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第5話 雲に汁

 大丈夫だと思っていた。いつも通りに出来ると思っていた。  もともと自分のことを偽るのも隠すのも得意だ。  いつも通りに『友だち』として洸の傍に居ればいい。初恋に縛られていた時の俺は、自分の本心が漏れださないように四六時中意識していたし、その時に比べれば洸といる時間は少ない。その時間だけ自分を偽ればいい。簡単なことだと高を括った。  なのに、出来なかった。  いつも通りに、と頭ではわかっているのに、いざ行動に移そうとすると、うまく立ち回れなかった。洸と一緒にいると、洸が恋人の話をしたわけではないのに、恋人の影が頭にちらつく。  その度に自分の本心が、嫌だ、と喚いた挙句の果てに、喉を締め付けられるような感覚が襲って苦しくなる。そうなると何も言えなくなって、笑顔でいることも難しくなる。  俺の方が洸をすきなのに。俺の方が洸を先に知ったのに。  俺の方が洸のこと分かってるのに。  俺のことを、俺だけを見てよ。俺をすきになってよ。  そんな言葉たちが頭に浮かんでは消えていく。  ヤバイ、と思った。  どうにかして隠しきらないといけなかった。この自分の声が漏れだしてしまったら、ろくでもないことを口走ってしまうと確信があった。よかったじゃん、と言った舌の根も乾かない内に、そんな女子なんてやめて俺にしてよ、と言ってしまいそうで怖かった。  そんなことを言ってしまったら、想いを隠してまで傍にいる為にしてきた、今までの努力がすべて無駄になる。絶対にそれだけは避けなければ。  避ける方法を考え抜いて、俺に出来たことと言えば、洸と距離を取る事だった。  ずっと距離を取るわけじゃない。ほんの少し、自分の胸の内の嵐のような想いが収まるまでだ。物理的に洸といる時間を少なくすればマシになると思った。  講義中は余計なことを考えなくて済んだから良かった。  でもいつボロが出るか分からなかったから、極力二人きりになる事を避けていた。  それを、洸は見逃しはしなかった。  逃げるように講義室を出ようとした俺を、逃がしてはくれなかった。リュックの紐を掴んで、俺を真っ直ぐに射抜いてきた。不安げなのに、確信がある光を持った目。そして、洸は言った。 「お前最近俺のこと避けてるよな? 俺、お前が嫌がるようなこと、なんかしたか?」  何も、言えなかった。薄っぺらい笑みに隠して思ったのは、それ以上何も言わないでくれ、なんていうなんとも情けないことだった。  洸は何もしてない。ただただ俺が悪いだけなのに。  こんなふうに不安にさせて、何が友だちなんだ。嫌なことをしたのなら直したい、と言ってくれる洸の優しさを無下にして、ただただ逃げるだけの俺。情けなくて仕方なかった。  だとしても正直に言えるはずもなかった。俺のことを好きになって、なんてどの口が言うんだ。  とりあえず、何か言わないと。取り繕わないと。もうこれ以上、洸が悲しまないように。  この時に、お前のせいじゃない、と素直に言ってやればよかったのに、俺の頭はもう半分回らなくなっていて、嘘に嘘を重ねるしか能がなかった。  気のせい、なんて。  絶対に洸が納得するわけないと、普段の俺ならすぐ理解できたはずなのに。 「気のせいって何だそれ。じゃあなんで講義以外で俺と会うの避けるんだ?」  めったに怒らない洸が怒りを滲ませた。やってしまった、と思った時には、目を逸らしていた。それが何よりの肯定になるのに、そんなことすら頭が回らないほど、気が動転していた。  これ以上胸の内を覗かれたら、洸はたどり着いてしまう。  絶対に隠しきらなければいけない本音に、触れられてしまう。  もう覗かないでくれ。見ないふりをしてくれ。  頼むから。  これ以上、俺の心を暴かないで。     限界だった。気付いた時には、俺に向かって伸ばされた洸の手を払っていた。   違う。こんなことするつもりだったんじゃないんだ。