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第1話 兄
顔も声も名前も思い出せない人の言葉を覚えている。
いつか必ず迎えに行く、と言われた。
オレはその人のことを兄さんと呼んでいた気がするけど、本物の兄だったのかはよくわからない。
昔のことはよく覚えていない。
最近のことも。用事が済むと頭の中にモヤみたいなのがかかって、すぐに思い出せなくなってしまう。
誰かにそのことを話したら、おまえはただの犬なのだからそれでじゅうぶんだ、と言われた気がする。
日々は単調な繰り返しだから、なにも覚えていなくても特に問題はなかった。
食べる、寝る。人を殺す。ただそれだけ。
他にはなにも、ない。
今日も人を殺すために息を吸って、行動する。
いつもとなにも変わらない、すぐに忘れ去られる一日のはじまり。
そう思っていた。
ひとつ、いつもと違ったのは、与えられた標的が、見知らぬどこかの人間ではなく、昔から顔を知っている仲間の一人だったということだ。
いわゆる脱走者というやつだ。
脱走者はたまに出る。しかし、組織の拠点から離れた場所まで逃げられるのは、エスが知る限り、はじめてのことだった。
『ターゲットが移動をはじめた。上層階に向かっている。ゼクス、行けるか』
通信機越しに、リーダーが指示を飛ばしてきた。
「了解。Cルートから追跡する」
感情のこもらない機械のような声でエスは応答する。
ゼクスというのは、今任務におけるコードネームだ。コードネームは任務ごとに毎回変更される。
場所は、この国の中心地にある高層ビルのひとつ。
時刻はまだ午前十一時五十八分。オフィスと商業施設が混在するビルの内部には、多くの無関係な人間が歩いていた。
警備員を装って、エスは堂々とその中を歩いて行く。もちろん、目立つようなことはしない。変わった色をした瞳は、青みがかったグレーの髪と一緒に、制帽によって隠した。
このビルは、五十五階建てに屋上がついている構造となっている。
ターゲットとは別のエレベーターに乗って移動する。
途中で降りて階段に切り替えたところで、さらに通信が入って、ターゲットが、五十三階で降りたことを知る。
探していた男は、すぐに見つけた。
一般人風の、カジュアルだが安っぽい服を着て、落ち着きなく周囲を見回す姿は、明らかにその場で浮いていた。
さりげなさを装って近づき、首に針状の武器を突き刺せたなら一番楽だったが、すぐに向こうもこちらに気づいて駆け出す。
ターゲットを追って、再び階段を駆け上がることになった。
ハウンドファングと呼ばれる戦闘員の中でも、エスの身体能力はトップクラスに分類されている。
いつもならすぐに追いつくはずだった。しかし今日の相手は、以前見た時よりもずいぶんとすばしっこく動く。
「…………?」
違和感を覚えつつも、そのまま屋上まで追いかけることになった。
屋上には緑が広がり、足元はウッドデッキが敷かれて、人々が休憩できるスペースになっていたが、今日は風が強く、誰もいない。
「どうして追いかけてくるんだ」
先日までジャックと呼ばれていたターゲットが言葉を発した。
エスは返事をすることなく襲いかかる。
やはり、妙だ。
相手は落ち着いている様子でもないのに、異様に動きが素早い。まるでこちらの動きをあらかじめ予測していたように、かわされた。
本来ならハウンドファングは、裏切りが発覚した時点で、首の後ろに仕込まれたマイクロチップの機能により、自害、あるいは行動停止になるようにされている。
しかし、この男は今も勝手な行動を続けている。そのことと、この身体機能の向上はなにか関連があるのかもしれない。
蹴りと拳を立て続けにかわされたエスは警戒し、いったん距離を取ることにした。
