3 / 22
第3話 別れ
「怪我はないか、おまえたち」
潮の匂いにまじって濃い血の匂いがすることに気づいて見ると、父の二の腕から下が赤く染まっていた。
「父さん……!」
エスが父に駆け寄ろうとすると、オーウェンがやんわりとエスの腕を掴んで止めてきた。
「どうしてしくじった?」
父に向けられるものとは思えない、冷たい声が兄の口から発せられて、エスは耳を疑う。
「予定では、任期はあと一年あったはずだ」
美しい顔には、怒りが滲んでいる。兄のこんな顔を見るのは初めてのことだった。
「じゅうぶんなデータはすでに得られた。もうじゅうぶんだ」
気まずそうな顔で父が答える。
「ルビリオ国内の情勢が不安定になっていることとなにか関係がある? もしかして、本国から成果をせかされて、手を出してはいけないところまで手を伸ばして正体がバレた?」
落ち着き払った声が、逆に威圧感を演出していた。
「子供には関係のない話だ」
「関係あるよ。僕は南アルリア連合の正式なエージェントだ。北側が南側との同盟を裏切るようなことをするなら、上に報告しなきゃいけない」
「なんの、はなし……?」
兄の口から次々と出るのは、耳慣れない言葉ばかりで、エスには理解できない。
「エス、ごめん。ちょっと待ってて」
頭を撫でられ、優しい声で語りかけてくるのはいつもの兄だったが、そんな二人の様子を、父は苦々しい表情を浮かべながら鼻で笑った。
「ずいぶん仲良くなったみたいだな。本物の兄弟でもないのに」
「え……?」
「余計なことを、言うな」
ギラリと鋭い目でオーウェンが父を睨む。
本物の兄弟でもないのに?
どういうこと?
なんの話をしている?
「……兄さんは、ぼくの兄さんだよ」
震える声で、しぼりだすように言った。
オーウェンとは、兄弟にしては似ていない、といつもいろんな人に言われていた。
でも、血の繋がりを疑ったことは、今まで一度もない。
だって、こんなにも理想的な兄は、他に存在しないだろうと思ったから。兄が自分に向けてくるあたたかな愛情は、家族の証そのものだと思っていたから。
「そうだね。エスは僕のなによりも大事な弟だ」
抱きしめてくる腕は優しくてあたたかくて、いとしさで胸がいっぱいになる。
だけど、なぜだろう。なんでこんなに、兄の声は切なげなのだろう。
「……オーウェン、おまえはとても優秀だ。北側への亡命を希望するなら、歓迎する」
「だめよ。この子は北側にはあげられない。南側に連れて帰ります」
父の言葉に答えたのは、母だった。
さっきから無言だったのは、怪我をしていたかららしい。
太腿を掌で押さえながら、母は荒い息をついている。
「オーウェン、私たちの任務はここで終わりよ。すでに上から、正式な帰還命令がおりています」
母の口調はいつもの母となにも変わりなかったが、言っている内容は、やはりエスにはなにひとつ理解できなかった。
「…………」
オーウェンは顔から表情を消し、黙り込んだ。
「ちゃんとお別れできる?」
しばらく間を置いてから、頭の上で兄が頷く気配があった。
一度、痛いぐらい強くぎゅっと抱きしめられてから、ゆっくりと腕がほどかれる。
「エス」
屈み込んで目線を合わせて、ブルーグレーの美しい瞳がまっすぐにエスを覗き込んでくる。
「怪我しているね。大丈夫?」
頬がピリピリすると思っていたら、怪我をしていたらしい。白い指が血を拭って、それから薄くかたちのいい唇が、そっと頬の傷に触れてくる。
頷くこともできずに固まっているエスの頭を、白い指が優しく撫でてきた。
「まずは傷の手当てをしよう。そのあとで、話がある」
聞きたくない。
帰りたい。
みんなで一緒に暮らした家に帰りたい。
反射的にそう叫びたくなってから、あの家が燃えている光景を思い出して、目元に涙が滲む。
だけど、怪我しているみんなを無視して泣きわめくこともできなかったから、エスは、乗組員に促されて移動させられる家族についていくしかなかった。
