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第2話 過去

 五つ歳が離れた兄のオーウェン・ロゴフは、幼い頃から常に穏やかで優しく、頭もよく、運動能力にも優れていた。  さらには顔立ちも整っており、街を歩けば見知らぬ人から『天使のようだ』と囁かれていた。 『完璧』という言葉を体現したような人だった。  それでも不思議と、近所の子供に声をかけられると、気軽にごく当たり障りのない対応をする兄は普通の子供のようにも見えて、その完璧さを注目されることはあまりなかった。  あえて目立たないように振る舞っていたのだ、と気づいたのは、エスがいくらか大きくなってからだ。  彼は、立ち回りも上手い人間であったのだ。  弟であるエス・ロゴフとは、あまり似ていないといつも言われた。  金髪に青みがかったグレーの瞳をしている兄に対し、弟はグレーの髪に紫の瞳をしていた。  顔立ちも、雰囲気が違うらしい。  似ていないと言われるたびに傷つくエスを、兄は『でも、僕の目の色とエスの髪の色はそっくりじゃないか』と言ってなだめた。  父も母も昼間は働きに出ていて家にいなかったから、学校がない日は、一日の大半を兄とともにすごした。  兄は語学力にも優れていて、よく、いろんな国の絵本を読んでくれた。  まず最初に、書いてある言語のまま読み聞かせられるので意味がわからず言葉の意味を問うと、丁寧に翻訳した上で再度読み聞かせてくれたあと、幼い弟にもわかりやすいように話の要点をまとめてくれた。  学校では教えてくれないことを、兄はたくさん教えてくれた。  さまざまなスポーツはもちろん、武術やアーチェリーからフェンシングまで、兄はなんでもできた。  ただやり方を教えるだけではなく遊びも交えて相手をしてくれるので、流行りのゲームソフトで遊ぶよりも楽しかった。  難しいことを習得するのをつらいと思ったことはあったが、それは自分の至らなさを感じた時だけだ。兄から強要されたことは一度もない。  思うようにできるまで『もう一回』としつこく練習の続きをせがんでいたのは、むしろエスの方だった。  大人が運営している教室に通っていたわけではないので、正式な大会に出場したことはないが、特に武術に関してはこのあたりの地域の子供の中では兄が一番で、自分はその次に上手いと、子供心に自負していた。  家の裏にある森で、よく日が暮れるまで練習をしていた。  森の中には、前の住人が残したと思われるアスレチックの仕掛けがたくさんあって、絶好の遊び場だった。  家に友達を連れてきてはいけないよと両親に言われていたから、学校以外で友達と遊ぶことはほとんどなかったけど、兄がいればそれでじゅうぶんだった。  兄も、いつも時間が許す限りエスの相手をしてくれていた。  ただ、森で体を動かしている時は、いつも優しい兄は少しだけ厳しかった。  お兄ちゃんと似ていないね、と誰かに言われるだけで涙目になるエスを優しく慰めてくれる兄だが、アスレチックの最中に落ちたり転んだりしても、すぐに駆け寄ってきて手を差し伸べてくるようなことはなかった。  必ず、エスが自力で立ち上がるまで、そばでじっと佇んでいた。  それが嫌で、エスはやがて、いちいち大げさに泣くのをやめて、さっさと立ち上がるようになった。 「偉いね」  そう言ってもらえるのが、何よりのご褒美だった。  母は忙しく、家にいるときもパソコンでなにか仕事をしている人で、子供と一緒に遊ぶことは稀であったが、料理だけは文句なしに完璧だった。  たまに、夜中に煮込み料理を作っていた。  いい匂いがして目を覚ますと、母はたいてい、キッチンの鍋のそばで難しそうな本を読んでいた。 「あら、起きちゃった?」  苦笑まじりに問いかけてくる声はいつも優しかった。  