは分からなかったけれど、展示スペースは随分と広く見えた。  いくつも並ぶ大きな水槽。空間を贅沢に使って、装飾で遊び心も出しつつ、泳いでいる熱帯魚や金魚が一番美しく見えるようにされている。少なくとも俺はそう感じた。  誘ってもらった上に一人で満喫していることに気づいて、咄嗟に山川さんを見る。  彼女も楽しんでるだろうか、と思ったのに。  山川さんは水槽を見てはいなかった。そもそも体が水槽に向いていない。  視線を追いかけて後ろを向けば、そこには一組の男女がいる。手を繋いですごく仲が良さそうに笑い合う二人。男性の方は顔が見えないけれど、女性の方は見覚えがあった。  山川さんがよく一緒にいる女子だ。名前は確か、磯貝七海(いそがいななみ)、だったと思う。  もう一度見た山川さんの顔。ほとんどがキャップに隠れて見えない。  でも、口元だけははっきり見えた。苦しげに歪んだそれ。  あの時の璃空と全く一緒だった。 「想実さん」  初めて彼女を名前を呼んだ。バッと空気が揺れるほど勢いよく山川さんが俺を見た。  その瞳は、今にも泣いてしまいそうなほど潤んでいる。  璃空も、もしかしたらこんな顔をしていたんだろうか。そんなことを頭の片隅で思った。  ふっと笑って、その手を差し出す。 「ちょっと座って休もうか」  友だちらしく結ばれた手を引いて歩く。  俺はその時、唐突に理解した。  山川さんが告白してきたときに抱いた違和感の理由を。  彼女は『香村くんの恋人にしてほしい』とは言ったけれど『香村くんが好きです』とは言わなかった。その時は気付かなかった小さなことが、今は大事なことだったと気付く。  本当は、山川さんは俺のことが好きで恋人になってほしかったわけではない、と。  そして、本当は磯貝さんとこのアクアリウム展に来たかったのだ、と。  俺は理解してしまった。そうすればすべてに辻褄が合うから。  チケットが余っていた理由は分からない。もしかしたら山川さんが買ったけれど、磯貝さんが彼氏が取ってくれたから、と断ったのかもしれないし、買ったのは磯貝さんだったかもしれない。  多分山川さんは、今日磯貝さんが此処に行くことを知っていて、だから俺を誘ったのだろう。よく見ないと分からないようにキャップを被っているのも、そのせいだろう。  すん、と聞こえた鼻を啜る音は聞こえないふりをして、俺はとにかくソファのある場所まで歩いた。  会場の一角にある休憩スペースの背凭れがないソファに、山川さんを座らせてから、ハンドタオルをボディバックから取り出して、彼女に差し出した。 「飲み物買ってくるから、此処にいて」  タオルを受け取りながら山川さんがこくりと頷く。なんかデジャヴだなぁ、と緩んだ頬。  彼女の顔がキャップのツバに隠れていてよかった。見られていたらノンデリと思われてしまったかもしれない。  とにかく、と気持ちを切り替えてトイレの近くに設置されている自販機に向かった。コンビニよりずいぶん高ぇなぁ。思いつつ水を一本買って、彼女の元に戻る。 「落ち着いた?」 「……うん。ごめん。洸くんには迷惑かけてばっかりだね」 「気にしないでいいよ」  一度言葉を切って、もう一度息を吸う。 「それよりも聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」  うん、と弱弱しい声が返ってくる。これを聞くことは、もしかしたら彼女に追い打ちをかけてしまうかもしれない。でも俺はたどり着いた一つの仮説を、確かめずにはいられなかった。 「想実さん、俺とキスとかできるくらい、俺のこと好き?」  勢いよく顔を上げた山川さんの瞳と目が合う。  ゆらゆらと所在なさげに揺れる瞳に、答えは聞かずとも分かった。ふっと漏れた笑い。どんな感情でそれが出たのか、俺自身にも分からなかった。 「答えなくてもいいんだ。違うって、何となくわかるから」  山川さんの唇が震えた。