ごめん。傷つけてごめん。でも、ダメなんた。今の俺は、洸とまともに話せる自信がないんだ。 「ごめん、本当に洸は何も悪くないよ。全部、俺の問題なんだ。本当にごめん」  咄嗟に口を回して、逃げるようにその場から離れた。  胸が軋むように痛かった。握りつぶされてるみたいに、痛くて仕方なかった。  洸は追いかけてこなかった。それ以来、連絡もなかった。  当然だ。あんなことをして、自分勝手なことを言った奴に、どれだけ人が良い洸でも呆れるに決まっている。  本当に馬鹿なことをしたと思う。  友だちを取られたみたいで嫉妬してるんだ、とでも最初から茶化して伝えていれば、こんなことにはならなかった筈なのに。自分から連絡してみようか、と思ったけれど、いざトーク画面を開いたら、何も打ち込めずに画面を閉じる、という繰り返しだった。  連絡も取らず、会えないまま夏休みに突入した。  淋しいと思う反面、洸に会わなくていいと思うとホッとしている自分に気付いて、また自己嫌悪に陥った。でもしばらく会わなくていいのは、俺にとっても良いことだと考えるようにした。今度こそ、ちゃんと振舞えるように準備が出来ると思ったから。  なのに。  一体全体どうしてこんなことになっているんだ。 「かんぱーい!」  掘り炬燵の向こう側。  ハイボールのジョッキを持っている洸と、その隣でビールジョッキを掲げている縁。そして、ジンジャエールのジョッキを持った俺。頬を引き攣らせている俺に構うことなく、二人はジョッキ同士を軽くぶつけて一気に煽っている。 「ごめんなぁ、急に呼びつけて」 「いいのいいの! 僕も璃空もファミレスで駄弁ってただけだし」 「うううお前の優しさにカンパイ」  ちん、とまたジョッキをぶつけている。  もう酔っているのか、洸の頬はすでに少し赤い。  もしかして俺たちが来る前から飲んでたのか、お前。  そう聞きたくなるが、洸が羽目を外すことは余程ない。誕生日が来てすでに二十歳になっている二人とは違い、俺はまだアルコールを飲むことができない。でもかえって良かったかもしれない。もしも酔いつぶれても介抱できるから。  こんなハイペースで飲んでいるなんて、何かあったんだろうか。 「洸ちゃんが飲みたい、なんて言うの珍しくてびっくりしたよ。何かあったの?」  俺が聞きたかったことを先に縁が聞いてくれた。グッジョブ、縁。 「ふっふっふ、聞きたいか?」 「うん、すごーーく聞きたい。ね、璃空。璃空もそうだよね?」  急に振られて、一瞬反応できなかった。え、と間の抜けた声を出してしまった俺を、洸と縁が見る。縁の目がほんの少し細められて、眉が中央に寄っているのを見て、すぐに肯定した。 「うん。聞きたい」  聞きたいのは本当だ。でも少し怖くもあった。洸が飲みたいなんて、本当に珍しいことなのだ。洸が酒を飲むのは付き合い程度で、母ちゃんが酒強いから、とは言っていたが、好んで酒を飲むようなタイプではない。だから何かよほどのことがあったんだと思うから。  妙に真剣な声になってしまった俺に、洸は満足げに笑う。  だよなぁ、なんて言う呂律がすでに怪しくなってきているのが気になるが、とりあえず洸に意識を向ける。  ふにゃっと柔らかく笑って、洸は言った。 「おれ、山川さんと、別れた!」  洸が何を言ったのか、一瞬頭で理解できなかった。  おれ やまかわさんと わかれた。  俺、山川さんと、別れた?  別れた? 別れたって、つまり。  ジョッキを持ったまま固まった俺より、早くハッと意識を戻した縁が、えっ、と戸惑いを含んだ声を出す。 「え、えっ? ちょっとまって? 別れた? つまり恋人じゃなくなったってこと?」 「うん」 「いつ!?」 「今日っていうか、さっき? だな。ただの友だちになった!」 「ちょっとまって急展開過ぎてついていけないんだけど…!?」  恋人じゃなくなった。山川さんと洸が。  つまり、洸の恋人という枠には、空席になっている、ということ。  その事実をやっと頭で理解して、はっ、と息が漏れた。