2 / 6
第1話 突然の来訪者
ここバーデルンはベラーブル王国の南端に位置する港町だ。背にはなだらかな山々が、眼前には他国へとつながる大海が広がる王国屈指の貿易都市として栄えている。
そんな土地を総べるオスマンサス公爵家の当主、ラインハルト・フォン・オスマンサスは、いつもと同じように屋敷の二階にある執務室で一人、もくもくと書類仕事をこなしていた。
静寂を貴ぶオスマンサス公爵家には、午後の温かい日差しに照らされながら風に揺れてざわめく木々と、さえずる鳥の声だけが今日も響く。
ところが、いつも変わらずこの屋敷にあった静寂は唐突に鳴らされたノックの音に破られた。
「失礼いたします、旦那様。お仕事中に申し訳ございませんが、急ぎ中庭にお越しいただけますか」
執務室に入ってきたのは、この家の筆頭執事であるオットー・シュレーゼマンだ。
いつもなら仕事中のラインハルトを自ら訪ねてくるようなことはしない。あるとしたら、何かしらいつもと違うことが起こったときだけだ。
それを体現するかのように、オットーはあくまで冷静さを保ちながら、珍しくその顔に焦りをにじませている。
「これからか?」
驚いた顔をするラインハルトにオットーは「はい」と顔色を変えないまま頷いた。
祖父の代からこの家に仕えるオットーはオスマンサス公爵家の最古参で、ラインハルトも幼い頃から世話になっている。
だが、彼のこんな様子は初めて見た。ただ事ではない気配に、ラインハルトはグッと息を呑み、席を立った。
オットーと共に向かった中庭は、この家の家名であり、象徴でもある木、“家樹”の金木犀に囲まれ、季節の花々が咲き誇るオスマンサス公爵家自慢の場所だ。
ラインハルトの胸当たりの高さで整然と剪定された金木犀の生け垣に小さなオレンジ色の花が咲き誇り、その愛らしい花の芳醇な香りに包まれながら、中央では円形の噴水は、地下からくみ上げた水を高く噴き上げ、虹を掛けている。
だが、いつもならその美しい庭を整えているはずの庭師のカールが、今は両手をもみながら落ち着きなく歩きまわっていた。
「旦那様! こちらでございます!!」
そうカールが指し示した先へと視線を落としたラインハルトは、堀の深い切れ長の目を極限まで大きく見開いた。
「なっ、何者だ?! 侵入者か……?!」
そこには、黒髪の青年が全身ずぶ濡れの状態で横たわっていた。
「噴水の中に突然浮かんでいたのです。意識がないようなので、ひとまず引き上げたのですが……」
カールによれば、朝には確かに何もなかったはずの噴水に、昼食後戻ってくると突然この青年が浮かんでいたのだという。
横たわる青年はもちろんこの家の使用人ではないし、出入りの商人などの中にも見かけたことはない。
対処に困り果てたカールがこの家の主であるラインハルトを呼んだのは当然のことだろう。
オスマンサス公爵家の屋敷はその周囲を高い柵で囲まれ、唯一の入り口では門番が来訪者を厳重に管理している。さらに、この中庭は本邸と別邸の間にあるため、外部の人間が易々と侵入できるような場所では決してない。
それに、青年が身に着けている服の形も、そこに書かれた文字のような記号もこの国では見たことがないものだ。そもそも、ベラーブル王国の民に黒髪の人間は存在しないし、この青年のように純黒とも呼べるほどほど深い黒色に髪を染める技術もない。
全ての状況がこの突然の来訪者がいかに異端であるかを物語っていた。
混乱でいつものようにうまく回らない頭のなかに一つの“可能性”が過る。
それはこの国、ひいてはこの世界で語り継がれてきた特別な存在。
「まさか……『世界樹の客人』……?」
少しの沈黙の後、とにかくこのままではいけないと、急いで青年を運ぶ部屋を準備するようオットーに指示を出し、ラインハルトは青年の横に膝をついた。
髪と同じ色をした長い睫毛に縁どられた目を固く閉じ、眠っているように見えるその青年は、長時間水につかっていたのか、肌は熱を失って青白くなり、唇もその色を無くしている。
背丈はそう低くないようだが、力なく横たわる手足も、襟首から覗く首筋も驚くほど細い。
目を閉じていてもわかるほど整った美しい顔立ちも相まって、まるで精巧な人形のようにすら見えた。
それは少しの衝撃でもすぐに壊れてしまいそうな危うさを孕んでいて、無性に不安を掻き立てられる。
ラインハルトはそっと青年の首に手を当てて脈動を探った。だが、それはかすかに感じるのみで、今にもその動きを止めてしまいそうなほど弱い。
呼吸を確かめるため口元へ顔を寄せた瞬間、ふっと何かがかすかに鼻腔をくすぐった。
――これは……金木犀の香り…?