組織内のジャックの評価は、基本的に標準レベル。特に優秀でもなければたいして悪いというほどでもないというあたりだったはずだ。
それが急に別人のような動きをするようになったということは、共犯者、あるいは彼をそそのかした人物の存在が考えられる。
ここは、見通しのいい屋上だ。狙撃の危険性も考え、エスは周囲にも警戒を張り巡らせる。
「おまえは、自分がハウンドファングであることに、なんの疑問も持たないのか?」
血走った目と恐怖に引きつった表情で、ジャックが問いかけてきた。
ハウンドファングはもれなく全員、余計な感情をそぎ落とすための訓練を受けている。できなかったら処分される。
当然、以前のジャックは無表情のまま淡々と人を殺せる男だった。今は、感情を制御できていない。それなのに感情とは裏腹に動きだけが異様に精密なのが不気味だった。
不審な点といえばもうひとつ。
今回の命令は『殺害』ではなく『生け捕り』だった。なにか、生きたまま連れて帰るべき理由があるのだろう。もちろんそれは、ただの猟犬でしかないエスが知る必要のないことなのだろうが。
「なんとか言えよ! おまえに、帰りたい場所はないのか!?」
黙ったままじっとジャックの様子を観察していたエスの態度に焦れたジャックが、感情の波をそのまま表したような声で怒鳴ってきた。
「グランシャリオ以外の、どこに帰る場所があるというんだ」
相手があまりにも必死なので、面倒だが答えてやった。
グランシャリオというのは、ハウンドファングを飼っている組織の名前だ。
「……思い、出したんだ……オレには両親と、妹がいた……。雪が深い地域で、吹雪がやんだ時には妹といつも雪だるまを作って……」
ぶつぶつと続けられる言葉はとりとめがなく、文脈もぐちゃぐちゃで、なにを言っているのかエスにはわからなかった。話の内容そのものに意味があるとも思えない。
それが空想によって作られた記憶なのか、忘れていた本物の記憶なのかも、判別がつかない。もしかたら、本人にすらよくわかっていないかもしれない。
そういえば自分にも兄がいた気がするな、とぼんやり思い出したが、悠長に記憶の底をつついていられる状況でもなかった。
突如として飛んできた銃弾が、ジャックの足元のウッドデッキを抉る。
「ひっ……!」
ジャックは器用にかわしたが、顔色はさらに悪くなっている。
この方角なら、狙撃手のツヴァイだろう。エスが手をこまねいているのを見て、撃ってきたのだ。
「どうしてだよ……オレはなにも悪くない……ただ、家に帰りたかっただけなんだ……」
精神の乱れと、記憶の混濁。連れて帰っても、まともに使い物になるとは思えなかった。
なにか隠し持っているような、嫌な予感がして様子を見ていたが、長引かせると、他の仲間の手を煩わせることになる。
再び距離を詰めようとした矢先、ジャックは胸元をごそごそまさぐって、注射器を取り出した。
赤い、毒々しい液体が入っている。
エスに突き刺すつもりかと思ったが、ジャックはそれを、自らの首の動脈に突き刺した。
直後に、肉が焼けるような、脂っぽい匂いがした。
眼前に、鋭い爪が迫る。
即座に姿勢を低くしてかわしたエスの頭上に、獣の咆哮が響き渡る。
エスよりも若干小柄だった青年の体が、何倍にも膨れ上がっていた。
身長は、三メートルはあるだろうか。腕は丸太のように太く、上半身の筋肉はパンパンに盛り上がっていたが、下半身の方はそれよりもいくらか細く、アンバランスでいびつな巨人のようだった。
上半身の方が重すぎたのか、数分前には確かにジャックだったはずの怪物は、地面に手をついている。
『ゼクス、どういう状況だ?』
「わからない」
通信越しに仲間から問いかけられるが、そう答えるより他にない。
常軌を逸した状況だ。まるでSF映画を見ている気持ちになったが、目の前にあるのは現実である。
(SF映画なんて、いつ見た……?)