夜中に料理をしながら本を読むひとときが、母にとっては癒やしの時間のようだったが、息子が起きてきても邪険にすることはなく、本を傍らに置くと、息子を膝に乗せて子守歌をうたってくれた。  膝の家でまどろんでいると、そのうち兄がやってくる。 「エス、だめだよ。ベッドに戻らなきゃ」  母の邪魔をしてはいけないと、兄が迎えにきたのだ。  気持ちよくまどろんでいたところを邪魔されたのは残念だったが、兄に手を引かれるのが嬉しくて、すぐにおとなしく従った。 「兄さんのベッドに入ってもいい?」  兄とは同じ寝室で、別々のベッドが用意されていたが、夜中に連れ戻された時には、必ずそう問いかけた。  兄はたいてい、くすりと笑うだけで、快く頷いてくれた。  一人で黙って座っている時は温度のない人形のようにも見える兄だが、触れると、意外なほどあたたかいことを、エスはよく知っている。 「明日はなにをして遊ぶ……?」 「そうだね、まずは、やりかけのワークを片付けてしまおうか」 「勉強の話は今はいいよ」  むすっとして言うと、兄はくすくす笑ってエスの頭を撫で、「おやすみ」と言ってから、つむじのあたりにキスをしてくれた。  穏やかで、幸せな時間だった。  この時はまだ、自分は普通の子供で、兄も母も父もちょっと特別な雰囲気があるけど、どこにでもいるごく普通の家族だと信じていた。  平穏な日常の終わりは、エスが九歳の誕生日を迎えてから少しした頃、ある日突然やってきた。  嵐の夜、雷が怖くて兄にお願いしてベッドに入れてもらい、いつも以上にひっついて眠っていたら、夜明け前にいきなり起こされたのだ。 「エス、出かけるよ。支度して」  頭を撫でてくる兄の手は優しく、声はいつも通り穏やかだったが、異様な緊張感が家中に張り詰めているのを、目を覚ました瞬間、エスは感じ取った。  ベッドのそばの窓のカーテンはまだ閉められていたが、外がまだ暗いのは、カーテンをめくらなくてもわかった。  時計を見たら四時三十二分。 「こんな時間におでかけ……?」 「着替えて」  夏だというのに、兄が差し出してきた服は長袖に長ズボンだった。  すでに着替えをすませていた兄も長袖長ズボン姿だ。しかも、兄の方はいつも着ている服ではない。黒い、ピッチリした革の服を着ていた。まるで戦闘服みたいだ。  有無を言わさぬ雰囲気に反論することができず、できるだけ手早く着替えをすませる。  エスに用意されたのも、普段とは違う服だった。デザインは普通だが、なんというか、生地がいつもよりも厚みがある気がする。  着替えの最中に、母が子供部屋にやってきた。 「準備はできた?」 「もう少し」  母も、兄と似たような服を纏っていた。  彼らがそんな服を着ているのを見るのは、この時がはじめてだった。  エスはいつも遊びに行く時に使っているリュックを掴んで、お気に入りの絵本と、兄と一緒に作った木のおもちゃを入れようとしたが、母に止められる。 「だめよ、置いて行きなさい」  母らしくない高圧的な物言いに、エスは戸惑う。 「なんで……?」 「すぐに帰ってこられるから」  エスは兄の顔を見た。兄は、少し寂しそうに微笑んだだけで、なにも言わなかった。  その態度に、母の言葉が嘘であることをエスは察してしまう。  どこにいくの?  どうしてこんな時間に出かけなければいけないの?  学校のクラスメイトが、テーマパークに行くために朝の五時に出かけた、と喋っているのを聞いたことがあるけど、二人の格好は、どう見てもテーマパークに行くような感じじゃないよね?  すぐに帰ってこられないにしても、そのうち帰ってこられるよね?  いくつもの疑問と不安が同時に浮かぶが、口に出せる雰囲気ではなかった。  寝癖を直すような仕草で兄が頭を撫でてきて、それから全身でぎゅっと抱きしめられる。 「エス、大丈夫だよ。荷物はなにもいらないんだ」  なんだか無性に悲しくなって、兄の体に強くしがみついたが、すぐに引き剥がされてしまう。  