今いる中庭には満開の金木犀が咲き誇っている。でも、違う。そちらからではなく、あらかにこの青年から香る。
嗅ぎ慣れたはずのその香りに、ラインハルトはなぜかゴクリと喉を鳴らした。
「旦那様? どうされましたか?」
カールの声にハッと我に返り、再度青年の呼吸を確かめる。しかし、やはりほとんど感じられない。
ラインハルトは青年の顎先を持ち上げて鼻をつまみ、開いた口元を自分の口で覆う。
そして、唇が重なったその瞬間、脳が痺れるほどの衝撃を受け咄嗟に口を離した。
――な、なんだ、今のは…?!
落雷を受けたようにビリビリと痺れる脳から送られてくる信号で心臓は動きを早め、手が震える。
そして、ありえない欲望が脳を埋め尽くしていく。
――甘い。
――おいしい。
――もっと、…………。
今度はその欲望を伴って鳴らした喉の音に、ゾッと背が冷えていく。
「旦那様、お加減が優れませんか?」
青年を前に茫然と固まっているラインハルトをカールが心配そうにのぞき込んでいる。自身でも飲み込めない欲望を前に、青年から離れたほうがいいのではないかと冷静な頭では思っているのに、どうしても再度確かめたいという情動が勝る。
カールに「大丈夫だ」と答え、ラインハルトは再び青年の口を覆い、息を吹き込んだ。
――やはり、甘い……なんなんだ、これは。なぜ……こんな……。
漂う香りも、重ねた唇から感じる何かも、その全てが甘い。
一気に蘇ってくる長年失っていた欲望に必死に抗いながら何度か息を送ると、青年の体がビクンと震え、大きく咳き込んだ。
その瞬間、わずかに開かれた青年の黒い瞳と視線が重なる。その一瞬の出来事に、ラインハルトの心臓はこれまで経験したほどがないほど大きく動いていた。
その後、またすぐに意識を失った青年を抱きかかえ、オットーに用意を言いつけた部屋へと運ぶ。すでに用意が整えられた部屋で待っていたオットーと侍医のローマンと共に、青年の濡れた服を脱がせ、夜着を着せてベッドに寝かせる。
ラインハルトも手早く着替えを済ませると、すぐに青年のもとへ戻った。
「どうだ?」
「眠っていらっしゃるようで、呼吸も今は正常に戻っています。ただ、体が冷え切っていますので、このままでは衰弱していかれるばかりです。すぐに体を温めて差し上げなければなりません」
「では、湯の用意を……」
「いえ、長時間水の中にいらっしゃったようで肌がふやけてしまっています。ですので、湯につからせるのはよくないかと。そうですね……人肌で温めるのが一番良いのですが……」
ローマンは他の方法はないかと思案して黙り込むが、青白いまま横たわる青年にあまり猶予があるようには見えない。ラインハルトはなぜかこれまで感じたことがないほどの焦りを感じていた。
「わかった、私が何とかする」
ラインハルトは咄嗟にそう告げ、二人を部屋から下げると、ベッドで眠る青年の横に立ち、拳を握り締めた。
――これは人命救助だ。
そう自分に言い聞かせてベッドに入り、青年に並んで横になる。震える腕でそっと抱き寄せたその身体は、少しの力でいとも簡単に折れてしまいそうなほど細く、無機物のように冷たい。それはおおよそ生きた人のものとは思えず、やはり人形なのではないかと疑いたくなる。
そして何より、漂ってくるこの眩暈がするほど甘い香り。
名も素性もわからない青年に沸き上がるこの欲望が何なのかわからないまま、ラインハルトは青年の背に回した腕に少しだけ力を込めた。
ともだちにシェアしよう!

