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愛の印

火曜日の朝、エントランスで陸さんに「今度カフェデートに連れていってほしい」と思わせぶりに仕掛けて別れた、その日の夜のこと。 「秀太さん、兄貴が秀太さんの連絡先を教えて欲しいって言ってるんですけど、教えてもいいですか?」 リビングで、弦とお茶をしていた空くんが、ソファにいる俺に向かってスマホの画面を向けてきた。 早々に作戦に引っかかったかと胸の内で頬を緩めながら「うん、ええよ」と返すと、ポケットの中で、まるで待ち構えていたかのようにすぐに新着のLINEが跳ねる。 アカウント名は『蜷川陸』。真面目で几帳面そうな彼にぴったりの、漢字フルネームの表示だった。  最初のメッセージは、丁寧な挨拶の後に、次のデートの予定をスマートに伺うものだった。 「陸さん、送信早すぎん? まるで、もう入力済んでたみたいな早さやったな」 弦が画面を覗き見ながら笑っているけれど、それ、陸さんなら本当にありそうで怖い話やな。一応、空くんに伺い立てて、アリバイ工作を作ってから送信ボタンを押してそうやもん。 「なんだったんですか、メッセージの内容。……俺らの事やったりします? 秀太さんにご迷惑をおかけしてないですか?」 不安そうな空くんと、それに釣られてらしくない硬い表情になった弦が、俺のことをじっと見つめてくる。 「ん、いや。兄貴同士仲ええ方がええやろ? やから、親睦を深めようと思ってな。次の休みの日にカフェでも行こかって話してて」 俺が、心配すんなとでも言うように極上の笑顔を送ると、二人はどこか複雑な顔をして顔を見合わせた。 そうやんな。まだ陸さんが二人のことを完全に許してないから、こうやって俺が陸さんの機嫌取りをしているように見えてまう状態なんやもんな。でもな、それは逆でもあるんやで。なんやったら今必死なんは、あっちの方やから。 『次の休み、月曜日なんですけど……やっぱり平日は難しいですか?』と美容師の固定休をぶつけてみると、間髪入れずに返信が返ってきていた。 『いえ! 月曜日ですね。有給を取ります。何が何でも調整しますので、ぜひ私にエスコートさせてください』 完璧なエリートサラリーマンのはずの男が、平日に有給をもぎ取ってまで、俺に合わせてこようとしている。 そのなりふり構わない必死さに、俺の仕掛けた計画が順調に動き出した事に深く安堵した。 ♢ デート前日の日曜日の夜。仕事を終えて一人でマンションに帰ってきた俺は、駐車場の暗がりからぬっと出てきた大きな人影に、心臓が跳ね上がるのを感じた。 「……もとちゃん!?」 街灯の光の下、俺の方に迷いなく歩いて来るのは、あからさまに不機嫌なオーラを全身から放った、世界一愛おしい俺の幼馴染だった。 「なんや、びっくりしたやん。陸さんかと思ったわ」 俺が少し照れ隠しに笑いかけると、もとちゃんの眉間のシワが一気に深く刻まれる。 「陸さん、な。俺で悪かったな。ほんで、弦に聞いてんけど、俺に黙って明日は二人でカフェにお出かけか?」 「あ、いや、黙ってたって訳じゃないんやで。っていうか、別にええやろ。俺らまだ恋人でもなんでもないんやし」 そうや、あえて彼に俺の本当の思いをまだ伝えへんのは、彼と心が通じ合ってしまうと、作戦に隙が出るから。どうしても俺はこのミッションを完璧に完遂したい。そして、その暁には、お待ちかねの、もとちゃんというご褒美もこの手に入れたい。 「……まぁ、そうやけど。秀太、今からお前の部屋行っていい?」 「え? うん、ええよ。家なら今、洸くんしかおらんし」 俺はすっかり軽い気持ちで頷いた。リビングに洸くんがおる限り、そう言う雰囲気にはならんやろと高を括っていたのだ。 