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06.噂
——俺が小学生になったとき、弟が生まれた。それはそれは大層可愛く、俺は弟の誕生をとても喜んだ。
しかし共働きの両親は弟の世話に加え、反抗期に入ってしまったのか少しずつ素行の悪くなっていく兄にも心を砕いており、毎日とても疲弊していた。
幼いながらもそれに気づいた次男坊が、人の顔色をうかがうような人間に育つのはよくある話である。
家族のみならず学校でもそれは遺憾無く発揮され、これで人間関係が円滑にまわるのだから容易いものだ。
ただ少しでも『素』を出そうものなら、いとも簡単に失望されてしまう。それが常だった。
(……今まで上手くやってきたのに)
「おはよ、牧ちゃん」
どういうわけか、この男——小野田蓮は、相変わらず笑顔で叶多の隣の席を陣取っている。
——おかしい。確か昨日、コイツに揶揄われていると知って俺はキレたはず。手だって思いっきり振り払った。
振り払った瞬間の、まるで傷ついたかのような蓮の表情が脳裏に過ぎり、叶多は思わず首を振る。
「牧ちゃん、今日オレ課題してきたんだけど見て」
「は?」
教室の中だというのに、素っ頓狂な声が叶多の口から飛び出た。
授業も平然とサボるような蓮が課題を自らやってくる姿など、叶多は見たことがない。
蓮が差し出すノートを思わず受け取り、叶多は目を落とす。
英語の課題だ。ノートの罫線に沿って整然と手書きの文字が並んでいる。それに目を走らせ、叶多は眉を潜める。
「……全然答え違うし」
「うっそマジ?」
叶多の呟きを聞いた蓮が、ノートを覗き込もうと身を乗り出してきた。
お互いの髪が触れるほどの距離に、叶多はほんの少しだけ身体を仰け反らせる。
何気なく顔を動かすと、教室の隅の方でクラスメイトと談笑している友人——上野と目が合った。
僅か数秒。彼は叶多とその隣にいる蓮に視線をずらし、申し訳なさそうな顔をしながらもそのまま目を逸らしてしまう。
(なんかあったら言えって言ったのに……)
いつぞやの言葉を思い出し、叶多は内心でそう毒づく。
そもそも期待はしていなかったが。そういえば彼は最初から蓮のことを快く思っていなかったな。
「ねぇ牧ちゃん、この文法のときってさぁ」
叶多の心境など露知らず、蓮がそう呑気に話しかけてくる。
溜息をつきたい気持ちをぐっと堪え、叶多はそっと蓮の身体を手で押した。
「近い」
「え〜?」
何故か不満げな蓮の声を無視して、叶多は持っていたノートを蓮に押しつけた。
——
「牧ちゃん帰ろ」
放課後を告げるチャイムが鳴るや否や、鞄を持った蓮が叶多の元へとやってくる。
「いや、あの……」
叶多が抗議がてら困惑の視線を投げるも、蓮は声をかけてきたクラスメイトに気を取られたせいでそれは空振りに終わってしまった。
「蓮と牧ちゃん、一緒に帰んの? マジで最近くっつきすぎじゃない?」
「オレが一緒にいたいだけ〜」
「熱いねぇ」
冷やかしの声を聞き流し、蓮は叶多に視線を戻した。
目が合い、そして口元に笑みを浮かべながら軽く首を傾げてみせる。
「どした?」
「…………いや」
叶多は目を逸らした。
今までの蓮は、いつも人を嘲るような笑みを浮かべている印象だった。少なくとも叶多といる時は、大体にやにやしていたのを思い出す。
それなのに、今のような優しげな顔を叶多は見たことがない。
「…………」
断るタイミングをすっかり失った叶多は、不本意ながらもいつもの帰路を蓮と肩を並べて歩いていた。
しかし特に会話が弾むこともなく、2人の間には沈黙が満ちる。時折、車やバイクの音がその沈黙の中を駆けていった。
先に口を開いたのは、叶多の方だった。
「お前さ、何なんだよ」
「え?」
脈絡のない叶多の言葉に、蓮が驚いたように目を瞬かせる。
忌々しげに眉根を寄せながら、叶多は続けた。
「なんでまだ絡んでくんだよ。もう終わりって言ったよな?」
責めるような刺々しい声に怯むこともなく、蓮は困ったような表情を浮かべた。
「……遊んでないって証明?」
「は?」
「口で言うよりいいかなって思って」
「……意味わかんねぇ」
素っ気なく返し、叶多は歩くスピードを意図的に上げた。
苦笑しながら、蓮がそれを大股で追いかけてくる。
(どうせ今だけだろ)
様子をうかがうように横目で蓮のことをちらりと盗み見ると、丁度視線がかちあった所だった。
蓮が柔らかく笑う。
「何?」
「なんでもねぇよ」
叶多はそっぽを向いた。
——
それからというもの。
「牧ちゃん、おはよ」「昼飯それだけ? 足りる?」「一緒に帰ろ」
と、蓮が何かとつけてはすぐに叶多の隣へやってくる日が続いた。
それが1週間にもなると、最初は警戒していた叶多も少しずつ肩の力を抜くようになっていた。
(さすがにしつけぇわ。いつまで続くんだこれ……?)
