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第4話 金木犀の香り

 突然の『異世界転移』から一夜明け、咲玖はまだ夢の中にいるような心地ではあるが、部屋の窓から見える、昔何かで見た外国の街並みに似た景色がとてもきれいで、優しい夢ならばこのまま続いていくのもいいかもしれないと思った。  だって、“現実”は咲玖にとって厳しいものでしかなかった。その環境に嘆いたことも腐ったこともなかったけど、結局、“現実”は最後まで咲玖を虐げた。  ならば、せめて夢の中くらいは楽しく、幸せに過ごしてもいいじゃないか。  なんてほんの少しだけ、本当に少しだけ思っただけだったのに、朝から出てきたご飯は今までに食べたことがないくらいおいしかったし、用意された大量の服は咲玖でもわかるほど上等なものばかりだし、さらにはお世話をしてくれるメイドさんまでいるらしい。その時点で十分キャパオーバーだったのに、極めつけは階段でのこと。  咲玖に向かって頭を下げる大勢の大人たちと目の前に跪いたラインハルト。それはまるで映画のワンシーンのようだった。  ――俺を『守る』だなんて……。  かけられた言葉と共に、指先に触れた柔らかな温度を思い出し、咲玖は思わずその場に屈みこんだ。 「サク?! どうしたんだ?? 具合が悪いのか?!」  頭上から焦りを帯びた重低音が落ちてくる。そういえば今、お屋敷を案内してもらっている最中だった。  慌てて立ち上がり、エメラルドグリーンの瞳を不安そうに曇らせるラインハルトに「大丈夫」と言おうとしたが、その顔を見るとやはりさっきのことが頭に過り、爆ぜたように体が熱くなる。言葉が出てこないまま固まっていると、ラインハルトはきれいな形の眉をさらに下げた。 「すまない、いきなり連れ回しすぎた。休憩しよう」  ラインハルトに「歩けるかい?」と聞かれたので強めに首を縦に振ると、ラインハルトはまだ眉毛を八の字に下げたまま咲玖の手を取り、庭の中にある休憩スペースのようなところまで連れていった。  何とも自然に手を取られたため、そのまま受け入れてしまったが、これはいわゆる“エスコート”というものではないか。そう気づいた途端、また顔に熱が集まってくる。  でも、この様子だと、さっき首を横に振っていたら、抱き上げられて運ばれたのでは――? なんて恐ろしい想像が頭に浮かぶ。もしそうだとしたら、エスコートくらい全然問題ないと思うことにしよう。    ガゼボと呼ぶらしいこの休憩スペースは本邸と別邸の間にある中庭あり、どこからか漂ってくる甘い香りに包まれている。その先には噴水があり、噴きあがる水が陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。 「そこにある噴水にきみはいたんだ。全身ずぶ濡れで、意識もなくて……。目を覚ましてくれて本当によかった」  陽の光を反射するエメラルドグリーンの瞳は本当に宝石みたいにきれいで、思わず見とれてしまう。多分、その色だけではなく、そこに込められた優しさとか、穏やかさとか、そういうものもこの瞳がキレイに見える一因なんだろう。なんて考えながら、じいっと見つめていると、ラインハルトは不思議そうに首を傾げた。 「私の顔に何かついているかい?」 「あっ、ん-ん、眼の色がきれいだなと思って……」  口に出してから恥ずかしくなり、また顔の熱がボンっと爆ぜる。それを隠すのに慌てて下を向くと、大きな手が優しく咲玖の髪を撫でた。 「ありがとう。サクの黒髪も、黒い瞳もとても美しいと思うよ」 「こんなの普通だし……」 「サクの国ではそうなのかな? こちらの国ではとても珍しい色なんだ」  言われてみれば確かにこの家の人たちはみんな髪の色も瞳の色も地球で言うところの“西洋風”の出で立ちだ。そこでふと、明らかに日本語を話す見た目ではない人と問題なく話せていることに気が付いた。 「あの……俺の話してる言葉、普通にわかるの?」 「ん? そうだね。こちらの言葉を話しているように聞こえるが、そうではないのかい?」 「俺にはみんな日本語を話しているように聞こえる」  では、文字はどうだろう、とラインハルトが自分の名だと紙に書いて見せてくれた文字はカタカナに見える。