かわりに手を繋がれて外に出ると、父のお気に入りの黒いクラシックカーが玄関前に停まっていて、運転席にはすでに父が乗り込んでいた。 「行くぞ。もう時間がない」  寝る前まで激しく降っていた雨はすでにやんでいたが、風はまだ強かった。  家族全員が乗り込むと、車はすぐに発車した。  母も兄も、荷物は何も持っていなかった。  兄に言われてシートベルトを締めてから振り返ると、自分が住んでいた家から煙が出ているのが見えた。 「兄さん、家が燃えてるよ」 「そうだね」  兄は驚かず、振り返りもせず、エスの顔だけを見て答えた。 「すぐに戻って火を消さなきゃ」 「戻ったら危ないよ」 「じゃあ、消防車を呼ぶ……?」 「…………」  誰も、なにも言わなかった。  一家が暮らしていた白い家が、みるみるうちに遠ざかっていく。  兄は無言のままエスの頭を撫でていたし、母と父はじっと睨むように前方に視線を投げていた。  ブロ、ブロ……ブオオオ……という不穏な音をあげながら、父が休みのたびに整備している年代物のクラシックカーは、夜が明けたばかりの薄暗い道路を猛スピードで突き進んでいく。  住宅街を抜け、大通りに出たところで、スピードを出して走ってくる車の気配を背後に感じた。  しかし、エスがその車の姿を見ることができたのは、わずかな時間だった。 「エス、頭を下げて」  頭を引き寄せられて、兄の膝の上に押しつけられる。  兄にしては少々乱暴な仕草に戸惑っていると、銃声が響いて、後部のガラスを突き破るかたちで銃弾が飛んでくる。  弾丸は、運転席のヘッドレストにめり込んだものの貫通まではしなかった様子で、舌打ちした父は、急ハンドルを切る。 「……ひ」  弾道は、明らかに、さっきまでエスの頭があったあたりを通過していた。  兄が引っ張ってくれなかったら、頭を撃ち抜かれていたことだろうと想像し、恐怖ですくみあがる。 「大丈夫?」  心配そうに覗き込んできた兄は、エスの背中にかかったガラスの破片をそっと払ってくれた。  こんな時まで美しい兄の態度は落ち着いている。 そのことにほっとしたのと、なにが起こっているのかわからない状況に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。 「ぼくたちこれから、どこにいくの……?」  半べそをかきながら、兄にすがりついて問いかけた。 「心配しないで。ずっと一緒だよ」  いつも聡明な言葉の選び方をする兄にしては、ずいぶんと曖昧な慰めの言葉だった。  しかし、兄とずっと一緒なら、行き先なんてどうでもいいとすら思えてきた。困ったことや怖いことがあっても、兄がいてくれるならどうとでもなるはずだ。 「兄さん……」  ぎゅっと兄に抱きついたその時、二発目の銃弾が、車のバックドアに撃ち込まれる音がした。 「オーウェン」 「わかってるよ」  母の鋭い呼びかけに、兄は即座に頷く、エスの体はそっと引き剥がされた。  足元の黒いケースを兄が引っ張り出す。楽器ケースのようにも見えたが、蓋を開けて出てきたのは、黒くて長い銃器だった。 「なに、それ」 「アサルトライフルだよ」  あっさりと答えると、兄は一切の迷いも無駄もない動作で弾を装填し、後部座席の窓が開くと同時に後方の車に向かってライフルを構え、応戦を始めた。  恐怖に耐えきれず両手で顔を覆い、指の隙間からかろうじて状況を把握していただけのエスには、兄が撃った銃弾が何発命中したのか、正確に把握することはできなかった。  ただ、追跡してきた車がいきなり後退したかと思うと、その後ろからやってきたトラックに激突して爆発したことはかろうじて認識できた。 「まだよ。前からも来ている」  母はタブレット端末でレーダーのような画面を見ながら鋭く言い放った。  父は普段、車を運転するよりも車を磨くのが好きな人だと思っていたが、今は、レーサーのような見事なハンドルさばきを見せている。  