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第1話 暗殺
「美桜 の新たな頭 、桜都 を討て。さもなければお前の命はない」
今、菊正 は首を絞められていた。
視界に映る逞しい腕には無数の古傷があり、彼が幾度となく戦場を生き延びてきたか想像に難くない。逃げる、という選択肢は最初から存在しなかった。
目の前にいる男────
勝日部 は菊正の主君だ。
八年前、菊正はこの男に拾われ、忠義という名の鎖を首に巻かれた。そしてその鎖は今も、少しも緩んではいない。
「かぁ……ッ」
菊正は喉の奥が凍りつくような感覚を覚えた。喉が圧迫され呼吸が途切れる。酸素を求めて必死に体を仰け反らせるが、長年の鍛錬で培われた屈強な体からは逃れられない。十八の男が三十年以上訓練を積み上げてきた男に勝るなど、無理な話であった。
おもむろに勝日部が手を離し、直後、一気に肺へと空気が流れ込んだ。
「かは……っ、ごほ、ごほっ」
床に膝をついた菊正を、勝日部は冷たい瞳で見下ろす。
「美桜の情勢は変わった」
低い声が頭上から降ってきた。
「頭首の急死により、あの国は不安定な状態にある……わかっているな?」
「……はい」
菊正は荒い呼吸を繰り返しながら、掠れた声で返事をした。
「わかったならいい。行け」
「失礼します」
菊正は深く頭を下げると、そのまま視線を上げることなく踵を返した。首元にはまだ、先ほどの手の感触が残っている。そこにそっと手を触れながら、思考を巡らせた。
────美桜国。
近年、圧倒的な戦力で近隣諸国を次々に呑み込み、急速に力をつけてきた国だ。その隣に位置する勝日部の治める国、|碧瑠《へきる》国とは長年の犬猿関係にあり、幾度もの戦いを重ねてきた。その頂点に立っていた指揮官が死んだ今、碧瑠国から刺客を送り込むのは、最大の好機だった。
(新たに美桜国を継いだ、桜都 ……)
菊正は静かに息を吐き、意識を現実へと戻した。襖を開ける音と共に、外へと一歩踏み出す。
*
群雄割拠の時代。
どこどこの国が潰された、新たな新興勢力の筆頭。街に出ればどこもかしこも噂話で持ちきりであった。そのほとんどが誇張された、もしくは全くのでたらめであることが多い。しかし、ごく稀に真実が紛れていることもある。
ただ、話し合っている当の本人たちにとって、それが嘘なのか真実なのかはどうでもいい。重要なのは、退屈しのぎ出来るかどうかだった。
「新しい上様は桜都 殿だってよ」
「あの無能で威張り散らしてるって噂の男か。はっ、終わったな、この国」
「ははっ、違いねえ」
その様子を、菊正は平然を装いながら耳をそばだてていた。
(どうやら、民からの支持は薄いらしいな)
潜入初日にしては悪くない情報だった。
「すみません。みたらし団子を一本お願いします」
菊正は店の前で足を止め、世間話に花を咲かせている男二人に声をかけた。
二人はすぐさま正面に向き直り、貼り付けたような笑顔を浮かべる。しかし、その表情は菊正の顔を見るなり驚嘆に変わった。口をパクパクとさせながら、視線が目の前の人物に吸い寄せられていく。
深緑色の小袖に黒の袴を合わせた清楚な出で立ち。生地は一目でわかるほど上等なもので、庶民の朝市には不釣り合いだった。しかし、彼らが言葉を失っている理由はそれだけではない。
薄い緑と茶色が混ざったまん丸の瞳と、光に反射して揺らめく巻き毛。思わず動物を撫でるように触れてみたくなるほどだ。
が、彼の身長は人目を引くほど高く、それが叶う人物はごく少数であろう。しかし、それを可能に思わせてしまうほど、菊正の雰囲気は柔らかいものだった。
「あの……」
まじまじと見られていることに気づき、菊正はほんのり頬を赤らめた。もう一度注文を口にする。
「みたらし団子を一本お願いします」
「か、かかかしこまりましたっ!」
男の声が裏返る。
それは身分の高い者を相手にしているのが半分。もう半分は男であっても惹きつけられずにはいられない、彼の存在そのものだった。
店員は慌てて団子を包むと、震える手で商品を受け渡した。菊正は「ありがとうございます」と小さく微笑み、背を向けた。だが、振り返った先には若い娘たちのみならず、屈強な男や背中を丸めた老人まで、みんなが菊正に釘付けになっていた。
(し、しまった……)
ここで面倒事を起こしてしまうと困る。
菊正は愛想笑いを浮かべながら、人垣を分けて進み、懐にそっと手を当てた。確かな感触を確認し、ふうと息を吐く。
(これは、城に行くための大切な文……)
ふと、遠くに見える建物が目に入った。
空まで届くような、高く高く上へと伸びた城。真っ白な壁が、太陽の光を反射して眩しく輝いている。
(あそこに、いる……)
桜都。自らが討つべき、その男が。
菊正は団子を口へ放り込むと、城へ向かった。
*
城の上層部。
そこに一人の青年が、城下町の景色をぼんやりと眺めながら座っていた。その表情は驚くほどに冷たく、瞳は全ての光を吸収するように何も映していない。
ザッと襖の戸が開いた。
それでも青年は背後を振り向くことなく、ずっと外の景色を見続けている。
「桜都殿、ここにいらしたのですか」
「……今日は、待ち人が来るからな」
何の感情も含まない静かな声。
「殿が公務を抜け出すなんて、何事かと思いました」
その声が聞こえているのかいないのか、彼の表情は相変わらず冷え切っていた。
しばらくして、ふと顔がわずかに動いた。ずっと見ていなければ気付かない、わずかな表情の変化だった。形の良い唇から息が漏れる。
「ほう……やっと迎えに来たか」
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