ふと、自分が何気なく抱いた感情に疑問を覚える。
ハウンドファングには娯楽が与えられることはない。映画なんて、街中の広告以外では見たことがない。
だけど昔、見たことがある……気がする。
そこで、先ほどのジャックの言葉が思い出された。
『帰りたい場所はないのか!?』
――あった、気がする。
でも帰りたい場所を思う時、頭にノイズのようなものが走って、すぐに幻想は掻き消された。いつもそうだ。
その感覚が不快で、そのうちなにも考えないようになっていた。
肉弾戦では圧倒的に不利だと判断してナイフを取り出したエスは怪物に襲いかかるが、皮膚は鋼鉄のように硬く、弾かれる。
戸惑いを見透かされたように、太い腕で顔面を弾き飛ばされた。
近くの植え込みの木に当たってそれ以上は飛ばされなかったのは、不幸中の幸いだった。
変装用の制帽が吹っ飛ばされてどこかにいってしまったので、ついでに警備員の上着も脱ぎ捨てる。下に着ていたのは、黒いぴっちりとしたレザースーツだ。
再び体制を整え、ナイフを棍棒に持ち替える。棍棒は手元で伸びて、バトンのようになった。
相手が怪物だろうが、どこかに急所があるはずだ。それを探るように、あらゆる場所に、じわじわと攻撃を加えていく。
体の巨大化とともに伸びた爪が幾度となくエスの皮膚を傷つけてきたが、怯む暇もなかった。
動きが速すぎてエスに弾が当たると判断したためか、遠距離狙撃はあれっきりない。
「グォォォォォォォォォ!」
一般市民だったら声を聞くだけで恐怖のあまり泣き出してしまいそうな、不気味な唸り声があがる。
しかし、それだけのおそろしさを見せながら、怪物は、暴れながら涙を流し始めていた。
「イ、イタイ…………」
しゃがれた醜い声で、怪物は子供のように言う。
痛いのはエスだって同じだ。しかしエスは声ひとつあげることなく、淡々と激しい戦闘を続けている。
「……コワィ……」
怖いならやめればいい。
そう言いながらも怪物はおそろしい一撃をエスに叩き込んできた。
直撃を避けきれず、体が地面に転がる。
「ドウシテ……あのクスリをウテ、バ、自由にナレルと、イワレタのニ……」
機械でいじったような不安定な音声が紡がれる。
「くすり……?」
さっきの赤い注射のことだろうか。
自分の任務はあくまでもこの男の捕獲で、正体不明の薬とやらについて調べる義務はなく、知る権利もないのだが、妙な引っ掛かりを覚えて、気になってしまう。
嫌な胸騒ぎがする。
もう少し会話の余地がないものかと考えたが、それも束の間のことだった。
「う……ギャアアアアァァァ……おおおおおおォォォォ!」
子供と化け物の叫びが混ざり合ったような咆哮とともに殴りつけられて、体が宙を舞う。
残念ながら、受け止めてくれそうな木は、今度はなかった。
投げ出された先の真下では、屋上の騒動を知らぬ車が無数に行き交っているのが見えた。
地上までは約数十メートル。パラシュートは、今日は装備していなかった。
――ほぼ同時刻。正確に言うと数十秒前。
ビルの屋上からでもほとんど気にならないような上空に、一機のヘリが接近していた。
「間もなく、目的地上空です。隣のビルに着陸する予定でしたが、すでに戦闘が行われている模様。……どうしますか?」
副操縦士が、後部座席にあたるキャビンに座る金髪の青年をちらりと振り返りながら問いかけた。
「問題ないよ。僕はこのまま降りる。きみたちは予定通り、あとからゆっくり降りてきて」
男にしてはやや高めの、落ち着いた声が答えた。
「このまま……とは?」
中年の副操縦士は、困惑まじりに問い直した。
金髪の青年はシートベルトを外すと、速度を落としたヘリの中で、まるでこれからパーティに赴くような優雅な仕草で立ち上がった。
「少し風が強いから、このへんでいいかな」
ヘリの側面のドアが開け放つと、強風が機内に流れこんできた。
下の様子を見て、青年は美しく整った唇の片端をつり上げた。
「救護班の準備をよろしくね」
軽やかな口調とともに、白いタクティカルスーツ姿の青年は、ここが千メートルの上空であることも感じさせない軽やかな足取りでヘリを降りた。
太陽の光を直接浴びた淡い金髪が、キラキラと美しく輝く。
手首に仕込まれたワイヤーは、殴られた際に破損したのか、出てこなかった。
ものすごい勢いで体が落下しているのがわかる。
ああ死ぬんだな、とエスは妙に冷静な頭で思った。
死の間際、人は走馬灯というやつを見ると聞いたことがある。たいした思い出もない自分はどんな走馬灯を見るんだろうと少し期待していたが、なにも見えなかったことに失望する。
今日は空がとても青くて綺麗だ。
青空の下で死ねるならまだ幸せな方かもしれない。などと思いながら他人事のように空を見上げていたら、白い何かが急降下してくることに気づいた。