認めたくないが、慣れ始めている自分がいる。
放課後。クラス委員としての雑用を終えた叶多は、悶々と考え事をしながら廊下を歩いていた。
当然のように一緒に帰ろうとしていた蓮には「用がある」とだけ伝えたが、まさか待ってたりはしないだろうか。
(律儀に伝える俺もどうかしてる……)
そもそも一緒に帰る約束なんてしていないのだから。
角を曲がり、歩を進める。廊下で喋っていた複数の女子生徒の前を通り過ぎようとしたところで、不意に声をかけられた。
「あ、牧ちゃんじゃん」
「……はい?」
反射的に立ち止まり、振り返る。
女子生徒たちは揃いも揃って丈の短いスカートや巻いた長い髪が目をひき、ずいぶん派手な出立をしていた。見たことあるような顔の生徒もいるが、ほとんどは叶多にとって初対面だ。
そのうちの1人が口を開く。
「牧ちゃんってさぁ、蓮と付き合ってんの?」
「えっ?」
思いがけない言葉に、叶多は思わず間抜けな声を上げる。
何故そんな噂が、という疑念が湧き上がるが、その答えをすぐに理解する。
引き攣りそうになる頬を誤魔化すように、叶多はいつもの爽やかな笑顔を貼り付けた。
「……付き合ってないよ」
叶多がそう言った瞬間、女子生徒たちが両手を叩きながらかしましい笑い声をあげた。
「だから言ったじゃ〜ん」
「だってずっと蓮と一緒にいるからさぁ、そうなのかと思うじゃん!」
「なぁんだ」
口ぐちにそう騒ぎ立てる。
叶多が居た堪れなさを感じていると、1人が叶多に向かってひらりと手を振った。
「蓮、最近あたしたちが遊び誘っても来ないんだよね。牧ちゃんから来いって言っといてよ」
「はぁ……」
——なんで俺が。
そんなことを口にできるわけもなく、叶多は「わかった」と愛想笑いを浮かべてその場を後にした。
戻ってくると、誰もいない教室で蓮がスマホを触りながら叶多の席に座っているのが目に入った。
(なんで待ってんだよ)
扉を開くと、その音に顔を上げた蓮がぱっと表情を明るくさせる。
それに若干の苛つきを覚えながら、叶多は蓮の隣に立ち彼を見下ろした。
「お前のせいで変な噂が立ってんだけど?」
「え、何? おかえり?」
戻ってくるなり不機嫌丸出しの叶多に、蓮は目を白黒させる。
叶多は溜息混じりに言い捨てた。
「俺とお前が付き合ってるって」
「え、マジで?」
一瞬だけ蓮は目を見開く。
しかしすぐに興味を失ったのか、身体を預けている椅子の脚を支点にゆらゆらと前後に揺れ始めた。
「いや別に良くない? そんな噂が流れたって」
「良いわけねぇだろ。しかもお前、最近女の子と遊んでないって?」
「あー……そういえば」
「だから余計に怪しく思われんだよ」
「ふーん?」
「女の子が寂しいって言ってたぞ」
「うーん……」
「聞けよ」
スマホに目を落としながら生返事をする蓮に、少しづつ苛立ちが募る。
なんで自分がこんなに必死になっているのだろうか。謂れのない噂が広がれば、この男だって迷惑するだろうに。
叶多はわざとらしく深い溜息をついた。
「……お前が困るだろ」
その言葉を聞いた蓮が、伏せていた目を上げる。
「それだけ?」
静かなその声に、今度は叶多が虚をつかれる番だった。
「それだけ、って」
「……噂なんか放っとけば勝手に消えるって」
言いながら、蓮は鞄を片手に立ち上がる。
唖然とする叶多に、蓮は机に置いてあった叶多の鞄を当たり前のように差し出してきた。
「帰ろ」
思わず叶多はそれを受け取る。
受け取ったその後で、はっと思い直した。
——こういうことするから、余計に噂が広まるんじゃないのか。
「牧ちゃん?」
教室の扉の辺りで、蓮が不思議そうに振り返った。
何の疑いもなしに、叶多が来るのを待っている。
(……何だよ、もう)
逡巡する思考を打ち止めし、燻る気持ちを抱えながら叶多は足を踏み出した。
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