心臓がどくどくと|五月蠅《うるさ》い。恋人と別れた、と聞いて喜ぶなんて、友だちとして最低だ。わかってる。でも自分の心は正直で『別れた』という事実が、こんなにも俺を喜ばせている。  これでもう、胸を引き裂かれるみたいに苦しくて、涙が出そうになるような切ない想いをしなくて済む。何にも煩わされずに、またいつも通りに洸の傍にいることができる。  思わず緩みかけた頬を隠すように、ジンジャエールを口に流し込んだ。 「とりあえず確認したいんだけど、経緯とか詳しく聞いても大丈夫な話?」 「おぅ、なんでも聞いていいぞ!」  縁の言葉を肯定するように、ドンッと洸が自身の胸を叩いて大きく頷いた。  ちらりと縁が俺を見る。俺は顔を見せないようにジョッキをまた煽る。今顔を見せたら、掘り炬燵の下で足を蹴られるのが分かっていたから。  ごほん、という咳払いの後、縁が問いかけた。 「どうして別れたの? 僕から見た二人は、仲良さそうに見えたし、喧嘩別れとかするような感じじゃなかったと思うんだけど」  洸はうーんと、と視線を斜め上に投げた。ぽつりぽつりと語った洸の話をまとめるとこうだ。  曰く。  山川さんは元々、洸に恋愛感情があったわけではなかったらしい。山川さんも別の人に恋をしていて、それを忘れたくて「恋人になってほしい」と申し出たという。  それってつまり、山川さんが洸を利用したってことじゃないのか?  認識したと同時に、ぐらりと腹から怒りが沸き上がった。  自分の事を棚に上げている自覚はある。でも、大事な人がぞんざいに扱われたら誰だってキレる。俺だって洸の恋人になりたいのに、その唯一の席に座ったのが、ただのカムフラージュだったなんて。許されて良いはずがない。  ジョッキを手が白くなるほど強く握り締めた俺とは裏腹に、洸はいつも通りの柔らかい笑顔を浮かべながら言った。 「まあ形だけ見たら貧乏くじ引いちゃった感じだけど、山川さんみたいな素敵な人がなんで俺に? って思ってたらから逆に納得して、スッキリしたから良かったと思っててさ」 「……洸ちゃんが納得してるならいいけどさぁ。僕だったら平手打ちの一発くらいしちゃうけどなぁ」  難しい顔をしてビールを一気飲みした縁。納得いかないのか、はぁ、と大きな溜息まで吐いている。タブレット端末で追加のアルコールを注文している所を見ると、もしかしたら俺以上に怒ってるのかもしれない。 「俺も良い経験になったし。そんなに山川さんのこと嫌わないであげてくれな。たった一ヶ月だったけど、根は優しくて友だち想いの良い子だってことは分かったし」 「んーー、洸ちゃんがそういうならそうなんだろうねぇ」 「それに俺のこと良い人って言ってくれたんだ。そんな事言ってもらえるなんて、人として光栄だろ?」  アルコールが入って余計にニコニコしている洸が、縁と肩を組む。可愛いな、と思ってしまうのは許して欲しい。無邪気に肩を組んで、トントンと縁の腕を叩くところまで可愛い。正直俺もされたい。ずるい。俺も早く酒が飲めるようになりたい。 「洸ちゃんが良い人なんて、今に始まった事じゃないの、僕たちは良ーーく知ってるよ。ね、璃空?」 「そうだな。洸は本当に良いやつだと思う」  今度は間髪入れずに肯定する。  知ってるに決まってる。あの高二の夏からずっと。  良い奴、なんて言葉では足りないほど、洸は根が優しくて、寛容で、人間的に本当に良くできた人だって、十二分に知っている。 「ははっ。二人ともありがとう」  照れ臭そうに笑った洸が、肩を組むのをやめて、ハイボールをグッと煽った。はーっ、と息を吐きながらジョッキを机に置くと、琥珀色の水面を見つめながら洸は言う。 「でも、良い人ってだけじゃダメなんだな、って思った」  ポツリと溢すような声が、その場に落ちる。  周りの声がうるさい筈なのに、洸の声はやけに真っ直ぐ俺の耳まで届いた。 「誰かの好きな人になるには、良い人ってだけじゃ、全然足りないんだなって思い知ったんだ」 「……洸ちゃん」  それは噛み締めるようでもあったし、洸には珍しい弱音のようにも聞こえた。  