咲玖も自分の名前を漢字で書いた見せたが、これもまたベラーブル王国の文字に見えるとラインハルトは言った。 「きっと世界樹がこちらに招いたときに不便がないように加護を与えてくれたのだろう」  急に体感した“異世界っぽさ”に少しテンションが上がり、そわそわとしていると、執事のオットーとさっき紹介されたメイドさんたちがカートを押しながらこちらへやってきた。カートには、かわいらしい形をしたたくさんのチョコレートやビスケット、それと湯気の昇るポットと、コーヒーカップが乗っている。 「サク様、コーヒーは飲まれますか?」 「あ、あんまり……甘いのなら飲める、と思う……」 「サクは甘いものが好きなのかい?」 「うん、好き」  ぽそっと小さくつぶやくと、なぜかそこにいた全員が優しい顔で咲玖に目じりを下げた。  日本にいた頃、咲玖はコーヒーなんてもらった缶コーヒーしか飲んだことがない。それはやたら苦くて驚いた。  一度だけ、よく見る緑色のマークのコーヒー屋さんで売っているクリームがたくさんのった飲み物がとてもおいしそうに見えて、飲んでみたいと店の前まで行ったことがある。でも、たくさんの人が行きかう店の雰囲気にも、その値段にもびっくりしてしまって、結局店に入ることすらできなかった。  飲める日が来るだろうかなんて思っていたけれど、結局そんな日はこないまま異世界(こちら)へ来てしまった。こんなことで郷愁を感じるなんて思わなかったけど、帰りたいとは少しも思わない。まだ来たばかりでわからないことばかりだが、少なくとも元居た場所よりここは温かいから。  カートに乗ったたくさんチョコレートやビスケットから好きなものを選ぶように言われ、咲玖は小さなオレンジ色の花が乗った四角いチョコレートと、丸い形のチョコレートを一粒ずつと、家の形をしたビスケットを二枚もらい、コーヒーには砂糖とミルクをたっぷり入れてもらった。 「それだけでいいのかい? 好きなだけ食べていいんだぞ?」 「えっでも、みんなの分もあるでしょ?」  カートにあるお菓子は咲玖がこれまでの人生で食べたことのあるお菓子よりももしかしたら多いのではないかと思うくらいの量で、さすが公爵家とやらはすごいんだなと驚いた。でも、なぜかラインハルトは咲玖の言葉に目をぱちくりと瞬かせている。 「これは全てサクのために用意したものだから、きみが全部食べていいんだよ」 「えぇ?! い、いや、多いよ?! こ、こんなに食べられないし……」 「ははっ、全て食べる必要はないよ。好きなものを、好きなだけ食べなさい」  さっき服を用意された時にも思ったが、この家と咲玖とでは完全に生活レベルが違う。確かに咲玖は日本でもかなり貧乏な方だったけど、おそらく公爵家は圧倒的なお金持ちだ。  それに甘えるなんて、物心ついたときから染みついている貧乏根性が拒否反応を起こしている。 「せ、せっかく準備してもらったのに悪いけど、俺はこれだけで十分だから。むしろこれでも多いかなって思ってたし……あとはみんなで食べて。ね?」 「遠慮しなくてもいいんだが……でも、サクがそうしてほしいというなら、その通りにしよう」  ラインハルトの少し寂しそうな顔に咲玖は少しだけ胸がチクリと痛んだ。でも、咲玖としては目の前に置かれた二粒のチョコレートと、二枚のビスケットだけで十分に贅沢なのだ。これ以上のものを欲しがったりしたら、バチが当たりそうで怖い。  それに、このたった一粒のチョコレートだって、素人目に見てもとても手が込んでいる。キレイにコーティングされたつやつやの小さな長方形の上に飾られたオレンジ色の花は、すごく小さいのになぜかキラキラと輝いて見える。持ち上げてじぃっと見ていると、指から伝わった熱でじんわりとチョコレートが溶け始めた。  慌てて口に運ぶと、しっとりと滑らかな食感はすぐに口の中で溶けて形をなくし、どこか懐かしい優しい香りと深みのある甘さが口いっぱいに広がる。 「おいしい……!」  あまりのおいしさに思わず声を上げてしまい、お行儀が悪かったと慌てて口を覆う。チラリとラインハルトを見上げると、昨日からずっと変わらない優しい眼差しと視線が交わる。つい、パッと目線を逸らせて下を向くと、今度は優しい重低音が下りてきた。 「気に入ったかい?」 「うん、こんなおいしいもの初めて食べた。昨日のスープも朝ごはんもすごくおいしかった。