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空くんのお兄ちゃん

あのもとちゃんの実家での温かい夜から、一ヶ月が経った。 新店舗は無事にグランドオープンを迎え、毎日が目が回るほどの忙しさだった。それでも、全てが順調で、幸せな軌道に乗った。……そう思っていた矢先のことだった。 その日はたまたま、一号店の様子を見に行く用事があり、俺は先に洸くんを家に帰らせていた。 用事を終えて夜遅くにマンションへ戻り、エントランスの明かりをくぐったその時、暗がりにポツンと立つ、見慣れた人影が目に留まった。 「……あ、秀太!」 弦だった。いつもなら家でのんびり酒でも飲みながら、テレビを見ている時間だ。それが今は、見たこともないくらい顔を強張らせて、俺の帰りを待っていた。 「弦? どないしたん、そんなとこで。洸くんは?」 「洸は……空くんと一緒に部屋におるよ」 弦は俺に歩み寄ると、周囲を気にするように声を潜め、俺の腕を引っ張るようにしてエントランスの隅へと促した。 「実はさ……夕方ごろ、陸さんが海外出張から突然帰ってきてん」 「え、陸さん? 帰ってくんのまだ先じゃなかった?」 「うん。それが、突然家に入ってきて……。その、ちょうど俺と空くんが、リビングで、こう……イチャっと、」 「はぁっ!? 見られたんか!?」 思わず大声が出て、俺は慌てて自分の口元を押さえた。 「いや! でも、チッス未遂やからな! まだチッスはしてへんかった!!」 必死にまくしたてる弦を見て、俺の眉間にはだんだんと深い皺が寄っていく。 いや、付き合ってるんやからそういうことをするのは当たり前や。やけど、わざわざ弟のそういう姿なんて想像もせんし、したくもない。それをこうして本人から言葉にされると、正直、背中がゾワッとする。 「それで……その場で、陸さんが『ちゃんと説明して』って、俺と空くんの3人での話し合いになってんけど、陸さん的には納得いってへんみたいで。怒鳴ったり、責められたりはせんかってんけど……だからこそ、余計に空気が重くて……」 弦がギュッと拳を握りしめ、痛みを堪えるように視線を落とす。 「陸さんが、何時でもいいから、お兄さんが帰ってきたら家に来てほしいって言ってんねん。一度、秀太と2人だけで話がしたいって。……空くんは何度も『俺から陸さんに話したい』って言うてくれてたのに、俺が頑なに『顔を合わせてからきちんと話したい』って意地張ってきた結果がこんなことになってもて。……ほんまにごめん」 「……わかった。俺もこんな大事なこと、なにも考えてへんかったから、俺にも責任はあるわ」 さあ、どうするか。 言うても、陸さんに何を言われようが、俺にはこいつらの味方をする以外の選択肢はないんやけどな。 弦は俺の目を真っ直ぐに見つめ、懇願するように声を震わせた。 「ありがとう、秀太。でも洸には絶対に心配かけたくないから、洸には言わんといて。洸と新くんには秘密にしてくれる?」 「……わかった。洸くんには言わん。とりあえず、俺、今から陸さんのとこ行ってくるわ。お前らは心配すんな。いつも通り、洸くんと楽しく時間過ごしとけばええから。空くんも帰りにくかったら、今日はうちに泊まってもらってええからな」 弦の肩をぽんと叩き、俺たちはエレベーターへと乗り込んだ。 上へと動き出した箱の中で、胸の鼓動が、激しく鳴り出している。 新店舗も無事に軌道に乗り、人間関係も全てが順調で幸せしか感じてこなかった日々が、まるで嘘のように不穏な空気が足元から冷たく流れ込んできた。 チーン、と無機質な電子音が響き、目的の階で扉が開く。 「じゃあ、行ってくるわ」 「……うん。頼むな、秀太」 弦はまだ不安そうな顔をしていたけれど、俺はあえていつもの頼れる兄貴の顔を作って、弦を自分の部屋へと向かわせた。 静まり返ったマンションの廊下。数歩歩けば、そこはお隣さん──陸さんの部屋の扉だ。 お隣さんとはいえ、顔を合わせれば笑顔で挨拶をする程度の仲。彼が普段どんな人で、どんな考えを持った人かなんて、わからない。 俺は小さく一つ深呼吸をして、覚悟を決めると、少し震える指で陸さんの部屋のインターホンを押した。 ピンポーン、と静かな夜の廊下に、間が抜けるほど高い音が響き渡った。 ……数秒の沈黙の後、内側からカチャリと鍵の開く重い音がした。 ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは、帰ってきてから時間が経っているはずなのに、少しの乱れもなく仕立てのいいスラックスにシャツを着こなした陸さんだった。 空くんに似た、誰もが振り返るような端正な顔立ち。いつもなら「こんばんは」と爽やかに細められるその目が、今はどこか静かで、深い光を湛えている。 「──秀太さん。夜遅くにすみません。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」 トーンはいつも通り、どこまでも礼儀正しく、穏やかだった。怒りの色なんて微塵も感じられない。だけど、だからこそ、その大人の余裕がこちらの緊張を加速させる。 「いえ、こちらこそこんな時間にすみません。うちの弟から話は聞きました」 「そうですか。話が早くて助かります。……立ち話もなんですし、どうぞ、中へ入ってください」 陸さんは綺麗に整えられた玄関で、俺を迎え入れるように一歩下がった。

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