恋人になって欲しいと言われて付き合った後に、恋情はありませんでした、と言われた洸は、一体どんな気持ちだっただろう。  俺だったら暴れ散らしてやりたくなるほど辛い。なのに、洸はそれを淡々と受け入れたのだと思う。それは、彼女の事を本気で好きになる前だったから出来たのかもしれないけれど、だとしてももっと怒っても良い筈だ。  ふざけるなと大声を上げたって、大声で泣き喚いたって良いくらいなのに。  なのに洸はそうしない。いつだって人の言葉を一度受け止めて、相手を許して、感情のすべてを飲み込んで、自分の中だけで消化する。  どうしてこんなに素敵な人に誰も気づかないのだろう。  いや、と思う。気付かないでほしいと思っているのは自分だ。  洸の恋人になる人は幸せだ。それが羨ましくてたまらない。|妬《ねた》ましいとすら思う。本当は誰にだって譲りたくない。このまま誰にも見つからないで、俺たちだけの洸でいてほしい。洸の幸せを願うのと同じくらい、洸に恋人が出来なければ良いのにと思う。  山川さんのせいで、そんな意地汚い自分に気付いてしまった。  最低だ。わかってる。  でも、どうしようもできない。どうにか出来るほど、大人じゃない。 「あ、なんか辛気臭くなっちっまった! やめやめ! パーッと飲もうぜ!」  重くなった空気を察知したのか、明るい声で言った洸がタブレット端末を操作し始める。  そんな洸を見ながら俺は思うのだ。  こんな時まで空気を大事にしなくていいのに。もっと弱音を吐いたって、愚痴ったって全然いいんだよ。洸の胸の中で渦巻いている感情全部を、俺たちにさらけ出してくれよ。  でもこういう大事な時に限って、俺の口は動かない。  遣る瀬無さを感じながら飲み干したジンジャエールは、まるで俺を責めるみたいに喉に沁みた気がした。    いっぱい飲むのは良いが、これは飲みすぎじゃないのか。  ジョッキを片手に机に頬を預けて、へらへらと笑っている洸を見ながら、頬を引き攣らせる。飲むことで洸の気分が晴れるならトコトン付き合おう。そう思って飲むのを止めなかったのも悪いが、随分な酔っぱらい具合だ。 「そろそろやめとけ、洸」 「まだのめるぞ~」  ダメだこりゃ。もう呂律も回っていない。  ジョッキを持ち上げようとしているのは認めるが、ジョッキの重さに腕が負けている。半分以上溶けた氷が入ったジョッキを、ゆらゆらと揺らす洸からジョッキを取り上げると、あー! とデカい声を出された。  五月蠅い。けど、マジでかわいいなコイツ。  こんなことを考えている俺も大概なのだが。  酔っ払った洸の隣で、縁はまだビールジョッキを傾けている。コイツざるかよ。洸と同じくらい飲んでいるはずなのに、顔色一つ変わっていない。ケロリとして、ごくごくと水のように飲んでいる。顔に似合わず、なんて言うのは失礼かもしれないが、本当に酒が強いらしい。 「璃空の言う通り、洸ちゃんはそろそろやめた方が良いかもね~。僕はまだ全然飲めるけど」 「おれものむ!」 「ハイハイ、お前はこれ三杯くらい飲んどけ」  ハイボールよりも薄い色をしたコーン茶を渡せば、おう! と嬉しそうに受け取くれた。  マジで大丈夫か。他の奴からもこんなに簡単に受け取ってたりしてるんじゃないのか、コイツ。あまりに素直に受け取りすぎて逆に心配になってくる。  今度はお手拭きを弄り始めた洸を横目に、縁へ声を掛けた。 「飲み放題って三時間だっけ?」 「そうだね。多分あと一時間くらいかな?」  まだそんなにあるのか。顔に出ていたのか、縁がふふんと笑いながらまたジョッキを煽る。 「送り狼にならないようにしろよ~?」 「バッ! ならねーよ!」 「どうかなぁ? ……あ、そろそろ時間だ」  にやにやと笑っていた縁だったが、スマートフォンの画面を見てそんなことをぽつりと言った。そのままジョッキを置いて、いそいそとバッグに物をしまい始めた縁。まるで帰り支度だ。 「えっ? 