機関室を抜けると、医務室らしき場所があった。
一番重傷なのは母だったらしく、ベッドに横たえられた途端、母は一気に苦しげに呻き出した。
「ご苦労だったな」
あとから入ってきた戦闘服の男が、母の枕元に立った。
「これまでの協力に、感謝する」
長身の、ガッシリとした体つき。ひげ剃りの跡が残る四角い顔。もし街で出会ったなら思わず逃げ出してしまいそうなほどの威圧感のある男だった。
「……こちらこそ」
掠れた声で答えて、母は愛想笑いを浮かべた。
「データはコンラートに渡してあります。あとでご確認をお願いします」
「潜入先に、痕跡は残してきていないだろうな?」
「はい。我々の素性までは知られていないはずです。家は燃やしてきました」
家に火をつけたのは、母さんなんだ――。
手当てを受けながら話を聞いていたエスは、心臓がぎゅっと締め上げられるのを感じた。
「いいだろう。先ほど、南側から連絡がきた。一時間後に、迎えのヘリが到着するそうだ」
「ありがとうございます……」
母はそこで意識を失った。
すぐに、他の船員たちが母を取り囲んで、傷の処置が始まる。
「いい女だな。ちゃんと口説けたか?」
父の手当てをしていた下っ端らしき男が、冷やかしまじりに声をかけているのが聞こえてきた。
「いいや、まったく」
父は苦笑しながら首を横に振っていた。
母の話をしているのだとわかった。しかし、夫が妻の話をしているという雰囲気ではない。
どういうことだろう。意味がわからない。
いつもなんでも教えてくれる兄なら、教えてくれるはずだ。
救いを求めるように兄を見上げると、兄は冷たい無表情をしていて、近寄ってきた四角い顔の男に視線を向けたところだった。
「弟の仕上がり具合はどうだ?」
「……ご要望通り、完璧に仕上げました。あなた方のボスにも、必ずご満足いただけるかと」
「そうか、ご苦労だったな。子守の任務はここまででいいぞ」
ちょうどそこで、エスの手当てが終わった。軽傷だったエスの処置は、ごく簡単なものばかりだったのだ。
無骨な手で腕を引っ張られて、兄から引き剥がされる。
それを、やんわりとオーウェンの手が引き留めた。
「待ってください。ヘリがくるまで、まだ一時間もあるんですよね? 弟と最後に……二人きりで話をさせてください」
「その必要はない。こいつには我々が説明する」
「いいえ」
やや強引に、抱きしめるようなかたちでオーウェンはエスの体を引き戻した。
「お願いです。少しの時間でもいい……お別れを言わせてください」
「やだ」
別れの言葉なんて、聞きたくなかった。
エスはとっさに兄の腕を振り払って、医務室を飛び出そうとしたが、すぐに、屈強な男に行く手を阻まれる。
「どこに行くつもりだ」
首根っこを掴んで持ち上げられ、足が宙に浮く。
「やだ!」
足をバタバタさせて暴れながら、さっきよりも強い声で叫んだ。
オーウェンの顔色がさっと変わる。
「弟に乱暴するな」
机の上にあった医療用のハサミを掴んで、オーウェンは、エスを拘束している男の首に切っ先をひたりと当てる。
あまりにも素早い動きに動揺した男の腕からエスの体が落ちて、それを再度、オーウェンの両腕が抱きしめた。
「やだ……やだよ……お別れってなに……? ずっと一緒だって言ってくれたよね……? あれはウソだったの……? そんなこと、ないよね? 兄さんがぼくにウソをつくわけなんてないよね……!?」
耳元で息を呑む気配が伝わってきた。
背中に回された手が震えているのがわかった。
「動くな」
複数の男たちの手に握られた銃が、幼い兄弟に向けられる。
「……一発でも弟の体に当ててみろ。僕はこの場にいる全員を殺す」
抱きしめられているせいで顔を見ることは叶わなかったが、凄まじい殺気が兄から放たれ、空気がビリビリ震えているような錯覚すら感じた。
「オーウェン、やめなさい」
父がたしなめるように言った。
「その子はもう、おまえの弟じゃない」