鳥だろうか。それにしては頭の部分がやけに黄色い気がする。
人だ、と気づいた時には、それはもうすぐ近くまで接近してきている。
巨大化する人間の次は鳥人間だろうか。今日はなんという日だ。
反射的に銃を取り出して撃とうとしたが、目が合った青年がエスの顔を見て微笑んだことに気づき、動きと思考が止まる。
既視感に似た何か。強烈な、懐かしさのようなものを感じた気がするが、エスにはその正体がわからない。
隙を突かれるかたちで青年の腕が伸びてくる。
手をぎゅっと掴まれた。
細いが、力強い手だった。
自分はこの手を、知っている気がする。
殺気が一切感じられないことに困惑している間に、白いタクティカルスーツに包まれた腕に絡め取られる。
抱きしめられるかたちでさらに数メートル落下したのち、ビルの二階にあたるテラスの芝生の上に、二人の体はごろごろと転がった。
落下の衝撃は、想定していたよりもずいぶんと軽かった。白い青年はパラシュートのようなものをつけているようには見えなかったが、着地する直前、ふわりと体が浮いた気がする。
「……っ」
とはいえ、怪物との戦闘で受けた傷は軽くはなく、エスは痛みに顔をしかめる。
「大丈夫?」
問いかけてくる声は優しかった。
しかし、だからといって、この金髪の青年が敵ではないと決まったわけではない。
ハウンドファングは基本的に、同胞以外の者はすべて敵だと教えられている。
痛みを押し殺し、改めて銃を握りしめた。
「大きくなったね、エス。会いたかったよ」
銃口を向けられてもなお、青年はやわらかく微笑んできた。
ズキリ、と頭の一部に痛みが走る。これはおそらく、外傷によるものではない。
「誰だ、おまえは」
この金髪の青年はハウンドファングではないはずだ。なのに自分の名前を知っている。どういうことだ。
「僕のこと、覚えてない?」
「知らない」
全身が異様に重い。それなのに、今すぐ目の前の青年を撃たなければと、指だけは勝手に動く。
銃声が響いて、金髪の先がわずかに千切れて宙を舞った。
弾丸をかわした青年は迷うことなくエスの懐に飛び込んで、羽交い締めにしてきた。
「やめろ……っ」
暴れて振り払おうとするが、細身の青年は見かけによらず力が強く、びくとも動かない。
「暴れないで。きみを傷つけたくない」
こんな状況だというのに、青年の声は落ち着いていた。
首の後ろに手を伸ばされる気配を察して、エスは金髪の後頭部を鷲づかみにして引き剥がそうとする。
「いい子だね。怖くないよ」
青年は相変わらず一切動じることなく、エスの頭を撫でてきた。
懐かしい感覚。懐かしい声。
不意に、泣きたくなった。
どうして。涙腺なんてものは、とっくに機能しなくなっていたはずなのに。
「誰なんだ、おまえは……」
問いかける声は先ほどよりも弱々しく、掠れていた。
前髪が触れあうほど顔が近づいてくる。続いて鼻先が触れあい、唇が重なった。
やわらかい感触。あたたかいものが胸の内に広がっていく気がしたが、慣れない感覚に、体は本能的な拒絶反応を示す。
反射的に突き飛ばそうとしたが、再び押さえ込まれてしまった。
「舌、噛まないでね」
囁く声とともにまた唇を重ねられる。
同時に、頭を撫でていた手が、首の後ろまで伸びてきた。
指輪だろうか。冷たい金属の感触が肌に触れてくる。
次に、電流が走ったような鋭い痛みが、首の後ろを襲った。
青年に舌を絡められていなければ、確かに、自分の舌を噛んでしまっていたかもしれない。
傍から見れば、それは、男二人が白昼堂々、濃厚なキスしている光景に見えたことだろう。
しかしこの時エスは、頭を鈍器で思いきり殴打されたあとのような衝撃と目眩を味わっていた。
脳みその中が掻き回されて、それまで当たり前だと信じていたものの輪郭が曖昧になっていく。
同時に、泥のような深い澱の中に沈んでいた古い記憶が、強引に引きずり出される。
混濁していた意識が明瞭さを取り戻してきた時、エスはもう、目の前の青年に『誰だ』と問う必要はなくなっていた。
目を開けると、金髪の青年は相変わらずやわらかく微笑んで、じっとエスを見つめている。
頬の輪郭も、身長も、記憶にあるものとはだいぶ違うのに、その金髪と、ブルーグレーの瞳と、彼が纏う空気を認識しただけで、『そう』であると確信する。
「…………にい、さん……?」
掠れた、戸惑いが滲む問いかけを肯定するように、薄い唇の端が持ち上げられた。
立ち上がった青年が、白い指先をエスに差し出してくる。
「迎えにきたよ、エス」
風に金髪がなびく。
こんなにも美しい人を、自分は他に知らない。
――オーウェン・ロゴフ。
声にならない声で名を呼んだ。
かつて自分が、兄と呼んだ人だった。
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