時間ってなんだよ」  まさかと思って疑問を投げかけた俺に、財布から万札を出した縁は、机に置いてニッコリ笑う。 「僕がそろそろお暇する時間ってこと」 「はぁ!? なんで!」 「決まってるじゃん! 彼氏と会うから」  語尾にハートマークがついてるだろ、と思うくらい上機嫌に言った縁は、最後にスマートフォンをポケットに押し込んで、ぱっと手を軽くあげた。 「じゃあ僕はこれで!」 「ま、待ってくれよ、縁!」  焦りまくっている俺を無視して、縁は洸に声を掛けている。 「洸ちゃん~。ごめんけど、言った通り僕は先に帰るね」 「お~、またなぁ。ありがとなぁ~」  ひらひらと手を振っている洸と縁を交互に見る。  どうやら縁が途中で抜けることを知らなかったのは俺だけらしい。なんてことだ。というかこの状態の洸を置いていかれて、本当に俺は大丈夫なんだろうか。  ぐるぐると頭を巡る取り留めのない疑問に、答えてくれる人はいない。  俺に向き直った縁がビシッと指を差してくる。 「璃空は責任持って、洸ちゃんのことをちゃんと家まで送り届けること! いい?」 「そ、それは勿論そのつもりだけど」 「よしっ! あ、因みにおつりはいらないから。――じゃあ、頑張って!」  キラッキラの満面の笑みで言って去っていく縁の背中を、呆然と見つめる。  いや、頑張ってってどういう意味? ただ単に洸の介抱を頑張って、という意味だけではない気がして、思わず身震いする。  まさか、な。  視線をゆっくりと元に戻す。  半個室に酔っぱらった好きな人と、二人きり。  その事実を認識して、顔に熱が一気に広がった気がした。洸といえば相変わらず呑気で、箸置きにした割り箸の袋を指先でつついている。  ごくりと鳴った喉を隠すように、タブレット端末をつかんで、とりあえず飲み物を注文する。落ち着け、俺。この前まで会うことすら避けていたから、いつも通りがどんなだったか全く思い出せない。意識しないようにすればするほど、逆にその事実を認めざるを得なくて、顔も体も熱くなっていく。  ウーロン茶が一刻も早く来るのを願っていた俺に、ふと洸が声を掛けてきた。 「璃空、おれにもおちゃ注文してくれ~」 「ん、色々あるけどどれにする?」 「梅昆布茶ある~? なかったら緑茶!」 「梅昆布茶あるみたいだから頼むわ」 「さんきゅ~」  梅昆布茶とかなかなか渋い物好きだよなぁ、こいつ。カラオケのフリードリンクでも梅昆布茶頼んでるもんな。  高校の時の一幕を思い出して、思わず笑いが零れた。俺の笑い声に気付いたらしい洸が、のっそりと体を起こして、じっと見てきた。 「なにわらってんだ」 「いや、大したことじゃねーよ」 「たいしたことじゃなきゃ笑わねーじゃん」 「いや、洸って高校の頃から結構シブい趣味してるよな~って思って。高校の時のカラオケでさ、お前が梅昆布茶頼むの見た時、ビビったもん。コーラとか飲んでそうなのにさ」 「梅昆布茶うまいじゃん。それにコーラは母ちゃんがだめっていうからのめなかったんだよ」  ぶすっと口を尖らせた洸に、ふはっと笑う。  流石に高校を卒業した後は禁止されていないようだけれど、相変わらずコーラを飲んでるところは見た事がない。  ウーロン茶に見せかけてコーラを頼んで、飲ませてみるのもいいかもしれない。どんな反応をするのか見てみたい。 「じゃあ今日コーラ飲む?」 「おれは梅昆布茶がいいの!」 「ふふ、分かってるって。頼んだから待ってな」  ああ、大丈夫だ。普通に話せてる。  このままいつも通りに、送って帰ったらいい。  そう思って、やっときたウーロン茶を喉に流し込んだ。  あざっした~、という明るい店員の声に見送られて、居酒屋を出る。  さっきまでは随分酔っぱらっていた洸も、多少酔いが醒めたらしく、しっかりと自分の足で歩いていた。でも上機嫌なのは相変わらずで、フンフンと鼻歌を楽しそうに歌っている。 「こら、あんま離れんなよ」 「わかってるって。ほんと璃空はシンパイショーだなぁ」  本当にコイツ解ってない。