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第2話 美桜城
「止まれ」
低く冷たい声が、菊正の耳に届いた。
城門の前には門番が二人おり、部外者を城内に入れないよう見張っている。刀を鞘から抜かないものの、もし不審な動きをすれば、一瞬で斬りかかってきそうな気迫だ。
菊正は懐から文を取り出すと、丁寧な動きで紙を開き門番に見せた。
「今日から桜都殿に仕える、菊正と申します」
門番は文を訝しげに点検し始めた。
この類の手法を使って城内に入り込もうとする輩が、後を絶たないのだろう。二人は始めこそ険しい顔をしていたが、文に押された印が本物とわかるや否や、姿勢を正した。そして門を開けるように門役に指示する。
菊正は開け放たれた門へと足を踏み出した。その一歩は、使命感を伴う一歩だった。
菊正がここに来た理由は、桜都に仕えるためではない。それは表向きにすぎず、彼の忠義は勝日部にのみ捧げることが許されている。桜都を暗殺し、この国を勝日部のものにする。それが彼に託された使命であった。失敗など許されない。
城内へ足を踏み入れた菊正は、まずその雰囲気に驚かされた。前任の頭首といえば野蛮、横柄、横暴、と巷では噂されており、城内も殺伐とした雰囲気なのだとばかり思っていた。しかし実際は、真逆と言ってもよい。
道行く人々は和気あいあいと公務をこなしており、その光景からはついこの間まで暴君が治めていたとは思えない。
碧瑠国の城内の方がよっぽど居心地が悪い。常に相手の隙を探り、蹴落とし合う監視社会は、菊正の温厚な性格とは元来合っていない。他の家臣たちより極めて端正な容姿であることから、いじめの標的にされることも少なくなかった。
一瞬、ここでの生活も悪くないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。
(……っ、僕は何を考えて……)
菊正は頭を大きく左右に振った。
否。
自分は勝日部の手から逃れるためにここに来たのではない。任務を遂行し、勝日部の家臣として名を上げるためにやってきたのだ。
「よし、待ち合わせの時間までまだ余裕がある。一旦城内を見ておくか」
来る前に城内の地図は頭に叩き込んである。勝日部が極秘ルートで地図を入手しており、それを暗記しているからだ。しかし地図と実際の城が完全に一致しているとは限らない。実際に歩いて確かめることが、今後の作戦を立てるのに大きく役立つ。
城の中枢に近づくにつれ、道が細く、曲がりくねった作りになっていく。地図を脳裏に描きながら歩いているとはいえ、それもほとんど意味をなさないほど複雑な構造だ。
何度目かの角を曲がる。
その先の道には、先ほども見たかのような廊下がのびていた。
「迷ったかな」
脳内の地図で追いきれなくなったのは、二つ前の角を曲がった時だ。一度引き返そうと後ろを振り返る。
その瞬間、何かが目の前をひらひらと舞った。それは右、左と踊るように回転しながら地面へ落ちていく。動きが完全に止まったのを見て、菊正はそれを拾い上げた。
桜の花びらだった。
「どこから……」
すでに道に迷っているのだから、どうせなら探検しよう。そう気持ちを切り替えると、足取り軽く歩き出した。
基本、城内には多くの人が行きかい活気がある。しかし今歩いている廊下は、全くと言っていいほど人気がなかった。何か城の禁域へ足を踏み入れているような気持ちになるが、それと同時に己の好奇心が高まっていくのも感じた。
幾度も折れ曲がる道を抜けた先に、塀の影に紛れるように、小さな木戸があるのを見つけた。扉を迷わず押し開けた瞬間、視界がひらける。
(眩しい……っ!)
突然の明るい光に、思わず目を細めた。
目が慣れるのを待ってから顔を上げると、目の前には一面の桃色が広がっていた。無数の桜の木だ。そこだけ、春が閉じ込められて時間が止まっているかのようだった。
ずいぶんと昔に、菊正は桜の木を一度だけ見たことがあった。
碧瑠と美桜の国境沿いに、両国が友好的だった大昔、美桜から贈られてきた桜がある。とはいえ、五本ほどの桜の木が申し訳ない程度に花を咲かせているだけであって、今目の前に広がる光景とは、全く異なっていた。
自身の桜のイメージがいかに本物からかけ離れていたか、今さらながらに思い知らされる。
そよ風が吹くたび、誘うように揺れる枝。
葉のこすれる音が心地よく、舞い散る花びらは日光に照らされて宝石のように輝いていた。
いつまで立ち尽くしていたのだろう。
ふと、背後に人の気配を感じた。
景色に見とれていたせいで、背後を取られたことに気付かなかった。
人一倍気配や物音に敏感な菊正が背後を取られるなど、今までに一度もないことだ。反射的に刀の柄へ手を添えそうになるのを堪え、そっと後ろを振り返る。
「……っ!」
太陽に照らされ、所々白く見える漆黒の髪。風が吹くたび、艶やかなストレートの黒髪が、誘うように舞う。目も同様に、すべて吸い込むかのような黒色だった。白い肌に形のいい唇が紅を添えている。
(女?いや。服装から察するに男か……?)
女と見紛うような美しい男。
もし笑顔を向けられれば、女も男も関係なくみな虜になるだろう。しかしその唇は厳しく引き結ばれ、一切の表情が読み取れない。こちらの出方を窺うように、じっと観察している。
「お前が菊正だな」
鈴が鳴ったように澄んだ声。
その声色は、疑問ではなく確信を持った問いかけだった。
「は、はい。今日から桜都殿にお仕えする、菊正です」
菊正は美しい彼に見惚れながら、なんとか声を絞り出した。
「ついてこい」
彼は短く言い放つと踵を返し、歩いていく。菊正も慌ててその後を追った。
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