「……黙れ」
「おとなしく言うことをきけば、おまえは無事に南側に帰れるんだ。もう、赤の他人と家族ごっこをする必要なんかない」
「黙れ!」
「異国でこそこそと暮らす必要ももうなくなった。自由な暮らしに戻れるんだ。喜ばしいことだろう?」
「誰が、自由になれるって?」
場違いなくらい、明るく励ますような父の言葉に、オーウェンはますます冷え切った声を返す。
「……北側で猟犬として育てられることが決まっているこの子の未来に、どこに自由があるって!?」
憤りがこめられた叫びが、兄の口から迸る。
「その子の未来がどうなろうが、おまえにはもう関係のないことだ。家族の縁はすでに切れたんだからな」
「違う。僕は……」
抱きしめてくる腕に、もう一度強く、力がこめられた。
「にい、さん……?」
おそるおそる名前を呼ぶと、やわらかな頬が擦り合わせられる。
はーっと深いため息とともに、四角い顔の男が、部下たちに銃をおろすよう促した。
「わかった。迎えのヘリがくるまで、一緒にいることを許可する」
「いいんですか?」
父が男に問いかけた。
「オーウェンといったな」
父の言葉を無視して、男がオーウェンの顔を覗き込んでくる。
「ひとつ貸しだ」
「…………」
オーウェンは無言で、睨むように男を見上げた。
「おまえが将来、サザンクロシードで出世したら、いつか借りを返してもらう」
「……わかった。一応、名前を聞いておこうか」
「セルゲイ・ナイシュラーだ」
「……覚えておく」
ゆっくりと腕がほどかれて、かわりに手を握りしめられた。
「ちゃんと、お別れを言う。それでいいだろ?」
「利口な子だ」
あいている船室に案内してやれ、と部下に指示する声が聞こえた気がするが、エスはもうなにも聞きたくなくて、俯いていた。
どこからか、低く唸るような機械音がずっと鳴り響いている。
耳鳴りみたいに聞こえて不快だった。
たまに、水の音も聞こえてくる。
部屋全体が、ずっと揺れている。
窓がないので外がどうなっているのかはわからないが、水の上、あるいは水の中にいることだけは常に伝わってきた。
どこに向かっているんだろう。
行き着く先がどこであったとしても、兄はもうすぐ、自分のそばからいなくなってしまう。
そのことだけは、子供ながらに理解していた。
ならばどこに行こうと一緒だと、暗澹たる気持ちで、エスは赤っぽい明かりの中の中に浮かび上がる兄の美しい横顔を見上げた。
いくつもの箱が積まれた倉庫のような狭い場所で、二人は手を繋いだまま並んで座っていた。
しばらく無言で虚空を見上げていた兄が、覚悟を決めたようにこちらを見る。
「エス」
その美しい声で、名前を呼ばれるのが好きだった。物心ついた時からずっと。
だけど今は、聞きたくなかった。
次になにを言われるのか、怖くてしょうがなくて、また耳を塞ぎたくなった。
「お別れだよ」
兄は静かな、深海を映すような瞳をしていた。
「…………どうして?」
聞きたくない。だけど、聞くなら今しかない。そんな気がして、小さな声で問い返す。
「僕たちはこれから、それぞれ違う、新しい家に帰らなきゃいけない」
「……ぼくらが、本物の家族じゃないから? だから、ずっといっしょにはいられないの?」
ぽつりと問いかけたエスの言葉に、オーウェンは整った顔を歪めて唇を噛んだ。
「…………確かに、僕らの間に、血の繋がりはない。父さんも母さんも、僕も、エスも……元々は誰一人、血が繋がっていない……偽造された書類の中で一時的に家族にされただけの……見知らぬただの他人だった」
「……っ」
「でもね、これだけは信じて。僕はきみのことを、本当の弟として愛していたよ」
握りしめるだけだった手の指が絡められる。
「…………」
「五年間、楽しかった。すごく。……あの時間は嘘なんかじゃない」
エスは今、九歳だ。五年前というと、四歳だ。
それ以前の記憶はない。それ以前は、家族じゃなかったというのか。信じられない。
