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元宮酒店

新店舗の片付けを終えて、夜の帳が下りかけた街を少し早足で歩く。 辿り着いたのは、昔から見慣れた看板が掲げられた、もとちゃんの実家の酒屋だった。 「こんばんは~」 引き戸を開けて店に入り、お酒の匂いが漂う売り場を抜けて奥へと進む。一階の酒店のさらに奥には、カウンターの裏手に小さなテーブルと椅子が置かれた、俺ともとちゃんだけの秘密基地のようなスペースがある。 「おお、秀太やないか! 待ってたで」   奥の台所から、エプロン姿のもとちゃんの親父さんが豪快な笑顔で顔を出した。居酒屋メニューを作るのがプロ並みに得意な親父さんは、さっそくお盆に載せた出来立ての美味そうなツマミを、テーブルにドンと並べてくれる。 「新しい店、オープンおめでとうな! 洸くんもスタイリストデビューやって? あんな小さくて可愛かった子が、ほんま大したもんや!」 「親父さん、ありがとうございます。おかげさまでなんとか形になりました。……うわ、これめちゃくちゃ美味そう! あ、そういえば、もとちゃんのママは?」 「ママ!? ママなら今、ご近所さんと外で井戸端会議中や。あいつ、秀太の店、自分も行きたい言うてたで」 親父さんが俺の言葉につられて「ママ」なんて呼ぶから、俺はちょっと吹き出しそうになる。 「ぜひ来てくださいよ。ママの髪も親父さんの髪も、俺が綺麗にしますから」 「いやぁ、あんな洒落た店、俺、両親連れてよういかんわ。おかんも『私みたいなのが行ったら恥ずかしいわぁ』言うてたしな」 「何言うてんねんもとちゃん。お洒落とかそんなん関係ないねん。来てくれるお客様は全員平等や。でも、それでも恥ずかしい言うなら、俺が道具持ってここに髪切りにきますよ。──ね、パパ?」 「パパ!?」 俺がふざけて「パパ」と呼ぶと、親父さんは一瞬目を丸くした後、めちゃくちゃ嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。 「ええなぁ、パパか……。おい宗一、聞いたか? 秀太にパパって呼ばれたぞ!」 「ちょっと秀太、調子乗らさんといて! ほんでオヤジ、満更でもなさそうな顔すんな!」 もとちゃんが真っ赤になって、親父さんと俺を交互に睨みつける。その頭は、さっき俺がカットしたばかりの格好いいスタイルのままだ。ソレが意外とこの古くて居心地のいい空間にマッチしていて、見慣れたはずのあいつが、いつもよりちょっと特別に見えてまう。 「何が満更でもないや、嬉しいもんは嬉しいやろ。秀太、こいつな、ここ一ヶ月くらいカレンダー見ながらずーっとソワソワしとってんぞ。今日だって、帰ってきてから俺に、美味しいもん急いで作れ、言うたくせに、自分は色気づいて一番綺麗な服に着替えてるんやからな」 「オヤジ! マジで余計なこと喋りすぎやろ!」 もとちゃんが慌てて親父さんの腕をバシッと叩く。 言われてみればほんまや。もとちゃん、店に来た時と服が違う。何やったら、さっき新品をおろしたんか、まだうっすらと折り目すらついている。 俺がそれに気づいてニヤニヤ笑うと、もとちゃんは「もー、オヤジのせいで酒が不味くなるわ……」とブツブツ言いながらも、どこか嬉しそうに、照れくさそうに手元のグラスを弄んでいた。 子供の頃から、こうしてもとちゃんの両親と笑い合う時間が大好きだった。親父さんもお母さんも俺を本当の息子みたいに可愛がってくれたし、もとちゃんと俺の仲を一番近くで見守ってくれていたから。 「よっしゃ、じゃあ俺はそろそろ注文の配達の準備があるから、お前ら二人でゆっくり飲みぃ。宗一、秀太のグラス空いたらすぐ次の冷えてるやつ出したれよ」 親父さんは俺の肩をポンと優しく叩くと、ひどく温かい目でニヤッと笑い、そのまま売り場の方へと歩いて行った。 親父さんの足音が遠ざかると、急に小さなテーブルの周りが、俺ともとちゃんだけの濃密な空間に変わる。売り場のラジオの音が、遠くで静かに流れていた。 「……ほんま、オヤジのやつ、いらんことばっかり喋って」 もとちゃんが、残った唐揚げをつまみながら文句を言っている。だけど、その耳の裏がほんのり赤いのは、親父さんの小言のせいだけではない気がした。 「ええやん。親父さん、相変わらず元気そうで安心したわ。……でも、ほんまに髪型似合ってる。カッコええわ。これなら金髪BARのお姉さんらにも、モテモテちゃうか?」 わざとからかうように言うと、もとちゃんは箸を止め、俺の目をじっと見つめて、ふっと柔らかく笑った。 「金髪のお姉さんなんか、今どーでもええよ。俺は、秀太にカッコいいって思ってもらえるのが、一番嬉しい」 小さな電球が、もとちゃんの真新しい髪を、そして少し真剣な瞳を優しく照らしている。 「……お前、まだそんな酒も飲んでないのに、ようそんな恥ずかしいセリフ言えるな」 俺は動揺を隠すために、目の前のビールを一気に煽った。心臓が、さっきよりもずっと大きな音を立てて暴れ始めている。 「なぁ、秀太。これからは俺の髪、ずっと秀太が切ってな? ……その間だけは、秀太はずっと俺のもん」 差し出されたもとちゃんのグラスが、俺のグラスにカチンと静かに重なる。 その言葉の本当の意味は、今はまだ、深く考えたらあかんような気がする。 でも、俺と同じや。こいつにも、親友としての俺に対して、少なからず特別な執着心や独占欲があるのを肌で感じる。 俺はもとちゃんからの真っ直ぐな愛おしさに満たされながら、この関係がずっと続くことを、心の底から願っていた。

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