何か言おうとして、言えなくて、何度も開いたり閉じたりしているのを見ながら、腹を決める。もう一度息を吸ってまっすぐ彼女を見つめた。彼女の瞳に映った自分は、泣きそうな笑みを浮かべていたのを、他人事のように見た。 「想実さん。俺たち、別れよう」    真っ赤なルージュの唇を噛んだ山川さんが、下を向いた。  彼女の言葉をじっと待つ。 「ペアワークした時、」  不意に山川さんから小さな声が聞こえた。ん? と彼女の顔が見えるようにしゃがむ。下から見上げた彼女の瞳には、やっぱり涙がいっぱい溜まっていた。 「哲学の講義で、ペアワークした時、洸くんのこと、良い人だなって思ったの」  先を促すように相槌を打つ。正直自分が『良い人』なのかは分からない。でもそう思って貰えたのは、嬉しいと素直に思う。 「この人だったら、もしかしたら、って思った。私の中の、一生実らない彼女への想いを、忘れられるんじゃないかって。でもっ、私の都合の良い、甘い考えだったって、思い知った」  今にも泣きだしそうな顔で笑う山川さんに、そうだろうな、と思う。  誰も、誰かの代わりにはなれない。自分はたった一人しかいないし、同じようにその人も一人しかいない。  誰かを好きになったとして、その誰かが手の届かない人だった時。  人によっては手を届かす努力をするけれど、多くの人は様々な方法で忘れようとする。  別の何かをもっと好きになる。別の何かに没頭する。でも結局のところ、それは気休めにすぎない。出来ることは、その思いが小さくなるのをじっと待つことか、無理矢理その思いを捨てるかだ。  話を嚙み砕くと、山川さんは磯貝さんのことが好きで、俺と恋人になることでその思いを捨てようとした、ということだろう。『彼女にしてください』ではなく『恋人になってください』と言ったこと、『好きです』と言われなかったことが、その証左だと言っていい。 「ごめんなさい。洸くんを私の我儘に付き合わせた。振り回すだけ振り回して、挙句の果てに嫌なことまで言わせてっ……、本当に、本当にごめんなさい」  また溢れそうになっている涙を、山川さんは意地で止めている。これ以上みっともないところを見せたくない、という彼女なりのプライドだろうか。  小さく息を零すように笑って、彼女をしっかりと見つめる。 「山川さんに告白されたとき俺も浮かれたし、嬉しかった。このまま全部を何もなかったように終わらせるのは難しい。だから、代わりのものを要求することにするよ」  彼女の目が不安げに揺れる。でもその瞳は確かな覚悟があった。彼女なりのケジメの着け方なのだと思う。勿論変なものを要求するつもりはないから、そんな顔しなくてもいいのだけれど。  ほんの少しの仕返しを込めて、勿体ぶってから手を差し出して笑う。 「俺と友だちになって。そんで、時々でいいから、悩みとか愚痴とか相談させてよ。それで全部チャラにする!」  ぱち、ぱち、とゆっくりとした瞬きを数度繰り返してから、山川さんは声を上げて笑った。そういうお人好な所があの子にそっくり、と言ってまた涙ぐんでしまった彼女に、今度は俺が笑う番だった。  こうして人生初の恋人は、唐突に、そして呆気なく、友だちへと早変わりしてしまった。  だけれど、後悔はない。むしろ清々しかった。  彼女の本心が聞けたし、告白された時から感じていた疑問にちゃんと答えを貰えた。有耶無耶のまま過ごすよりも、ずっと良いことだ。  本気で好きになる前で良かった、とも思う。もしも本気になっていたら、と考えると寒気がする。本気になってからこの事実を知った時、何をしでかすか俺自身解らない。  とにかく幸いだったと思う。  会場を出る頃には、山川さんも吹っ切れた顔をしていた。  ハンドタオルは必ず洗って返すから、と半ば無理矢理持って帰られてしまったが、まあ次に会う口実にもなる。今度は友だちとして話せたら嬉しい。  行き交う人の間をすり抜けながら、ふと思う。  なんだかパーッと騒ぎたい気分だ。  璃空と縁のグループトークに連絡を入れたら、彼らは来てくれるだろうか。