心配なのは洸だからであって、赤の他人だったら心配なんてしない。それを気付きもせず洸は、にへらっ、とだらしない顔で笑って言う。はぁ、と溜息を吐いて、洸がどこかに行かないように手首を掴む。 「ハイハイ俺は心配性ですよ。ほら、早く家帰るぞ」 「おぅ。ありがとなぁ」  やわらかな間延びした声が背中に沁みていく。それだけで勝手に心臓の辺りが熱を持つから、もう俺は洸という沼からずっと抜け出せない。嬉しいのに、少しだけ苦しくて、でも離れがたい。  今、洸の顔を見てしまったら、絶対に余計なことを口走ってしまう自信があった。  だから、俺は必死に前を向いて洸の手首を引いて歩いた。  繁華街から洸の家までは、大体15分かからない程度の距離だ。  大学の最寄駅の中を通れば、10分でたどり着く。  駅の中から抜けて喧噪を離れてしまえば、後ろから上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。  俺たちを包むのは、やさしい音と二人分の足音だけ。  この世界にたった二人だけみたいだ。そんな馬鹿なことを考えてしまうほど、辺りは静かだった。  何故だかすごく泣きたい気持ちだった。  こんなに穏やかなのに。隣に洸がいるのに。どうしようもなく胸が締め付けられる。  今歩いている場所が、横幅の狭い歩道でよかった。もしも二人分の幅があったら、洸が隣に来て顔を覗かれてしまっただろう。自分で見ることは出来ないけれど俺は今、多分もの凄く情けない顔をしている。洸の方が辛いことがあって泣きたいに決まっているのに、自分のことを放って俺を心配してくれるような優しい奴だから。本当に見られなくて良かった。  やっと洸が暮らしているマンションが見えてきた頃だった。 「璃空、今日来てくれてありがとな」  不意に洸が言った。誤魔化すようにふっと笑って、言ってやる。 「来るだろ。親友なんだから」  わずかに手首を掴んだ手に力が入ってしまったのを、洸が気付いていないと良い。  自分で言ってて笑える。もうずっと、親友なんて思っていない。  もうずっと、洸は俺の好きな人だから。  優しくしたいのと同じくらい、俺の手で暴いてやりたいと思っているから。キスをしたらどんな顔をするのかとか、押し倒したらどんな反応するのかとか、粘ついた泥みたいな欲望がもうずっと俺の中にあるから。胸の奥底に溜め込んだ凶暴性が漏れださないように、取り繕っているから。  そんな俺の心も知らずに、洸は言う。 「来てくれないと思ってたから。来てくれて、まじでうれしかった」  本当に嬉しそうに弾んだ声がまた背中に沁みて、俺は奥歯を強く噛んだ。  期待するな。嬉しくなるな。洸はただ親友として言ってるだけだ。そもそも洸はノンケで、男から恋愛感情を向けられるなんていう発想がそもそもない。他人のことは理解できても、それがいざ自分に向けられていると知った時、洸に絶交を言い渡されても可笑しくない。だから、一ミリも期待なんかしてはダメなのだ。 「こういう大事な時に外さないから、色んな人が璃空のこと好きになるんだろうなぁ」  独り言のように洸は言葉を紡ぐ。でも、と思った時には口が動いていた。 「色んな人に好かれたって、自分が好きになった人に好かれなきゃ意味ないだろ」  色んな人に好意を向けられたって、さして良いことなんてない。たった一人に振り向いてもらえないなら、何の意味もないのだ。たった一人に振り向いてほしいだけなのに、その人は全く見向きもしてくれない。こんな不毛なことってない。ないのに、俺は自分の気持ちを自覚してからずっと、それを持ち続けている。  ガシッと腕を掴まれて、そのまま引かれた。反射的に足を止めて振り返った俺を、きらきらとした目で洸が見ていた。 「璃空、やっぱ好きな奴いんの!?」  お前だよこの鈍感。そう言ってやりたいのをぐっとこらえて、まあね、と曖昧に返事をする。言及されたらどうしよう、と一瞬頭を過ったけれど、意外にも洸はあっさりと身を引いた。 「そっかぁ。