父も母も兄も、映画に出てくる、訓練された軍人みたいな動きをしていた。  そもそも、兄がライフルを扱えることなど、エスはこれまで知らなかった。  よく知っているはずの家族が急にみんな別人になってしまったみたいで怖い。 「家にかえりたい……」  すがるように呟いたエスに、兄がちらりと視線を寄越してくる気配があったが、兄は何も言わず、さらなる銃撃の音と爆発の音が車を包み込んだ。  今日は土曜日だから、朝の八時からお気に入りのアニメの放送があるはずだ。  今日は見られなさそうだ。来週は見られるだろうか。  わからない。なにも。これからどこに行くのかも。どうして命を狙われなきゃいけないのかも。  家族が何者なのかも。  もしもこれがアニメや映画の世界なら、スーパーヒーローがやってきて助けてくれて、最後には何事もなかったように家に帰れるのに。  そんなことを考えながら、エスは途中からずっと頭を抱え込み、すべての音を拒んでいた。  聞きたくなかった。銃声も。車のタイヤが急ハンドルで鳴る音も、父の舌打ちも、なにもかも。 「降りて」  しばらく走ったのち、急に車が停まったかと思うと兄にそう声をかけられて、エスはとっさに拒絶していた。 「……いやだ」  かろうじて聞き取れる程度の小さな声で言い返す。  昨日までの幸せな日常に戻れないのなら、もうずっと目と耳を塞いだままでいたかった。 「エス」  いつも優しい兄は、この時ばかりは、優しくなだめてくれなかった。  引きずられるようにして車をおろされる。  強い潮の匂いが鼻をついて、おそるおそる目を開けると、目の前には水面が広がっていた。  川よりも、湖よりも、どこまでも果てしなく水面が続いている。  海だ。  港に来たのだ。 「大丈夫。時間通りだ」  引きつった笑みを浮かべた父が、子供たちを振り返りながら言った。  岸壁の向こう、底の見えない海から、突如として黒い物体が浮上してくる。  叫ぶ気力もないまま、エスは虚ろな目で兄の体にぎゅっとしがみついた。  空に向かって黒く突き出した部分が、サメの背びれにも見えた。  しかし、サメにしては大きすぎる。それは、クジラほどの大きさがあった。 「エス、あれが本物の潜水艦だよ。前に、見たいと言っていただろう?」  黒く濡れた巨体。  しかし、よく見るとそれは、クジラのような強い生命力はなく、まがまがしい鉄の塊だった。 「あれが……?」  兄と一緒に見たアニメに出てくる潜水艦は、もっと小さくて可愛らしいデザインだった。  上部のハッチが開いて、軍人のような格好をしたゴツイ男が手招きしてくる。  どうやって乗り込むんだろうと思っていたら、母はいきなりジャンプして黒い巨体に取りついた。  男の手に支えられて、母はハッチの中に入っていく。 「さぁ、次はエスだ」  エスの顔が恐怖に引きつる。 「むりだよ! 落ちたら死んじゃうよ!」 「落ちなければ死なないよ」  当たり前のように背中を押してくる兄に悲鳴じみた声をあげると、兄はあくまでも冷静に返してきただけだった。 「もし落ちたら……?」 「這い上がればいい」  兄は、オーウェンは真顔だった。  生き残る意志があるのか問いかけるような静かな眼差しに、エスは息を呑む。 「早くしろ!」  潜水艦の上の男が叫んでくる。  プロペラの音に気づいてハッと頭上を見上げると、ヘリが一機、こちらに向かってきていた。  頭上から銃撃されて、エスは半ばパニックになりながら、黒い巨体に取りつくしかなかった。   ハッチの入り口にいた男は、すでに中に引っ込んでいた。  突起部分を掴みかけたものの、足が滑って落ちそうになったところで、あとから飛び乗ってきた兄に引っ張り上げられて、中に引きずり込まれる。  最後に父が乗り込んでくる。ハッチが閉められて間もなく、船は潜水を始めた。

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