しかし、マンションの部屋に入ると、状況は一変する。 リビングでテレビを観ていた洸くんは、ただならぬ殺気を放つもとちゃんを見て一瞬で空気を察した。 「あ、俺、ちょっと……新くんのとこにでも飲みにいってこよかな。明日休みやし、お泊まりしちゃったりして。ほら、弦と空くんもレイトショー観に行ってるし、当分この家には、誰も帰ってこうへんな、はっははぁー」 「えっ! ちょっと洸くん!?」 引き留める間もなく、洸くんは変な笑い方のまま、鞄をひっつかんで音を立てて玄関を出て行ってしまった。 一瞬にして二人きりになった静かなリビングで、俺はもとちゃんの、低く冷たい視線と真っ向からぶつかる。 「……秀太の部屋行っていい?」 「……え、誰もおらんからここでよくない?」 一瞬であの朝の事を思い出す。俺に「好き」と言わせるために、もとちゃんがベッドの中で取ったあの意地悪ないたずらが今更、頭の中をぐるぐると回って、途端に緊張が押し寄せてくる。 「さっき秀太の部屋行ってええって、言うたやんか」 「っ! それは家って意味で!」 俺の言い訳を最後まで聞く前に、彼の大きな手に強引に腕を引っ張られ、俺は自分の寝室へと連行された。 バタン、とドアが閉まる音がやけに大きく心臓に響く。 そのまま背中を壁に押し付けられ、彼の広い肩が視界を完全に塞いだ。 「で、いつまで待てばいいん?」 余裕のなさそうな、でも、少し悲しそうな光を湛えた目でもとちゃんが俺を見つめている。 壁に挟まれた俺の心臓は、うるさいくらいにトクントクンと跳ね上がっていた。 「もう、ちょっと……もうちょっとで終わるから」 「……やっぱり二人きりで陸さんと会うのは、嫌やねん。秀太に待っとけって言われたけど、もう待てへん。それに、好きな人を危険な目に遭わせることは、もうしたない」 懇願するような、絞り出すような声と一緒に、もとちゃんに力強く抱きしめられた。 骨が軋みそうなくらい強い力。だけど、その腕の中はどこまでも優しくて、愛おしい熱に満ちていた。 「っ……もと、ちゃん……」 弱く肩を押して抵抗してみるものの、耳元で聞こえる彼の速い鼓動に、俺の身体の力はどんどん抜けていく。 ああ、あかん。幸せすぎて、全然力が入らへん。このまま溶け合っていけたら、どんなけ幸せなんやろう。 「……俺の印、つけとくから」 低い声が耳元を掠め、もとちゃんの顔が俺の無防備な首元へと降りてくる。 印って……もしかしてキスマーク!? いや、それは明日だけやなくて、今後の美容師の仕事にも支障きたすやろ! 「待って、もとちゃん! 早まんな!!」 焦った俺は、熱すぎる赤面を隠しながら、思いっきりもとちゃんの胸板を押して突き放した。 ハァハァと息を荒くする俺の前で、もとちゃんはふっと不敵に笑い、ポケットから何かを取り出した。 「なに勘違いしてんねん。秀太、思春期ちゃうねんから」 「へ……?」 もとちゃんがそう言いながら、楽しそうに笑って俺の首元にそっと手を伸ばし、かけてくれたもの。 冷たい金属が鎖骨に触れ、俺が下を向くと、そこには胸元で静かに、美しく光るネックレスがあった。 「ほんまは行かせたくない。だけど、秀太を信じたい自分もおる。やから、せめて秀太は俺のもんっていう印をつけときたい。明日、これ絶対つけてけよ」 嫉妬を隠しきれない、でも独占欲に満ちたもとちゃんの顔を見て、俺の胸はこれ以上ないほど甘い痛みで満たされた。 心臓が痛い。本気の恋は、こんなに苦しいものなんか。 胸元の冷たい鎖を愛おしそうに指先でなぞりながら、俺はもとちゃんに、「わかった」と笑顔で深く深く頷いた。

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