「……いやだよ。兄さんのいない家に帰りたくなんてない。そんなの、ぼくの家じゃない」
泣き言をもらすエスの声はか細く、現実を拒否しつつも、現実にあらがう気力も失われつつあった。
「……そうだね。僕も……できることなら、きみを南側に連れて帰りたかった」
なんでもできるように見えた完璧な兄。そんな彼でも叶わない願いがあるのだということが、幼い心に絶望感を与えてくる。
「これからは僕がいなくてもちゃんと勉強してね。ちゃんとご飯食べて、どんなにこわいことがあっても、一人で眠れるようにがんばるんだよ」
「……むりだよ」
「できるよ。エスはとても強い子だから」
そんなこと、言わないでほしい。ずっとそばにいてほしい。他になにもいらないから。
「……できない」
「エス」
抱き寄せられて、頭を撫でられた。この手で頭を撫でられるのが、すごく好きだった。
「五年間、僕の弟でいてくれてありがとう。大好きだよ」
この時、もしかしたら兄は泣いていたのかもしれない。いつも頼もしいと思っていた兄の体が震えていて、その肩が思いのほか細いことに気づかされた。
兄だって、まだ十四歳なのだ。まだ子供で、思い通りにならないこともたくさんある。そんな当たり前のことに、今さら気づかされた。
だからこれ以上のわがままは兄を困らせるだけだとわかって、エスは無言でしがみつくことしかできなかった。
「……もし、ここが海の中じゃなかったら、きみの手を引いて逃げ出せたかもしれないのに」
誰にも聞かれないよう耳元で囁かれた声も震えていて、エスは鼻をすすりあげながら頷く。
叶わない、もしもの話でもよかった。兄がそう思ってくれているということが、エスにとってすべてだった。
「……ぼくも、兄さんが大好きだよ。兄さんはこれからもずっと、ぼくの兄さんだ」
たとえもう二度と会えなかったとしても。
「……ありがとう」
背中に回されていた腕がゆるめられて、ほんのりと目元が赤くなった美しい顔が間近から見つめてきた。
「エス、これだけは覚えておいて。誰を殺してもいい。エスだけは生き残るんだ。いいね?」
真剣な声音に、エスはすぐに、しっかりと頷いた。
「生きてさえいれば、いつか……」
いつか必ず、迎えに行くから。
そう、兄の唇が紡いだように見えたが、唇の動きから読み取っただけで、実際に声にはなっていなかったと思う。
兄のブルーグレーの眼差しと、エスの紫の眼差しが絡み合う。
そして、額と額を触れあわせ、言葉にならない思いを伝え合う。
どれぐらいの間、そうしていただろう。
永遠に続けばいいとすら願った幸福な時間は、しかしそう長くはなかったと思う。
ドアの向こうに立っている見張り役のもとに別の誰かがやってきて、何事か伝えている声が響いてきた。
扉が軽く叩かれる。
「時間だ。支度しろ」
目蓋を持ち上げたエスが瞬きしている間に、兄の体はゆっくりと離れていく。
最後にぎゅっと握りしめられた手もほどかれた。
ぬくもりが離れていく。
思わず伸ばしかけた手は、兄の服を掴むことなく、宙に浮いたまま握りしめられる。
すると白い手が伸びてきて、ふわりと軽く頭を撫でられた。
「いい子だね。きみは僕の、自慢の弟だよ」
とびきり美しい顔で微笑むと、兄は踵を返した。
ゆらゆらと規則的に揺れるような感覚が消えて、船のあちこちから、いっせいにいろんな音が響き始めた。
おそらくは、再び海面に浮上するためだろう。
迎えがきたのだ。
ドアの向こうに、兄の姿が消えていく。
こんな時、なんと言うべきなんだろう。
さよならと告げるべきだったんだろうか。それとも、またね、と手を振るべきだったんだろうか。
わからなくて、なにも言えなかった。
なにも言えないまま、これが、兄――オーウェン・ロゴフとすごした、最後の時となった。
気づいたら船員の一人が目の前に立っていて、荒っぽい手つきで手錠をかけられていた。
ともだちにシェアしよう!