璃空はもしかしたらバイトかもしれないけれど、縁なら来てくれそうな気もする。 ――何かあったら連絡して、すぐに飛んでいくから。  いつだったか、そう言ってくれた縁のことを思い出して、すぐさま取り出したスマホ。トーク画面を開いて早速文面を打ち込んで、送信ボタンを押した。  ***  昼下がり。やっすいドリンクバーが利用できるファミレス。  そんな場所で、僕は璃空を睨みつけていた。目の前に座る彼は、素知らぬ顔でアイスカフェオレをストローでゆるゆると掻き回している。 「洸ちゃんのこと、避けてるんだって?」  わざとキツイ言葉を投げてやる。何か心当たりがあったのか、僅かに肩を揺らしたのが見えた。  僕に対して、だんまりなんて絶対にさせないんだからな。 「だから、僕いいのって聞いたよね? それで? いざ洸ちゃんに恋人が出来たら? 隣にいることも怖くなって? 洸ちゃんのことを避けてるって? 挙句の果てに? 追及されるのが怖くて手を叩いた? 馬鹿じゃないの」  グサグサと胸に刺さるような言葉を投げかければ、うっ、という情けない小さな声が聞こえた。  こういうのは優しく言っても無駄なのだ。本当は僕だって、優しい言葉を掛けてあげたい。でも、璃空の態度はあんまりだ。いや、確かに避けたくなる気持ちはわかる。わかるけれど、それは気付かれない程度にやるべきものであって、あからさまに態度に出すのは最低だ。それで洸ちゃんが傷付いているのなら、なおさら最低としか言いようがない。 「璃空、いったよね? 洸ちゃんが嬉しそうなら良いって。洸ちゃんにとって、璃空は大事な友だちなのに、大事な友だちに理由もわからないまま避けられて、嬉しいって思う人がいると思う? 思わないよね? それを璃空はやってるわけ。わかる?」  げしっとテーブルの下の璃空の足を蹴る。いたい、と言った璃空なんて知らない。痛いのは、間違いなく洸ちゃんの方だ。 「バカ璃空! こんなことになるならどうして洸ちゃんのこと止めなかったんだよ! カッコつけて『付き合ってから、だんだん好きになる事だってあるんだよ』とか、どの口がいってんだよばかばかばか!」  なるべく声を抑えてゲシッ、ゲシッ、と足を蹴っても、何も言い返せないらしい璃空はその体を小さくするだけだ。  はあ、と溜息を吐いて、僕もアイスカフェオレに口を付ける。  できないなら最初からやらなきゃいい、とは思うけど、きっと璃空はちゃんとそれを出来ると思っていたのだと思う。何故なら、璃空は感情を隠すのが上手だから。そうでなければ、もっと前に洸ちゃんに本心がバレていたはずだから。でも今日の今日まで璃空の想いは全くと言っていいほど、洸ちゃんに伝わってない。こんなに大好きで仕方ないのに、だ。そこは素直にすごいと思うし、璃空の覚悟を感じる。  だけど、だ。  自分の心を無意識に吐露するのが怖くて避けてる、なんて。  本末転倒にもほどがある。  はあ、ともう一度溜息を零したのと、ヴヴ、とスマートフォンが振動したのは同時。こんな時に一体誰なんだまだまだ璃空に説教したりないのに、と思いながら見た画面。  洸ちゃんからだった。 「……璃空、今日夜も空いてるよね?」 「え、あぁ、うん。空いてるけど。……なんで?」 「洸ちゃんから飲みのお誘い来たんだけど、勿論、行くよね?」 「え……、いや俺は、」 「行 く よ ね?」  絶っっ対に逃がしてやらないし引き摺ってでも連れてってやる、という気持ちが伝わったのか、、ハイ、としょんもりした声が返ってきた。  早速『璃空も一緒だから連れてくね~!』と送っておく。すぐ既読がついて『りょ!』と書かれたよくわからないキャラクターのスタンプが返ってきた。    そう遠くない未来に、僕はこの時の自分を大声で褒めてやりたくなるのだけれど、それはまた別の話である。

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