一日でこんなに贅沢したらおなかがびっくりしちゃいそう……」  カチャンと食器がぶつかる音が聞こえ、目線を上げると、なぜかラインハルトが片肘を机についてその手で目を覆い、がっくりと肩を落としていた。  何かおかしなことを言っただろうかと不安になりオロオロとしていると、なぜかオットーに「旦那様!」と一喝されてラインハルトは慌てたようにパッと顔を上げた。 「すまない、サクがあまりにか……あぁいや、サクがそう言っていたと料理人に伝えるよ。きっと喜ぶ」  何事もなかったようにラインハルトは微笑んだが、やはり不安が拭えず、オットーに視線を送るが、「他のものもどうぞお召し上がりください」と何事もなかったようににっこりと微笑まれた。  おそらく深く追求してはいけないのだろう。気を取り直して口に運んだもう一粒の丸いチョコレートも、家の形をしたビスケットも感動するほどおいしくて、その味を噛みしめていると、ふとラインハルトはコーヒーしか飲んでいないことに気が付いた。 「公爵様は食べないの?」  そう問いかけると、ラインハルトは一瞬眉間にしわを寄せ、悲しそうな顔をした。 「あぁ私は大丈夫だ。それよりも、やはりまだ気は向かないかい?」  何が聞きたいのかピンと来ず、咲玖が首をこてんと傾けると、またラインハルトは悲しげな顔をする。そういえば今朝、朝食を食べている時も同じようなやり取りをした。  ――もしかして、『公爵様』って呼んだのがダメだったのかな……。  ラインハルトは昨夜、初めて会った時に咲玖がうっかりこぼした『ライ』という呼び方をいたく気に入ったらしく、そう呼んでほしいと言っていた。  ラインハルトは偉い人だし、『あんた』と呼ぶのはさすがに失礼だと思って『公爵様』に変えてみたのだけど、お気に召さなかったようだ。  でも、さすがにまだ会ったばかりの人をいきなりあだ名で呼ぶのは抵抗がある。  咲玖が下を向いてもじもじと悩んでいると、また大きな手が優しくサクの髪に触れた。 「気長に待つことにするよ」  そう言って咲玖を見つめた優しい瞳に、咲玖の胸はドクンと一度だけ跳ねた。  そろそろ続きを見て回ろうか、と立ち上がり、ラインハルトは咲玖の横に立つとすっと手を差し出した。その優雅さに一瞬見とれたが、それが自分に向かって差し出されたものだと気が付くと、咲玖は一瞬にして顔に集まった熱が爆ぜた勢いのまま、その手を取らずにバッと立ち上がった。 「お、俺は男だからそういうのいらないよ」  ラインハルトに背を向けてガゼボを出る。すると、中庭を囲っている生垣に、さっき食べたチョコレートに載っていたのと同じ小さなオレンジ色の花が咲いているのを見つけた。  チョコレートを口に入れた時と同じ、優しくて、心がほどけてくような甘い香りがする。名前は知らないが、日本でも同じもの見たことがある。時代と『世界樹』とかいう世界観に大きな違いはあるが、食べ物や植物なんかは案外咲玖がいたところと共通点も多いのかもしれないと思いながら小さなオレンジ色の指でつついてみた。 「その花はサクのいたところにもあったかい?」 「うん、あったよ。名前はわからないけど……」 「こちらでは金木犀(オスマンサス)と呼ぶ。我が家の家名を表す家樹でもある」 「へぇ! さっきのチョコレートにも乗ってたよね」 「あぁ、あれは金木犀(オスマンサス)(・ド・)砂糖漬け(クリスタリゼ)だね。母がよく紅茶に入れて飲んでいたよ。私も幼い頃とても好きだった。甘くて、良い香りがする」  おしゃれだなぁ、なんて思いながらラインハルトの後について中庭から奥にある建物に続く通路へ戻る。金木犀が植えられていた位置からは数メートル離れた場所なのに、あの甘い香りはここまで届いていた。 「あんな小さな花からこんな強い香りがするなんてすごいね」 「あぁ、この時期は屋敷のどこにいても金木犀の香りがする。そういえば……」  言葉を途中で止めたラインハルトは突然、咲玖の首筋に顔を寄せた。驚いて少しだけ後ろに飛びのくと、ラインハルトはフフッと笑いながらまた咲玖の髪を撫でる。 「サクからも同じ、甘い香りがする」  その重低音に乗せられた温かさとは裏腹に、咲玖は体中の温度が一気に下がっていった。

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