そうだよなぁ。じゃなきゃ縁と別れないもんなぁ」  感慨深そうに頷く洸は、そっかぁ、と繰り返してまた歩き出す。それに合わせて俺も足を動かした。エントランスに入って、そのままエレベーターに乗り込んだ。部屋の前まで送ったら、すぐにでも帰ろう。そう決めて、階数を上げていく窓の外をただ真っ直ぐ見つめた。  洸の顔を見たらダメな気がしたからだった。  ちん、と間抜けな音を立てて、エレベーターが開く。手首を掴んだまま、エレベーターを降りて歩く。あと少しで洸の部屋の前にたどり着く、と安堵したその時だ。 「いいなぁ」  思わず振り返ってしまったのは、その声が滲んでいたから。いつもは同じくらいの高さにある瞳は見えない。洸は下を向いていた。ぽつ、ぽつ、と雨が降るみたいに足元にまあるい雫が落ちていく。 「おれも、そういう人と恋人になりたい」  心臓が大きく跳ねた。やめろ、と冷静な自分が言ったのを遠くの方で認識しながら、それでも俺は自分を抑えるなんて、もうできなかった。  強く洸の腕を引いた。バランスを失った体は簡単に腕の中におさまって、じんわりとぬくもりを届けてくる。息を吸い込むと、香村家はこれなんだ、と笑っていた洸が好んで使う柔軟剤のやさしい香りがした。 「――俺じゃダメなの?」  零れるように落ちた本心。えっ、という戸惑いを含んだ声が聞こえる。逃げられないように、顔を見られないように、強く抱きしめた。 「俺だったら洸を失望させたりしない。お前がもう嫌だって言うまでずっと傍にいる。他の誰かを好きになって勝手に離れてったりしない。ずっとずっと、洸だけが好きなんだ。――だから、俺を選んでよ」    言ってしまった。全部さらけ出してしまった。心臓が痛くて仕方ない。でももう、一度言葉にして声として外に出してしまった想いは、なかったことにはできない。  だから洸が少しでも嫌がるなら、すぐにでも離して2度と姿を現さないと腹を決めた。  洸が何も言わない時間が、こんなにも長く感じたのは初めてだった。それは1分にも満たない時間だったのかもしれないし、10分以上あったのかもしれない。正確な時間は分からなかった。  少し胸を押されて、体をゆっくりと離す。  見えた顔には、嫌悪は浮かんでいなかった。  まるで酒を飲んでいる時みたいに、耳まで真っ赤にした洸が視線を彷徨わせて、言った。 「え、っと……、酔ってるわけじゃないよな?」  ふはっ、と噴き出してしまった。ソフドリしか飲んでない、と笑えば、だよなぁ、なんて少し参ったような声が聞こえて。うろうろと視線を動かしてから、洸は言う。 「俺も、璃空のことは好きだよ。でも、あの、今までそういう気持ちで見たことなかったから」  うん、という自分の声は、随分と緩んで聞こえる。ゆるっゆるの締まりのない顔をしているのが自分でもわかる。それはそうだろう。これで、自惚れるな、という方が無理な話だ。  視線が合うと、すぐに逸らされた。 「じゃあこれからはそういう目で見てよ」 「……お前が言うとなんかやらしく聞こえる」 「実際やらしい目で洸のこと見てるのは認める」  ぐう、とよく分からない声を漏らした洸に、思わず笑ってしまった。  そういう反応なんだ。嫌悪があったらこうはならないのになぁ。かわいいなぁ。少し意地の悪い気持ちが前に出て、両肩に手を置いて洸を至近距離で覗き込んだ。 「で、俺を恋人にしてくれるの?」  意地の悪い質問をした俺に、いつもの洸らしくない小さな声で返事があった。 「とりあえず、お試し期間を申請させてほしい」  片手を小さく上げてそんなことを言うものだから、俺は勝手に漏れた笑いのまま洸を抱きしめて、もちろん、と言ったのである。  なあんだ。こんなに簡単なことだったんだ。  ずっと怖いと思っていたのは、ただしり込みしていただけで、最初からずっとこうしていれば良かったのだ、と俺は今日初めて知ったのだ。

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